244 館の地下にあったもの
元老院最高議長の館は、ファルグレアの中心から少し離れた高台の上にあった。
広大な敷地には、本館の他に二つの別館がある。
全周は石造りの外壁と鉄柵に覆われ、質の高い魔法結界が三重に張られている。
白金の装飾が施された正門をくぐった先には、幅広い大理石の石畳が続いていた。
両側には美しく剪定された月桂樹の並木が植えられている。
帝国聖教に記述があるという十二支族の石像が一定間隔で並んでいた。
そのうちのいくつかに魔法を使った何らかの警戒装置が仕掛けられているのを、かすかな魔力の流れから感じる。
だけど、反応はしない。
気づいていないふりをする。
結界型の静音魔法によって、あたりは異様なまでに静かだった。
蹄が大理石を叩く高い音が、やけに大きく響いているように感じられる。
大きな正面玄関の前で馬車が止まる。
「ようこそお越し下さいました。元老院最高議長閣下に代わりまして、謹んでご挨拶申し上げます」
馬車を降りた私と殿下を迎えたのは、長身の執事さんだった。
銀灰色の髪は短く整えられている。
漆黒に近い濃紺の執事服。
襟元と袖口には銀糸の刺繍が小さく施されていた。
「最高議長閣下は、今日の会合を心待ちにされておりました。どうぞ館内へ」
「ありがとう」
殿下は微笑んで言って執事の後に続く。
なんとなく、嫌な感じがした。
今夜行われる秘密の会合については、王の盾の皆も知らない。
彼らは殿下が館にいると信じて今も警護を続けている。
この会合を知っているのは私と殿下が手配した荷馬車の御者だけ。
つまり、私は一人で殿下に同行して彼を守り抜かないといけない。
(それができる戦力としての役割が、一番私に求められているんだろうけど)
王の盾の仕事だけで言えば、私よりも前任者であるサヴァレンさんの方がずっとできる。
経験豊富で優秀な彼を筆頭魔術師補佐にして、私を筆頭魔術師にしたのはこの状況を想定してのことだったのだろう。
だからこそ、責任を感じずにはいられないし、執事さんに案内されて元老院最高議長の館に入っていくことには強い抵抗感がある。
ここは敵地であり、私たちはそのさらに奥に進もうとしている。
敵には今日に向けて準備する時間がいくらでもあった。
対して、殿下が連れている戦力は私だけだし、魔法武器の類いも持っていない。
(とにかく、最初の一撃をかわすこと。それさえできれば、身体が状況に慣れていってくれるはず)
適応する前に致命的なダメージを受けてしまえば、私は力を発揮できずに無力化されてしまう。
想定される一番可能性が高い負け筋を消すことを意識しつつ、殿下の後に続く。
(余計なことは考えるな。目の前のことに集中しろ)
状況への対応を最優先にして、脳内のリソースをなるべく空けておくように意識する。
豪奢な本館に人の気配はなかった。
誰もいないかのように静かだった。
執事は私と殿下を地下施設へと連れて行った。
深い井戸のような石造りの長い階段の底には、広大で開けた空間が広がっていた。
(なに、この魔力の気配)
一瞬呼吸が止まる。
それは私が経験したことのない異様な魔力の気配だった。
魔力を感知する感覚がおかしくなりそうな異常な濃度。
あるいはバケツいっぱいの水を口に押し込まれているような感覚になって、私は研ぎ澄ませていた感覚を意識から切り離す。
心臓が早鐘を打っている。
一歩間違えれば意識を持って行かれるところだった。
「大丈夫か」
斜め前に立つ殿下は横顔を少しだけこちらに向けて言う。
「大丈夫です」
荒い呼吸を整えながら私は答える。
案内役の執事は迷いのない足取りで進んだ。
殿下も同様だ。
そこにあるものの異常さにはまるで気づいていないみたいだった。
どうしてそんなことができるのだろう。
私たちは今、怪物の目と鼻の先を歩いているようなものなのに。
(落ち着け。余計なことは考えず冷静に対応しろ)
身体がすくまないように、意識的に感性の焦点をずらす。
身体がすくまないように、意識的に感性を鈍らせる。
おかしいのはおそらく、私の方だ。
魔力を感知する感覚を磨き続けてきたからこそ、目の前にいる異常な何かに必要以上に動揺してしまっている。
それが何かもわからないのに。
薄暗い部屋の中を進む。
不意に音がして、照明の白い光が空間を照らした。
異常な何かが目の前に現れる。
それは、一つの家がそのまま透明な石になったような大きさの巨大な魔鉱石の結晶だった。
被せられた黒い布の隙間から見えるそれは深い赤色をたたえている。
布には現代とは異なる体系で作られた魔法式による付与魔法の刺繍が幾重にも重ねられていた。
その上から無骨な黒い鎖が何重にもかけられて巨大な結晶を覆っている。
おそらく、両方とも特級に相当する遺物だろう。
黒い布と鎖は、ともに存在の持つ力を抑え込む用途で作られたもののように見えた。
(二種類の特級遺物であそこまでガチガチに封じ込められているのにこの魔力量って……)
私が見てきたこの世界の理から逸脱した何かがそこにはある。
「来てくれるのを心待ちにしていたよ。ミカエル・アーデンフェルド殿下」
金糸の刺繍があしらわれた白い礼服を着た男性だった。
元老院最高議長。
しわがれた声で放たれた言葉を、私は聞いたことがある気がした。
声を聞いたのは間違いなく初めてだ。
しかし、そこにある何かが記憶の中にあるものと一致している。
どこが一致しているのか。
不意に気づいて私ははっとした。
「【教国】の事件の首謀者だった仮面の男」
「そうか。君は我々の一人と話したことがあったのだな」
その口ぶりは抑揚とリズムが恐ろしいほどに聞いたことのあるそれと一致している。
「元老院最高議長に成り代わったの?」
「そう考えるのも無理はないだろう。しかし、我々はあくまで異なる個体であり異なる精神を持っている。ただ、人格にある程度の調整を加えているだけだ」
「ある程度の調整?」
「特級遺物《思域調律器》。対象の精神と思考パターンを調整する遺物だ。指導者は余計な感性に惑わされて判断を誤ることがあってはならないからね」
自分の人格を外部的な何かで改変する。
そこには、どこか不気味で禁忌的な要素が含まれているように感じられる。
自分にはそんなことできないし、やりたくもない。
それをこの人たちは実際に自分を対象として行ったのだ。
首筋を冷たいものが伝うのを感じる。
「いったい何のためにそこまで」
「苦しみに満ちた世界から人々を救うため」
最高議長は白い礼服を揺らして胸に手を当てた。
「生きることは苦しみにつながっている。心は満たされることなく常に渇き続け、肉体を行動に駆り立てるものだからね。合理的に考えれば君も理解できるはずだ。地獄は私たちの頭の中にあることを」
「たしかに苦しいことはありますけど。でも、寝たら大体忘れませんか?」
「君にも不安や悩みがあるだろう。決して満たされない思いがあるはずだ」
最高議長の言葉に私は首を傾ける。
「そういうのもなくはないとは思いますけど、考えても仕方ないことじゃないかなって。それより、お腹いっぱい食べたら頭の中は天国になるしそれでいいと思うんですよね。魔法のことを考えてたらそれだけで幸せですし」
「本気で言っているのか」
「もちろん本気ですけど」
「…………」
元老院最高議長は何も言わず私を見つめてから言った。
「まさか、西方大陸で最も才能がある若手魔術師がここまで何も考えずに生きているとは……」
「いや、私だって考えてますよ! 深い悩みとかありますよ!」
あると思う。
多分。
何も思いつかないけど。
「ぷっ」
噴き出すように笑うミカエル殿下。
「笑うな! いや、笑わないで下さい! 本当に悩みあります! かっこいい感じの深い闇とか抱えてます!」
「どういう闇を抱えてるの?」
「な、なんかこう、漠然とした将来への不安というか。食べたいものを食べたいだけ食べてますけど、将来お腹痛くなったりしたら嫌だな、みたいな。肉だけでなく野菜もちゃんと食べなきゃ、みたいな」
「それはとても深い闇だね」
「そうなんです。あと、そうだ! 最近はお尻のあれに悩んでて――」
「お尻のあれ?」
「…………」
私は少しの間押し黙ってから言った。
「なんでもないです」
「とても気持ちのこもった言葉のように聞こえたけど」
「なんでもないです」
感情のない声で言う私に、殿下はくすりと笑う。
絶対バカにしてる、と眉をつり上げて抗議する。
殿下は肩をすくめた。
「君と我々では思想面における知的水準がまるで異なるようだ。ミカエル・アーデンフェルド殿下。貴方なら理解できるだろう」
「違いませんけど。完璧に共感できてますけど」
「ミカエル・アーデンフェルド殿下。貴方なら理解できるだろう」
「置いていかないでください。本当に理解できてるので」
私の言葉に目を細めてから、殿下は言う。
「理解はできますね。あらゆるすべてが苦しみにつながっているというのは、ひとつの真理ではあると思います」
最高議長はうなずく。
「その通りだ。話が通じる相手がいて助かる」
「私もわかってますけどね。お肉の脂身は美味しいけど、たくさん食べると気持ち悪くなる的なことですよね」
「なぜ苦しみから逃れられないのか。我々が何かを傷つけずには生きることができない原罪を背負っているからだ」
最高議長は言う。
「他の命を奪い、体内に入れなければ存在を維持できない。生存するために動物を殺し、植物を殺す。傷つけずには生きていられない。我々は不完全で醜く汚れている」
しわがれた声が静かな空間に響く。
「救済の方法はひとつだ。存在するために数え切れないほどに多くのものを失わせてきた原罪を、他者を必要としない完全な存在に生まれ変わることで浄化する」
「どういう風に浄化するのだろう?」
殿下の問いかけに、最高議長は言った。
「生命活動を停止させる」
私は頬を小さくふるわせた。
おぞましい何かがそこにあるように感じられた。
「怖いことじゃない。死を恐れるのは思想的に未熟な者の考えだ。死は生の一部として存在している。死があるからこそ生命は命を繋ぐことができる。そして、死によって我々が汚れなき完全な姿となって元々いた天上の世界に帰ることができる」
「貴方がどう考えるのかは勝手ですけど、死にたくない人だってこの世にはたくさんいます」
私は言葉を返す。
「何より、よくわからない思想のために命を奪われることがその人のためになるとはとても思えない」
「俗世の中で真実を見失っているだけだ。この世界から解放され、天上の世界に帰れば我々の行いの正しさに気づく」
「どうして天上の世界に帰れるとかわかるんですか」
「聖典にそう書いてある」
「聖典が正しいという証拠はどこにあるんですか。死後のことは誰にも確かめられないのに。願いや祈りから生まれた物語ではなく真実だと、どうして言い切れるんですか」
「聖典を証明する必要は無い。自分が何を言っているかわかっているのか」
疑うという発想自体を認めない、強い怒りがそこにはあった。
苛烈な拒絶の背後には、生き物としての防衛本能が機能しているように感じられた。
聖典を信じることによって救われたから。
信じていないと自分が壊れてしまうから。
それが完全でないということが絶対に許せない。
この人が見ているのは多分、聖典そのものではない。
自分を救ってくれたものとして、理想化され美化された何かなのだ。
「我々は正しい行いをしている。我々だけが正しい行いをしている」
元老院最高議長は言った。
「見るがいい。我々の偉大な先達である神の使いの姿を」
元老院最高議長が右手を振りかざす。
瞬間、巨大な結晶を覆っていた黒い布がはじけ飛ぶ。
散り散りになった切れ端の一部が私の頬を裂く。
痛みは感じない。
それ以上に強い悪寒が全身を襲っていた。
(魔力の気配が強くなった)
封じている遺物がひとつ失われたからだろう。
覆われていた布の奥から見えたのは翼が生えた人型の生き物だった。
結晶の中にその人は封じ込められている。
怒りに目を剥き、今にも暴れ出しそうな姿で固定化されている。
「美しいとは思わないか」
元老院最高議長は言った。
「最強の飛竜種――【竜帝】ゼル=イグ=ファレンだ」






