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楽し気に笑っている悪魔の女性は、片手をヒラリと振った。
すると、宙に一枚の布が表れる。
それはハンカチよりもやや大きめの布で、スターチアにも見覚えがあるものだった。
――あれは……、私の靴を拭った布だわ。
ポラスと名乗った中年男性と初めて顔を合わせた時、去り際に『靴が汚れているので、お拭きしましょう』と言い、スターチアの靴に付いていた泥を拭き取ってくれた。
その布は見たことのない見事な刺繍が施されており、汚してしまうのはもったいないと、スターチアは固辞したのである。
ところが、『無用にお引止めしてしまったお詫びですから。それに、年若いお嬢さんが靴を汚したまま歩くのは、どうにも忍びないですし』と、ポラスが手早く靴の先に付いていた泥を拭き取った。
初対面の人に靴を拭わせるのはこれまでに経験のなかったことだが、スターチアとしては害を被ったわけでもなく、また、ふたたび顔を合わせることもないだろうと、取り立てて気にしないことにしたのだった。
――あの布が、なんだっていうの?
心の中で問いかけているスターチアと同様に、ホースキンもポラスも分かっていないようだ。
「そちらの布は、あなた様から小娘の靴に使うようにと渡されたものですが……。それが、いったいどうしたというのでしょう?」
相変わらず揉み手をしながら、ホースキンが悪魔の女性に尋ねる。
すると、漆黒の美女はニィッと口角を上げた。
「この布には、存在をうやむやにする魔術がかけられているのよ。お嬢ちゃんの周りには、精霊の加護を受けた人間がいるみたいだからね。精霊を使ってここを探り当てられたら、私の楽しみを邪魔されるかもしれないもの」
「ほう、なるほど」
その説明に、ホースキンとポラスは感心しきりの表情を浮かべる。
二人の反応に悪魔の女性は機嫌がよくなったのか、さらに口角を上げて話を続ける。
「それだけじゃないわ。声と体の自由を奪う魔術も込められているのよ。ただ、魔力が強すぎると色々と厄介だから、魔術を発動させるための最低限にしか魔力を込めてないわ」
「最低限の魔力でも、このように抜群の効果を生み出すとは!」
「さすがでございます!」
ホースキンとポラスは感嘆の声を上げて、盛大な拍手を悪魔の女性に贈った。
「私を誰だと思っているのよ。この程度、造作もないわ」
フンと鼻を鳴らす悪魔の女性だが、彼女の口角はなおも上がっている。
そんな三人とは対照的に、スターチアの表情は時を追うごとに硬くなっていった。
――軍の方々が、私を追って来られない?
変だと思っていたことが、スターチアの中で合点がいく。
アディスの部下たちによる護衛は、当然のことながら今でも続いている。
だから、このようにスターチアが得体の知れない者に攫われたとしたら、すぐさま気付いてくれるだろうと思っていた。
ところが彼女の予想は大きく外れ、スターチアの居場所が探れないどころか、ヘタをしたら、彼女が攫われたこと自体をアディスたちは知らない可能性がある。
――これは……、本格的に危ないわ。
悪魔の女性の話により、アディスからもらった懐中時計の効果がいっさい発揮されていないことが確証に変わる。
スターチアの表情がいっそう硬くなった。心臓の音が耳の奥で大きく響き、彼女の額には嫌な汗が浮かぶ。
その様子に気付いた悪魔の女性は、形のいい目をうっとりと細める。
「あら、いい顔をするじゃない。やっぱり虫けらが脅える姿って、とても気分がいいわぁ」
すると、ホースキンが大きく頷いた。
「まったくですな。虫けらごときは、せっせと地面を這いつくばっていればいいのだ。アディス様に目をかけてもらっているからと、調子に乗りおって」
ポラスも深く頷く。
「ええ、ええ。旦那様のおっしゃる通りでございます」
――調子に乗っているつもりは、これっぽっちもないんだけど……。
いまだに声を発することができないスターチアは、心の中でひっそりと呟く。
しかしながら、ホースキンとポラスに言葉で伝えたところで、きっと無駄に終わるだろう。
それどころか、二人が逆上しかねない。
スターチアは恐怖に慄きながらも、注意深くこの状況を探ることにした。
――男爵は、私になにをさせたいのかしら。
筋違いとはいえ、ホースキンが自分に対してやっかみを抱いていることは分かった。
その腹いせをするために攫われたことも、理解している。
ただ、なにをしたらホースキンの気が晴れるのかは、皆目見当がつかない。
頭を下げ、謝罪を口にしたところで、おそらく意味はない。
その程度で気が晴れるのなら、わざわざこのような辺鄙なところに攫ってくるという手間はかけないはずである。
なにより、ホースキンのかたわらに悪魔の女性がいることが気になって仕方がなかった。
――悪魔は気まぐれで、基本的には人間の言葉に耳を貸さないというけど。なんだか、協力し合っている感じはするわよね。どうして?
そこで、スターチアは屋根の上で顔を合わせる悪魔の青年を思い出した。
頼んでもいないのに毎晩訪れ、スターチアに対し憎まれ口を叩く、漆黒の闇をまとうあの青年を。
――もしかして、この悪魔も暇つぶしをしているのかしら。
十分に考えられることだった。
しかしながら、あの青年とこの悪魔の女性とでは、醸し出す雰囲気がまるで違う。
青年はスターチアのことを『生意気な小娘』や、『愚かな人間』とたびたび口にするものの、その視線には言葉ほどの棘は感じられなかった。
だが、悪魔の女性の瞳には、本気でスターチアのことを『くだらない虫けら』だと思っている色が浮かび、脅えているスターチアの態度をさも嬉しそうに眺めているのだ。
なんだかんだと言われながらも、悪魔の青年はスターチアのことをそれなりに『人』として扱ってくれていたのだと、ここにきてスターチアは気付く。
だからこそ、自分を人として見ていない悪魔の女性による『暇つぶし』が恐ろしく思えた。




