いちごミルク
十月十五日 海上
――日本海の魚は夏と冬の海水の温度差やエサとなるプランクトンが豊富なため脂の乗った魚になる。そして太平洋の魚はなんとかという潮の流れが速いため身の引き締まった魚になる。そんな豆知識をどこかで聞いたことがある。
地元の山口県はフグが有名だ。フグとかフクとか色んな呼び方があるが正直言ってどっちでも良いと思っている。もちろんフグの他にも美味しい魚介類は沢山ある。例えば……イカとか。これは地元びいきになってしまうかもしれないが山口県の魚は他の場所と比べてとても美味しい。上京してとあるお店で魚を食べたがなんだか物足らなさを感じたことを今でも覚えている。これも日本海と太平洋の違いなのだろうか。しかし太平洋の魚にも良い所はたくさんある。一口食べただけで心が満たされるような気がするし幸せになれる。そんなことを考えていたら魚が食べたくなってきてしまった。今日の晩、事件が何も起こる事なく定時で帰宅することが出来たらスーパーで魚を買って帰ろう。そう決めた。決して太平洋の魚のご機嫌取りをしようとしている訳ではない。……とはいえあまり日本海のことを褒めると今、現在進行形で荒れ狂っている太平洋が嫉妬しさらに荒れ狂ってしまうかもしれないのでここら辺にしておこう。
そう、今私は高波で荒れ狂う太平洋の上にいる。
丸中恵は警視庁捜査一課巻班に所属している巡査長だ。
そんな彼女がなぜ荒れ狂う太平洋の上にいるのか、その理由はある事件の被害者の遺留品をご遺族の方に返却するためだ。
二週間ほど前、東京都千代田区神田駅周辺の路上で一人の女性が殺害された。その女性の名前は「一ノ瀬由香」、二十歳の大学生。死因はナイフで腹部を複数回刺されたことによる失血死だった。先に言ってしまうと犯人は無事に逮捕された。一ノ瀬由香を殺したのは同じ大学に通う一歳年上の交際相手の男だった。殺害の動機は主に金銭トラブルだった。それから事件の後処理なども滞りなく行われ犯人は起訴された。事件の捜査に関わっていた刑事たちの肩の力も抜け今回もお疲れさん!と、今日は一杯飲みに行くか!という雰囲気になっていた時に偶然近くの廊下を歩いていた恵はこれまた偶然出会った自分の班長に呼び止められた。ちなみに言うと恵が所属している班はその捜査に参加していない。それなのに班長から「被害者の遺留品をご遺族に届けて欲しい」という頼みを受けた。郵便じゃダメなんですか?と聞いた恵に対して班長は目を伏せ微笑みながら首を振った。あの時のあの表情の意味は何だったのか、未だその真意に辿り着くことは出来ていない。もう一度言うが恵の所属する巻班はその捜査に参加していない。
「はぁ……」
恵はため息をついてそのまま顔を右に向け隣に座っている青白い顔をした男性に声を掛ける。
「太平洋に流れている潮の名前って分かります?」
「……黒潮と親潮」
「あぁ、そっか」
学生時代に授業で聞いたことがあるようなないような気がする。記憶力には自信があるが今まで生きて来た中の全ての雑学を認知している訳ではない。心なしがモヤモヤが晴れた恵は一人満足そうに頷きながら思い出したかのように隣の人物に再び声を掛けた。
「先輩、大丈夫ですか」
「……この状態を見て大丈夫だと判断したのなら今すぐ眼科に行くことをオススメする」
「心配してるのに……」
「心配をしているのならなぜ君はさっき俺に対して質問をしたんだ?隣で青白い顔をした人物がいたのならまず最初は心配だろう、質問は二の次だ」
「けどちゃんと答えてくれたじゃないですか。あと船酔いしたときは気分を紛らすために会話をした方がいいらしいですよ」
「……そうなのか、因みに俺は今めちゃくちゃ気持ち悪い。出来れば……いや頼むから話しかけないでくれ」
恵と共に軽快な会話をしているのは彼女と同じく警視庁捜査一課巻班所属の「轟木研一」巡査部長だ。今日も今日とて紺色のスーツと紫色の無地のネクタイがいい味を出していてそこそこ良い顔の良さを引き立てている。
今は荒れ狂う波から逃れるため船の内側に移動したので被害はないが先程までは天候も安定しており海を眺めるために手すりに掴まっていた。そんな中急に天気が急変し、強風と共に海から船に襲ってきていた高波の影響でスーツが濡れた。それに加え船酔いによる顔色の悪さで轟木のそこそこ良い顔が少々台無しになっている。
「スーツも濡れてせっかくの良い男が台無しですね」
一見して見ると褒め言葉のように聞こえるが実際はただの皮肉である。数年バディを努めている轟木もそのことを理解している。
「それは君もだろう。『いちごミルク女さん』」
「なっ……なんてことをっ!!」
突然の言葉に恵は狼狽えながらも座った状態で自身の身なりを見た。
朝見た今日の占いで十月生まれの人の順位は一位だった。ラッキーカラーはコーラルピンク、恵はグレーのパンツスタイルのスーツに白いワイシャツ、足元はピンク色に白い線が入っているスニーカーと合わせた。朝登庁した際も同じ巻班の先輩たちから「今日も決まってるねぇ」などとお墨付きを貰ったので仕事のモチベーションもかなり上昇したのも事実だ。その時その場に居た轟木だけがそっと部屋を出て行き数分後、すぐそこの自動販売機で買ったと思われるいちごミルクオレを恵に手渡した。当時は恵もよく分からないけどラッキーという感覚だったがあれはこの服装をいじっていたのか……!とたった今理解した。
「酷いです、セクハラですよ」
「はいはい」
轟木も軽く受け流しており問題があるように見えるが二人にとってはいつもの事なので特にこれといった追求はしない。
「……ところでなんですけど」
話の話題を変えるかのように恵が口を開いた。
「ん?」
「先輩って船酔いするタイプだったんですね」
「あぁ、とはいえまさかこんなにも自分の三半規管が弱いとは思っても無かったがな」
そう、先ほど太平洋の上にいると言ったが正しくは太平洋を運航している漁船に乗っている。なんにも被害者の実家があるのが東京から三十分程度離れたところに位置する小島でどうやら観光客向けの船なんてものもない、普通警察が所有する船で行くのがセオリーなのだが島の方のご厚意により船に乗せて貰ったのだ。しかしご厚意のはずなのだが当の操縦士はどこか迷惑そうな顔をしていた。
ちなみに東京湾を出たときは少しばかり心地よいそよ風が吹いていて「もうすっかり秋が近づいてきましたね」「数日前の台風の残り風か?」と呑気な会話をしていたのだがものの二十分弱ですっかり強風で波が大荒れになってしまった。一体何があったんだ。雨が降っていないのがせめてもの救いと言っても良いだろう、まぁ普通についさっきまで波の水しぶきが降りかかってきていたのだが。
「そもそも船に乗る機会があまり無かったからな。母の実家が沖縄で海を渡る機会が昔はあったがあいにくそこへ行く手段は飛行機一択だったしな」
「へぇ……」
「……さてはお前、興味ないな?」
ジト目で見つめてくる轟木を尻目に恵は上着の右ポケットにゴソゴソと手を突っ込みだした。
「先輩、飴とチョコレートどっちがいいですか?」
「どっち……あー、飴。何で?」
「船酔いには飴とかチョコレートが効くって昔どっかで聞いたことがあるんですよ。確か血糖値が上がっていい感じみたいな……?」
「はぁ……さんきゅ」
差し出された手から飴の包みを受け取り固まった。
「おい」
それはそれは地を這うような声だった。
「これ、飴は飴だが……チョコレート味じゃねぇか」
「私がソーダ味やらコーラ味の飴を持っていると思いますか?」
「……お前がチョコレートに取りつかれている人間だということをすっかり忘れていた」
船のエンジン音と口の中で転がる飴玉の音が響く船の上、恵は心地よい揺れにウトウトとしていた。そんな彼女の横で比較的に完全とは言えないが顔色がマシになった轟木は特にすることもなかったので携帯を取り出した。
「お、電波入る」
と言っても特別大切なメッセージが届いている訳ではなかったので適当にトップニュースを徘徊した後、『今日の占い』というページを開いた。
二年ほど前、恵とバディを組んで数か月経ったある日に突然、「先輩!ここのサイトおすすめです!」とキラキラとした目で詰め寄られたことを覚えている。当時の轟木も断る理由が無かったので言われるままに開かされたものが気が付くと毎日開いてしまうルーティンになってしまった。先輩におすすめするサイトが日替わり占いなのはどうかと思うが意外と見るのは楽しいのも事実。彼女から教えてもらったサイトはその日の仕事運や健康運はもちろんのことラッキーアイテムやラッキーグルメ、ラッキースポットなどまるで今日一日の予定を決められているような気分になるようなものなのだがそこが味がある。普段はあまり占いなど信じないタイプの轟木だがこのサイトを愛用している。
「……げ」
五月生まれの轟木はそのページを見て思わず苦い声をもらした。『総合順位』の欄に最下位と書かれている。しかもその文字が禍々しくデフォルメされており余計精神的なダメージを受けてしまっている気がする。確かに今の状態は占い最下位にふさわしい。その最下位の内容というのは全ての運が星一、説明文の冒頭には必ず『残念ながら』という決まり文句がある始末。このサイトは少しくらい『手加減』というものを覚えてもいいくらいだ。そんな散々な占いを見せた後に申し訳程度のラッキーカラーが『サンフラワー』と名前を聞くだけでも明るい色だと分かる、多分黄色かオレンジ辺りだろう。
「……」
轟木は隣で眠りこけている人物を横目に見る。やたらいちごミルクを連想させるような服に身を包んでいる彼女の今日の運勢はどうなのだろうか。試しに十月のページを開いてみた。そしてそっと閉じた。
「なんで一位なんだよ」
ラッキーカラーは今日の服装で大体検討が付くので見ない。どうせピンクとかそこらへんだろう。ていうかなんでこの女はこんな呑気に眠りこけているんだろうか、先ほどまでこの世の終わりと表現してもいいほどの船酔いに苦しめられていた轟木は隣でそこそこの船の揺れの中のうのうと眠りこけている人物が怖くなった。
そういえばこんなに強風が吹き荒れているが天気の方はどうなのだろう。天気のサイトを開いてみるが傘マークはない。一応のため雨雲レーダーも見てみる、すると数十分後に目的の島よりちょっと北側で雨雲が発生する予報が表示されていた。念には念を持って用事を早く済ませて退散しよう。折りたたみ傘なんてものは持ってきていない。
「刑事さん」
「!はいっ」
不意に呼ばれて声の聞こえた方に目を向けると操縦席の方から初老の男性が顔を覗かせていた。
「あと五分くらいで着くよ」
いかにも『面倒臭いです』というような声色で告げられた内容にすばやくお礼を言い立ち上がった轟木はそのまま身を乗り出す勢いで船の外の光景を眺めた。
少し離れた場所に現れた中くらいの島はおそらく生活圏として活用されている島と小さめで三分の一程度の小島に分かれている。特に何の変哲もない島のように見えるがどこか轟木は何かが肌を這いずり上がって来るような感覚に身震いした。
――まるで外部からの侵入を拒絶しているようだ。
長年刑事として培ってきた勘がそう言っている気がした。
轟木は世間一般で言う『霊感がある』というタイプの人間に分類される。一番初めに『その姿』を認めたのは確か幼稚園時代だったと思う。時々誰も居ない部屋の片隅に向かって話をしていてそれを家族に恐れられたりもした。それから結局高校時代まではギリギリ視えていたはずだ。『大人になるにつれて霊を視ることが出来なくなる』という噂は本当だった。実際轟木が交番勤務時代、道行く小学生たちと戯れている頃には『霊』なんてものの存在も忘れかけていた。夏のある日これといった家具もない部屋で一人、何の気なしにテレビを点けた時に偶然流れている心霊番組を見て存在を思い出すような程度だった。そんな霊とは無縁の生活……刑事という職、なんなら捜査一課の刑事という職なので実体のある死んだ人間には嫌でも関わるような生活なのだが、いかにも……!な存在には出会っていなかった。
何もいない空間に対して独り言を喋り周りの人間をビビらせるようなこともない平和な生活を送っていた轟木に神様がとんでもないものを届けてきた。
「……先輩?なに海を眺めながら黄昏てるんですか?残念ながら画にはなってないですよ」
そう、この可愛くない後輩である。恵はゆったりとした足取りで轟木の隣へとやって来た。
「おはよう。あと数分で着くみたいだ」
「へぇ、あっという間に着きましたね」
「お前はのうのうとぐっすりと眠りこけてたからな」
ほれ、あれを見よ。という風に少しずつ近づいてきた島を右人差し指で示すと横から小さな歓喜の声が聞こえてきたがすぐにそれはおさまった。
「……なんだが変な感じがします」
次に聞こえてきたのは先程の歓喜とは程遠い神妙な呟きだった。
そう、実は恵も霊感のある人物なのだ。そして平和な日々を過ごしていた轟木に神様が送り届けたとんでもないものというのも彼女である。元々霊感があった人物に進行形で霊感を持っている人物が近づくと相乗効果(?)で霊感が復活してしまったのだ。この世で一番望んでいなかったものなのは間違いない。
一つ若い頃と違うところを挙げるというのなら『霊との会話が出来なくなった』ことだろうか、姿を認識することは出来るが意思の疎通が不可能となってしまった。
「やっぱりお前も感じるか、この異様な雰囲気を」
轟木の言葉に恵はゆっくりと頷くと肩から掛けていた黒色のカバンの中から透明な袋を取り出した。中にはピンク色のウサギが描かれたポーチが入っている。神田町の事件で亡くなった被害者の遺留品だ。丸っこい黒い目がジッとこちらを見つめていて少し不気味だ。
「……なんだか、嫌な予感がします」
恵は透明な袋を持ったまま目の前にある荒れ狂う波の中ひっそりと浮かぶ島を再び眺め、小さく呟いた。




