鱗
陽光が遮断された『静寂の森』は、その名の通り、一切の生命の息吹を潜めさせたような静けさに包まれていた。
見上げるほどの巨木が天を覆い隠し、幾重にも絡み合った枝葉が太陽の光を冷たい緑色の薄闇へと変換している。
足元には深く積もった腐葉土が広がり、湿った土と苔の匂いが鼻を突いた。最新鋭の仮想現実技術は、この森の陰鬱な空気感すらも完璧に再現しており肌にまとわりつくような冷気が、ただの映像ではない「現実感」をプレイヤーに与えてくる。
ガシャリ、ガシャリ。
重厚な金属音が、静まり返った森の奥深くまで一定の規則性を持って反響していく。隠密行動など最初から頭にない。自らの存在を隠すことなく堂々と歩みを進めるジークの足どりに、一切の迷いはなかった。
「実にいい雰囲気だ。いかにも強大な魔物が潜んでいそうな場所じゃないか」
周りを見渡し、満足げに頷いたその直後だった。
ヒュンッ!という鋭い風切り音が、頭上の樹上から鳴り響いた。
一本や二本ではない。四方八方の枝葉の影から、黒い飛礫のようなものが連続してジークの全身へと襲い掛かってきたのだ。それは、麻痺性の緑色の粘液が塗布された投擲用の短剣だった。
パキンッ! カツンッ!
金属同士が激しくぶつかり合う甲高い音が鳴るはずだった。しかし、分厚い鋼鉄の鎧に到達した短剣は不自然な音を立てて弾き返される。
ジークは一歩も動いていない。回避行動をとるどころか、背中の大剣に手を伸ばすことすらしていない。ただ直立したまま、降り注ぐ凶刃を自らの『肉体』――すなわち、全身を覆う鎧のみで受け止めたのだ。
「奇襲か、だが浅いな。そんな小細工で、この俺の歩みを止められると思ったか?」
ジークの全身を覆うプレートアーマーには、傷一つ付いていなかった。毒の塗られた刃はすべて見えない膜に阻まれたように勢いを殺され、無力な鉄屑となって足元に散らばっている。
ジークがゆっくりと視線を上げると、周囲の木々の幹や低い枝の上に、小柄な人影がいくつも張り付いているのが見えた。歪な顔つきに、苔のような緑褐色の肌。薄汚れ、ボロボロの革鎧を身にまとった小鬼の群れ。この森の浅い階層を根城にする厄介な亜人の魔物、「フォレストゴブリン」たちだ。
総勢八匹。彼らは集団で獲物を待ち伏せ、毒による弱体化と波状攻撃で冒険者をなぶり殺しにする、初心者狩りの常習犯である。
だが、ゴブリンたちは次なる武器を引き抜こうとはしなかった。彼らは木の上に張り付いたまま、首を傾げ、困惑したように瞬きを繰り返している。
彼らの低い知能と野生の本能は、目の前に立つ鉄の男に対して「恐怖」よりも先に、強烈な「違和感」を感じ取っていた。
普通なら、鋼鉄の鎧にナイフが当たれば鋭い音が鳴るはずだ。しかし、先ほどの音はあまりにも不自然だった。
「なんだ?来ないのかコイツら、ならこっちから行くぞ」
ジークの宣言が静寂を切り裂いた瞬間、爆発的な踏み込みとともに加速した。
「ギ、ギギィッ!?」
木の上にいたゴブリンの一匹が、驚愕に目を見開く。彼らの視界から、突如として鉄の塊が消失したかのような錯覚。次の瞬間には、一番近くの低木に陣取っていたゴブリンの目の前に、ジークの無機質な鉄兜が迫っていた。
逃げる間も、悲鳴を上げる暇もない。ジークは背中の大剣を抜くことすらせず、ただその籠手でゴブリンの頭部を鷲掴みにした。
ベキリ、と嫌な音が森に響く。
仮想現実とはいえ、五感へのフィードバックが極限まで高められたこのゲームにおいて、その感触はあまりにも生々しい。ジークはそのまま、掴んだ個体を地面へと叩きつけた。
ドォォォォォン!
土埃が舞い上がり、腐葉土が四方に飛び散る。クレーター状に陥没した地面の中央で、ゴブリンだったものは光の粒子となって霧散していった。
「まず一匹……さあ、次はどいつだ?」
ゆっくりと立ち上がるジーク。その動きには、一抹の隙も、そして一切の慈悲もなかった。
残された七匹のゴブリンたちは、ようやく事態を把握した。目の前の男は「獲物」ではない。自分たちを蹂躙しにきた「天災」なのだと。
「ギャアアアアア!」
恐怖が限界を超え、逆に凶暴性が爆発する。ゴブリンたちは一斉に木から飛び降り、四方からジークへと飛びかかった。ある者は錆びた短剣を突き立てようとし、ある者はその細い腕で甲冑の隙間に指をねじ込もうとする。
キィィン!
再び、あの不自然な音が響く。
ジークの全身を覆うプレートアーマー、その表面にゴブリンの短剣が触れた瞬間、火花が散るどころか、短剣のほうが「飴細工」のようにひしゃげて折れたのだ。
「無駄だと言ったはずだ」
よく見ると、鱗のようなものが鎧の表面に薄っすらと浮かび上がっている。
いや、浮かび上がっているという表現は生ぬるい。無機質なはずの鋼鉄が、まるで自らの意志を持つ生きた外殻であるかのように変質していたのだ。光沢を放つ平滑な装甲板の上に、びっしりと重なり合う微細なひし形の紋様。それはまさしく強靭な『龍の鱗』そのものだった。
森の木漏れ日を鈍く反射するその鱗状の膜は、ジークの呼吸に合わせて微かに脈打っているようにも見えた。
「不思議か? ただの鉄の鎧が、なぜこうも容易く弾き返すのか」
ジークは低く響く声で、怯えるゴブリンたちに語りかけた。当然、低い知能しか持たない魔物に言葉の意味など理解できるはずもないが、本能に刻み込まれた恐怖はすでに限界に達していた。
残る七匹のゴブリンたちは、目の前の光景に完全にパニックを起こしていた。仲間が一瞬にして地面に叩きつけられて消滅した恐怖と、自分たちの渾身の一撃が飴細工のようにぐにゃりと曲がってしまった現実。彼らの貧弱な頭脳では、目の前に立つこの鉄の男がどれほどの絶望なのか、もはや処理しきれなくなっていた。
「ギ、ギィィィッ!」
恐怖に耐えきれず、一匹のゴブリンが踵を返して逃げ出そうとした。
だが遅い。
「逃がすわけがないだろう」
ジークは背中に背負っていた剣の柄に手をかけた。分厚く無骨な鉄の塊のような大剣だ。ズラリ、と重々しい金属音を立ててそれが引き抜かれる。
魔法も、派手な技も必要ない。ただ圧倒的な身体能力と質量をもって蹂躙する。それだけで十分だった。
大きく踏み込み、逃げようとしたゴブリンの背中へ向けて大剣を無造作に振り下ろす。
ズパンッッ!
風を切り裂く轟音。ゴブリンの小さな体は、悲鳴を上げる間もなく脳天から真っ二つに両断され、瞬時に光の粒子となって霧散した。
地面を蹴り飛ばし、ジークは一番近くにいた二匹のゴブリンに肉薄した。大剣を水平に構え、自らの回転の遠心力を乗せて一気に横へ薙ぎ払う。
分厚い刃がゴブリンの脆弱な革鎧ごと胴体を捉え、まるで枯れ枝をへし折るかのような軽い手応えと共に、二匹まとめて吹き飛ばした。巨木に激突したそれらは、ずるずると地面に崩れ落ちると同時に光の粒子へと変わる。
「ギヤアアアアッ!」
木によじ登って逃げようとしていたもう一匹の足首を、ジークは空いた左手で無造作に掴み取った。そのまま力任せに引きずり下ろし、地面に叩きつける。呼吸が止まり硬直したその胸ぐらに、容赦なく大剣の柄頭を叩き込んで粉砕した。
これで残り三匹。
彼らはもはや声すら出せず、腰を抜かして地面を這いずっていた。
ジークはゆっくりとした足取りで近づくと、振りかぶることもなく、ただ大剣の自重を活かして次々と脳天を叩き割っていった。一切の感情を交えない、ただの作業のような手際。
鈍い破壊音が森に響くたびに、一体、また一体とゴブリンが光の粒子に還っていく。
最後の一匹が泣き叫びながらすがりついてきたが、ジークは無言のまま鋼鉄のブーツでその頭部を踏み砕いた。
パキン、という硬質な音と共に最後の光の粒子が宙に舞い、そして消え去る。
【戦闘終了:「フォレストゴブリン」6体を討伐しました】
【レベルが上昇します:2→3】
【固有能力『■■■の龍騎士』の進行度が上昇します】
• 進行度:1.4%
• 同化率:微増
• 新たな特性『龍鱗の萌芽』が発動。装備品への浸食を開始します。
視界の隅に浮かび上がった無機質なシステムの手記を流し見ながら、ジークは大剣についた汚れを軽く払い、再び背中の鞘へと収めた。
龍の鱗が、潮が引くように鎧の表面から消えていく。生き物のように脈動していたひし形の紋様は、再び無機質な鋼鉄の地肌へと沈み込み、そこには元通りの、無骨で重厚な「鉄の塊」としてのプレートアーマーが姿を現した。
足元に転がっていた、ひしゃげたゴブリンの短剣を無造作に踏みつぶす。
ガシャリ、という硬質な音が静寂を取り戻した森に冷たく響き渡った。
「さて、次はもう少し歯ごたえのある相手を頼むぞ」
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