245 救済の火
「君たちも聞いたことくらいはあるだろう。最強の飛竜種ゼル=イグ=ファレン。千六百年前に単独で九つの国を滅ぼし、飛竜種への恐怖を世界に植え付けた」
薄暗い地下室に最高議長の声が響いた。
「各国から集まった一万を超える魔術師によって仕掛けられていた罠にかかり、結晶の中に封じ込められたが、その罠さえ回避できていれば人類を絶滅させることさえできていただろう。現存する生命の中で最も多くの人間を救済した偉大な存在だ。我々【教団】が崇める神の使いでもある」
その存在のことを私は歴史の授業で聞いたことがあった。
【眠れる翼の禁域】に棲息していた最強の飛竜種で【三魔皇】の一体として数えられる。
【灰鎧の深王】、【終律を奏でる双翼】など様々な異名を持ち、古の魔術師たちがどんなに手を尽くしても殺すことができなかったという怪物。
当時の資料は消失してしまっていて、どこに封印されているのか考古学者たちが今も研究を続けているという話だった。
彼らは狂気じみた執念で情報を収集し、莫大な費用を使って秘密裏に大規模な探索を行って【竜帝】が封印されていた場所を突き止めたのだろう。
それができるだけの力と狂気が彼らにはあった。
「【竜帝】を復活させる気?」
「その可能性も検討した。しかし、さらに魅力的な選択肢を我々は選ぶことにした」
元老院最高議長は言う。
「【竜帝】を復活させるのではなく、その力を抽出して私の身体に適合させる。【竜帝】の力は絶大だ。純粋な戦闘力で言えば現存する生命の中で頂点だと言っていい。その力を手にできれば、すべての人類を天上の世界に送り、人類の救済を実現することができる。そして、それができるだけの技術力を我々は手にしている」
元老院最高議長が懐から取り出したのは血のように鮮やかな赤みを帯びた小さな結晶片だった。
あめ玉くらいの大きさの小さな欠片には、異様な量の魔素が含まれている。
「試験的に【竜帝】から取り出した生命エネルギーを込めて作られた結晶片だ。これだけ小さな欠片でも、魔素を熱エネルギーに変換すれば――」
元老院最高議長は広い空間の奥へと欠片を投げる。
小さな欠片がゆっくりと宙を舞う。
床に落ちた瞬間、視界の全てが鮮やかな白に染まった。
少し遅れて熱風が肌を焼き、強烈な何かが鼓膜を叩く。
足下が激しく揺れ、立っていられずバランスを崩す。
「変換効率を下げて起爆させてもこの出力だ。変換効率を最大化すれば、控えめに見積もってもこの十倍以上の出力になる。形あるものすべてを灰に変えることができるだろう」
顔を上げる。
元老院最高議長はバランスを崩すこともなく立っていた。
通常の人間ではありえない体幹の強さ。
教国で戦った仮面の戦士たちのように肉体を遺物で操作することで異常なまでの筋力を手にしているのだろう。
「この結晶片を我々は【救済の火】と名付けた。すべてはこの帝国西部最大の都市ファルグレアから始まる。仕掛けられた【救済の火】は連鎖的に爆発をし、この都市の九割を灰に変え、数え切れないほど多くの人々が天上の世界に送られることだろう」
「都市の九割を灰に……?」
何を言っているのかわからなかった。
呆然と瞳を揺らす。
熱風によって熱された空気。
渇いた喉。
残ったわずかな唾液を飲み込んでから私は言った。
「正気で言っているんですか。そんなことをすればどれだけ大きな問題になるか。帝国だけじゃない。世界中の視線がこの場所に注がれます。貴方たちがどれだけ情報戦に長けていたとしても隠し通すことはできない。【教団】は世界の敵として認識され、各国から徹底的に攻撃を受けます」
「そうなるだろうね。恐怖と怒りは人々を攻撃に駆り立てる。我々がどれだけの力を持っていても、世界中の憎悪を向けられれば耐えられない。ファルグレアを灰に変えた者としてこの世界から消えることになる」
元老院最高議長は言う。
「だが、首謀者が我々ではなかったとしたらどうなるだろう。たとえば、野心に溢れたアーデンフェルド王国の王子殿下が仕組んだことだったとすれば」
「何を言って……」
そこで何も言えなくなった。
気づく。
気づいてしまう。
ミカエル殿下がファルグレアを訪れたこの日を計画の実行日として選んだ理由。
最高議長はミカエル殿下を犯人として仕立て上げようとしている。
「歴史における真実とは勝者が作るものだ。密かに大量の武器を生産し、帝国内に送り込んでいたことをたしかな証拠として世界は判断するだろう。加えて、我々には人間の精神を操作して自在に操る技術がある」
遺物による調整を受けさせることができれば、彼らは殿下を操ることができる。
あいつに対してそうしていたように。
蘇る記憶。
あの日の怒りは今も私の中に強烈なものとして残っている。
「世界は首謀者を徹底的に追い詰め、この世界から消そうとするだろう。アーデンフェルドがどれだけ優れた魔法技術を持っていたとしても耐え凌ぐことはできない。かくして、アーデンフェルド王国は地図上から消え、我々は優れた迷宮資源と魔法技術を手にする」
元老院最高議長は言う。
「勝利するのは常に最も狡猾に立ち回った者なのだよ」
視界の端で殿下が唇を引き結ぶ。
短い声が風を揺らした。
「来るよ」
私は状況における最善の選択を反射的に考えている。
殿下は何かが来ると言っている。
だったら、私がすべきなのは何が来ても反応できる最善の準備。
《固有時間加速》を起動した瞬間、私と殿下に向けて降り注いだのは三十を超える数の黒い槍だった。
雨のように殺到するそれに対して、反応できたのは殿下の声で少しだけ早く《固有時間加速》を起動することができたから。
間に合わなければ反応さえできずに、無数の槍に貫かれて絶命していただろう。
しかし、反応できていても私はまだ死地を抜けられていない。
視野の広さと空間把握能力で、槍の軌道を予測。
かすかに残る安全なポイントを見極める。
風の気配が肌感覚として槍の位置を私に伝えている。
殿下の身体を掴み、力任せに振り回して動きを誘導する。
三十を超える黒い槍をかわす。
髪と服の一部が引き裂かれて風に舞った。
(痛っ――)
太もものあたりを槍がかすめている。
それでも、これだけの傷で済ませられたことを幸運だったと思うべきなのだろう。
護衛対象である殿下には傷ひとつつけずに済んでいる。
(すぐに抜け出して反撃を――)
鋭利な槍の合間を抜け出して、反撃しようとした私は、形のない何かに押さえつけられてバランスを崩した。
受け身も取れずに、床に顔を打ち付ける。
起き上がろうとするが身体が動かない。
押しつぶされているみたいに地面に縫い付けられている。
(特定箇所の重力を強くする魔法罠……!)
攻撃魔法を起動しようとするがうまくできない。
あらゆる攻撃魔法を阻害する何かが作動している。
背後で、誰かが倒れたような音がした。
槍から抜け出したミカエル殿下が、重力を強くする魔法罠に縫い付けられて崩れ落ちていた。
「言っただろう。勝利するのは常に最も狡猾に立ち回った者だと」
元老院最高議長は通信用の魔道具を取り出して言う。
「君たちはそこで見ているといい。ひとつの都市が灰になり、かつてない規模の人々が一斉に天上に送られる瞬間を」
最高議長は通信用の魔道具で合図を送る。
「始めよう。人類の救済を」
『承知しました』
淡々とした声が通信機の向こうから聞こえる。
地下だからだろうか。
くぐもった音質のそれは、しかし事態が止められないところまで進んでいることを伝えていた。
全身に力を込めてなんとか魔法罠から抜け出そうとする。
しかし、私の身体は少しも動いてくれない。
「やめて――!」
意味が無いとわかっていても叫ばずにはいられなかった。
止めないと、たくさんの人が死んでしまう。
かけがえのない命が奪われてしまう。
建物も大切なものも思い出もすべてが一瞬で灰になってしまう。
元老院最高議長は静かに目を閉じていた。
演奏が始まるその最初の音を確実に聴き取ろうと待つ観衆のような姿だった。
その表情には一点の悪意もない。
独善的な正義がそこにはある。
沈黙が流れた。
爆発の音は響かなかった。
いつそのときが来るのか怖くて仕方なくて。
しかし、どれだけ待ってもそのときは来なかった。
「どうした。何をしている」
最高議長は魔導式の通信機に向けて言う。
『指示通り作業を進めています』
「爆発の音がしない。何かあったのか」
『少し手違いがあったみたいです。安心して下さい。そこまで時間はかかりません』
「どのくらいかかる」
『永遠の半分くらいですかね』
元老院最高議長は低い声で言った。
「お前は誰だ」
『寂しいことを言わないで下さい。貴方が僕を仲間に加えることを計画してくれたのでしょう。だからこうして動いているんです』
通信機の声が響く。
「まさか、お前――」
通信機の向こうから微笑むような気配が聞こえた気がした。
それは空間を漂うかすかな風に乗って私に届いた。
その気配を私は知っている気がした。
『やられたらやり返すのが僕の主義ですから。全戦力を投入して止めに来ることを推奨します。もっとも、何をしても結果は変わりませんが。覚えて置いて下さい。貴方に敗北をもたらす者の名前を』
通信機から声が響いた。
『王宮魔術師団七番隊隊長――ルーク・ヴァルトシュタインの名前をね』






