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くそぶたくんがアップした動画は好評で、再生数は7月一杯で三万以上に達していたと言います。そんなに再生数が伸びた理由の一つとしては、「週間ニヤニヤ歌ってみたランキング」のピックアップで紹介された事も影響したのかも知れません。その上、題材がきわめてユニークだったため、注目を集めたのでしょう。
◇◇◇◇◇
ホームから階段を下りて新橋駅の東口を出ると、目の前に、独特の弧を描く屋根を備えた少々物々しいゆりかもめの入り口があり、八段ほど階段を登ると、右手に、長いエスカレーターの登りです。
私、函南ゆりは言いました。
「東京駅から新橋駅に来るのに、わざわざ東海道線に乗るって、相当、へそ曲がりじゃない?」
すると、澄也くんが答えました。
「でもあれでしょ、有楽町通過だから速いじゃない。それに始発だから座れるし。」
「でも山手線か京浜東北線の方が、どう考えても先に来るわよ。」
「まあ、その辺りは蓼食う虫も好きずきってとこだよねー。」
「自分で蓼食う虫とか何言ってんの。」
「あはははは。」
私達が、今、目指しているのは有明のビックサイト、こと国際展示場。私達は、いつも夏休みには、鉄道本を漁るのが目的で、コミケには一般参加しており、今年もこうやって会場に向かっているのですが、この夏は、それだけと言う訳ではありません。
「それにしても、いきなり五百枚も焼くとは、くそぶたくんも思い切ったわねー。勝算はあるのかしら。」
「どうなんだろね。半分以上は部の意向みたいなことを言ってたけど。」
「お金の出所はどうなってんの? CDなら、同人誌と違って原盤にも資金が要るんでしょ。」
「それは詳しくは知らないけど、あっちの部内で調達したらしいよ。顧問の先生が一枚噛んでるのかも知れない。」
「それにしても、同人…、てーか、CDだとインディーズってーの?、だとしても、琵琶楽のCDなんて買う人いるのかしら。今回のここ以外には、一体、どういう販路があるってーの?」
「勿論、一つには普通の自主製作CDと同じで、彼等が懇意にしているCDショップなんかに委託して販売するんだろうけど、実際のところ、彼等の部のメンバーが、そんなに多方面にコネクションがあるのかと言ったら、やっぱりそんなこともないらしいよ。」
「じゃあ、どーすんのよ。」
「そこはそれ、常就院清玄法流保存会なんかの人脈や、常就院の檀家の繋がりなんかを辿って捌く算段らしいけど。」
「でもそれだと、年配の人達が中心になるでしょ。ニヤ動を再生するような層とは、あまり接点がないわよね。」
「僕らにお鉢が廻って来た理由は、多分、その辺じゃないかな。少しでも、ネット動画に馴染んでいる層にアプローチしてみたいってことだと思うよ。」
「でも、それでもちょっとズレるんじゃないかしら。売れるのかなー?」
◇◇◇◇◇
ゆりかもめは右へ右へとカーブを切りながら、勾配を登り始めました。レインボーブリッジの取り付け部、高さを稼ぐためのループ線です。右手の車窓にはループの反対側が見え、軌道に並んだ勾配の道路を、列をなした車が下って行きます。
すぐに、両側の車窓には、道路を挟んで向こう側に、橋梁道床部トラスの鋼鉄のすじかいが流れ始めました。
「それにしても、豊橋先輩、こんな物の委託販売、よくOKしてくれたわよね。」
「まぁ、こういう時には頼りになるよね、あの人は。急な話だったし、僕ら中学生じゃコミケのサークル主宰者にはなれないし。」
「でも、私達をこういう風に『洗脳』しちゃったのも、あの人なのよね。」
豊橋芳威智先輩は、今回、くそぶたくんのCDを委託販売で置かせて貰っているサークルを主宰している人物で、現在、高校一年生。去年まで私達の中学の鉄道研の、一学年上の先輩だった人です。そして、私達が一年生として中学に入学した時には、この先輩が鉄研の唯一の部員でした。
先輩は、禅昌寺先生に少し似た目つきをしていますが、先生のようには頬はこけてはおらず、眼鏡も掛けていません。そして、昨年度までの中学時代、豊橋先輩は、鉄道研のほかにアニメ研にも所属していました。そう、先輩は「コミケ鉄」だったのです。
澄也くんが言いました。
「思い出すね。僕達が入部した頃は、うちの鉄研、僕らと先輩の三人しか居なかったんだよねー。」
「三人になったから、私達は掛け持ちしないで済んだのよね。」
「うん。うちの学校、部としての認められる為には、最低でも三人、必要だからね。」
「二人以下は同好会になっちゃうのよね。」
「そう、同好会には『部』としての資格が無いから、『すべての生徒が一つ以上の部活動に所属するべし』という校則を満たせない。」
「先輩がアニメ研に入ってたのも、一つにはそのせいなのよね。私達が来るまで、鉄研は先輩一人だけだったから。」
「でも、先輩がオタクだったってーのは、致命的と言うか運命的だったね。」
「ほんとよ。殆んど人生に於ける決定的影響って言っていいわ。もともとアニメやゲームは嫌いじゃなかったのは確かなんだけど…。」
「『開化』させられちゃったよね。初めて即売会ってモノに連れてかれたのは、ゴールデンウィークの都産貿だったっけ。」
「そう、都立貿易産業振興会館。鉄道オンリーの『Little “R” Star』ね。あの時は、ずいぶんとタマゲタものよ。一口に『鉄道系同人誌』といっても、こんなに色々あるのかー、ってね。」
そう、一方では、例えば高校や大学の鉄道研究会の公式の会誌によくあるような、オーソドックスな調査、研究本や資料集。地元の鉄道を記録した写真集。走行音を録音したCD。そういった、比較的「硬派」な物がいろいろ有ります。
そして他方では、テンニンドーSDのゲーム「鉄道おとめ」のキャラクターのパロディ同人誌や、新幹線やJR在来線、あるいは各大手私鉄などの鉄道車両を女の子の姿に擬人化したフルカラーの華麗なイラスト集や四コママンガ集、また、同様に新幹線やJRや私鉄、はては特定の県内のローカル線などの、車両ではなく路線を、好青年に擬人化したマンガ本、廃線跡探訪記に廃線をモチーフとした中編マンガを組み合わせた凝った装丁の同人誌、架空の鉄道路線を舞台とした紀行マンガ、果ては鉄道会社現役職員の内幕暴露マンガ本など、主にマンガやイラストを中心とした、「鉄コミ」系の流れと言うのも有るのです。
「そのあと、夏休みのコミケで止めを刺されたよね。」
「まったくだわ。あれ以来、コミケは、ずーっと皆勤賞よ。」
そう、中一だった私にとって、未知の世界だったそのコミケは、大きな驚きと感激で一杯でした。
国際展示場の駅を降りると、早起きして朝六時に行ったのに、既に数え切れないほどの、圧倒的な人の波。しかし、その大人数にもかかわらず、秩序を保って行列を作り、辛抱強く会場を待つ人々。準備会の腕章を胸に安全ピンでぶら下げた、どこかの国の軍服姿のスタッフが、大声で「走らないでください!」と絶叫しています。その光景に、私は、何かが熱いと思ったのです。そして、そんな気分に侵されて、この人の波それ自体に、既に何か云い知れぬ魅力を感じ取っていました。
そして、鉄道のジャンルに足を運んだ私達三人は、あの「Little “R” Star」で私が初めて知った多くの同人サークルの次回作を目にしました。いや、「Little “R” Star」のサークルだけではなく、その即売会では見なかった、私にとって未知だった新しいサークルの新刊にも、幾つも出会ったのです。私は夢中で買い漁り、気がつけばこの日の為に溜めて持ってきた小遣い、一万円以上を、殆んど遣ってしまっていました。
その辺は澄也くんも同様だったようです。
「そういえば、澄也くん、最近ではイラストの腕もだいぶ上がってきたんじゃない?」
「まぁね。実際、ハード的にも、そっち方面にも、だいぶ投資しちゃったしね。」
「何買ったの?」
「池袋のビッグパソコン館でワムコのペンタブと、あとソフト、ILLUST STATIONもね。」
「ソフトも? SEIでいいじゃない。まともにシェアウェアの料金を払っても五千円ぐらいよ。ILLUST STATIONだと丸二千円ぐらい高いわ。」
「それは、あれなんだよ。こっちだと、色の出力がモニタスクリーン用のRGBだけじゃなくて、プリンタ出力用のCMYKにも対応していて、色の劣化なく画像を紙に出力できるからなんだよ。いずれ高校に上がったら、同人誌もやってみたいからさ。」
「私は、もうSEIをインストールしちゃったわ。最近、色々いじって、使い方を覚えてるところよ。そのうち、前にいくつか描いたラフ画を、まともに仕上げて着彩して、PIXUVにもUPしてみるつもりよ。」
「そういえば、前にちょっと見せてもらったよね。デッサン的には、もうかなり上手いけど。でも、函南さんの場合、女子的に言って、車両擬人化イラストって云う流儀はどうなの? コミケ系の『鉄子』の場合、主流なのは路線擬人化マンガでしょ?」
「まぁ、そりゃそうなんだけど。でも私の場合、師匠が豊橋先輩でしょう? そりゃ私だって、一応は、世間一般のオタク系『鉄子』並みに、路線擬人化の『青物鉄道』も読んではいるけどねー。」
「そうか、豊橋先輩の影響が大きかったらしょうがないよねー。」
そう、私の印象に強く残っているのは、以前、豊橋先輩に見せてもらった、彼の自作のイラストのことです。それは、中央快速線の電車E233系の車体のパーツを模した、銀色とオレンジ色のメカニカルな感じの服を着た少女の華麗なカラー画でした。いわゆる「萌え鉄」系の絵です。去年、先輩が卒業する前に、この絵をパソコン上で仕上げるプロセスについて、一つのケーススタディとして、先輩から作業手順を詳しく教わったものです。
とにかく、こうして私達は、すっかりこの世界の魅力の虜になってしまい、今に至っているというわけです。
私達がそんな事を話し込んでいるうちに、遥か右手の車窓にゲートブリッジがフレームインし、次いで、ビックサイトが迫って来ました。そして電車は、国際展示場正門の駅に進入していきました。
◇◇◇◇◇
ゆりかもめの電車を降り、エスカレーターには乗らず、ホーム後ろ寄りの曲折した階段を下って出口に到着すると、ズラリと並んだ改札機のすぐ外で、一人の女の子が私達を待ち受けていました。私達のクラスメイトであり、豊橋先輩の年子の妹でもある豊橋月子さんです。豊橋さんは、髪を短めのボブにしており、割とはきはきした性格で、鼻の周りに少しそばかすのある、でも笑顔のちょっと可愛い娘です。彼女も私ほどではありませんが成績は上位で、進路としては、同じ隼高校を志望しています。早川さんがあんなことになってしまったので、それ以来、一学期中ずっと、私のランチタイムは、彼女と二人になってしまっていたのですが…。
なんで豊橋さんがここに居るのかというと、彼女は学校では漫画研究部に所属しており、以前からオリジナルのマンガを描いて学園祭等で頒布していたのですが、今回はそれをコミケで販売しようというのです。しかし、この即売会は、同人誌の製作者としてサークルを主宰して出展するには、高校生以上でなければなりません。そこで豊橋さんは、兄で高校生である豊橋先輩のサークルに間借りして、本を売ることにしたという訳です。この二人、兄妹そろってオタクだったのです。
豊橋さんによれば、今回の豊橋先輩のコミケデビュー本の表紙は、先ほど挙げた中央快速線少女のイラストを、仕上げ直したものを使うことにしているようです。会場に着けば、サークルスペースで、現物の本を拝ませてもらえるでしょう。
「あ、ゆり。そろそろ着く頃だったから、店番は友達に任せて、抜け出して出迎えに来たわ。」
「月子、今日はありがとうね。朝からすっかり任せちゃて…。あなたが先輩…、お兄さんに委託するのに便乗するみたいなことさせて貰っちゃったわね。」
「あ、いいのよ。兄は、あなた達の先輩でもあるんだから。」
「ところで先輩は? 会場?」
豊橋さんは、突然、棒読みみたいな口調になって言いました。
「私ハ、会場ノ、サークルスペースデ待チウケテオルゾ。」
「あはははは。それ、『超訳』して。」
「あ、兄さんは、自分は会場のサークルスペースで待っている、と言うようにさっき私に命じて、あなた達の姿が見えるなり、左手の角の壁の陰に隠れたわ。背後からこっそり尾行けて、会場に戻る道中で、あなたたちを、びっくり仰天、驚かすと言ってたわ。」
「あはは。へらへら笑う気にもなれないわ。」
私は、駅の入り口から直に接続している、道路上に架かった高架歩道上の路面の上までつかつかと歩いて行って、左の角を、ぐいと覗き込みました。
「先輩、何を相も変わらず馬鹿なことやってんですか!」
はたして、そこに豊橋先輩は居ました。
「お、函南。馬鹿とは何を言うか。大体、馬鹿者、月子! 馬鹿正直に白状する奴があるか!」
「何、『馬鹿』を連発してるんですか!」
「月子が馬鹿だと言っている。」
「月子は馬鹿じゃないです!!」
すると、澄也くんがにこにこ笑いながら茶化してきました。
「あははー、まるで漫才だね。」
「お、うむ、清水。お前には『妙味』と言うものが判っているようだな。」
「お誉めに与り光栄ですー☆。」
「ちょ、ちょっと二人で何言ってんの!」
「お、聞いて判らんか、函南。お前がヒステリーを起こすのが妙味だと言っている。」
「なッ……!!」
「あはは。先輩の方が一枚上手のようだね、函南さん。」
「あーもう、参りましたっ…! まったく、豊橋先輩は相変わらずなんだから…。」
「そこでいきなり『参った』とか言っちまうところが、お前らしく素直でいいな、函南。」
「…へらへら(笑)。」
なげやりな苦笑をして振り向くと、歩道の屋根越しに、ここからでもビックサイトの、大きな逆三角形の連立したみたいな大屋根が一望できます。私達の一団は、その屋根に向かって歩き出しました。
◇◇◇◇◇
風が強いです。豊橋さんはスリムのジーンズでしたが、私は膝上丈のフレアスカート。舞い踊る裾が気になって、腰から上の体を少し前屈させて、鞄を持っていない左手で、スカートの前をぎゅっと押さえました。
すると、豊橋先輩が、早速、茶化します。
「ふふふふ、お、函南。言葉責めもよかったが、そうやって涼風に羞恥する、気が強いのに儚げな身のお前を視姦するというのも、中々にオツなものだな。」
「……!! せっ、セクハラですっ、先輩…!」
「私はただ常に自分に正直なだけだ。特に息子にな。」
「正直なのも程度問題です! 嫌われますよっ。」
「お、ははは。嫌われるのが怖くて、好きなようになど生きられるものか。だがな、函南、私には判っているぞ。恋愛対象という意味ではないにしても、基本的には、私は、お前が好意を持って見る事物の範疇に入っていることをな。」
「…、ず、狡いですっ…!」
「したたかな男というのは狡いものだ。」
すると、澄也くんが、きらきらした瞳で熱っぽい尊敬の視線を先輩に向けて、わくわくした口調でいいました。
「さすがですっ。勉強になりますっ、先輩!!」
「お、うむうむ。日々、よく学べ。さすれば大望も叶えられよう。」
澄也くんは澄也くんで、どこまで本気でこういう振舞い方をしているのか見当がつかないだけに、それはそれで相当始末が悪いです。
「お、函南を注意深く見守れ、清水。今日はこの強風で、今日の奴はあの姿だ。まぁ見ていろ。また吹けば、またも面白いぞ。まだまだ何度も楽しめよう。」
「はいっ☆!!」
そして、先輩は私に向き直って言いました。
「ふふふ。出掛けにその姿を選択した以上、そのスカートの身が、今、お前の己が一身上の運命。本日帰投するまでは、今ここで、その身を薫風に弄ばれる運命、変える能わず。よって、いざ尋常に覚悟せよ!」
「それ、心理的には強姦するぞと宣言してるのと同じですよ…!」
「お、よく判っているな、その通り。お前のその姿その仕草、堪能させて貰うぞ、函南。」
「あのねぇ…。」
「先輩っ、素晴らしい言霊ですっ。『魂』が熱くなりますっ☆!」
また澄也くんが、きらきら光る瞳でそんなこと言います。
「お、うむ。この場合、『魂』と書いて『股間』と読む。」
豊橋先輩は身も蓋もないことを言いました。
そうこうしているうちに、私達は、ずいぶんとタイル張りの歩道を進み、広場に出ました。ビックサイトはもう目の前です。
また強い風が吹き抜けました。しかも、ここにはもう、歩道両側を遮っていた透明なフェンスは、ありません。風は、さっきよりも強烈です。
裾が……。
私は。
…言われたソバからって。
癪ですが。
「う、…くっ!!」
手。
「わっ☆! 眼福~♪」
「うむ、自分の思いに素直にな。精進しろよ。」
こ、こいつらー…。
実際に「見える」とかじゃなくって、「押さえる仕草」そのものに「ぎんぎん」って、何なんですか。…まぁ、長い付き合いですから、こういう連中だって事は判ってたんですけど。
でも、だからって平然として押さえずにいたら、「舞い上がっちゃってますね、私」テナコトになって、白昼堂々、公衆の面前で丸っ恥ですし。
あーもう、月子はパンツスタイルだし、これじゃ私一人で、歩いてるだけで男共に大サービスじゃない。もうやだ。「薫風に弄ばれる」とか、先輩なにそのモッテ回ったヘンテコな形容。でも私これじゃ本当にその表現通りじゃないのよ悔しい。なんなのこの風嫌もうやだもうやだ(半泣)。スカートなんて穿いて来るんじゃなかった…。く。ううう。
…あ、でも、澄也くんだけにサービスなら悪くないかも、えへへへへ。
って…。
……。
(爆)!!
~~~~―――――――――――――――!!!!
う、ううううう。
「お、清水。函南のくるくる変わる表情をよく見ろ。頭の中身が高速で空回りしていると見た! 股間の『秘部』とは別の意味で、これはこれで面白いぞ!」
「まぁ、函南さんの場合、そもそもが『ボケてないわよアピール』と言う種類の天然ボケですから…。」
ビックサイトの大屋根の下に差し掛かりました。
また一陣、吹きました。
捲。
…取り乱していた私は、すかさず押さえ込みながら、思わず悲鳴を上げました。
「いやーっ!!」
すると澄也くん曰。
「お・お・げ・さ・だ・ねっ☆!」
「…………(怒)。」
あなたのせいでしょう…!
◇◇◇◇◇
そんな夏休みも終わって、九月一日。二学期が始まりました。といっても、初日の今日は、ホームルームだけです。朝、禅昌寺先生は、教壇で私達に言いました。
「今日から二学期だ。心して勉学に励めよ、ぬふふふふ。さて、今この場で話し合ったり決めたりする必要があることが何なのかは、お前たちにも大体判っていよう。その辺は自分達で適当にやっておけ。とりあえず、今日の日直がこの場の司会をしておけ。判ったな、おい沼津。」
「ちょっと待ってください! 何で僕なんですか?」
「仕方あるまい。本来この場を取り仕切るべきクラス委員の早川が、この前、トチ狂ってどっか逝っちまった以上、代わりの当て馬が必要だからな。この場は、お前程度で十分だろう。だから、後はお前が宜しく片付けろ。では、私は去るぞ。ぬふふふふふふふふ、いざ、さらば。」
それだけ言うと、先生は教室から出て行ってしまいました。日直の沼津くんは、取り合えず指名されてしまったので、前に出てきましたが、何をやっていいのかわからない様子で、教卓の横でうろうろそわそわと、その佇まいによって困惑を表現しています。
すると、隣の席の澄也くんが、彼に囁きました。入れ知恵を授けているようです。私と澄也くんの席は前から二番目なので、大声を出さなくても、簡単に教卓に話が届きます。
「ねぇ、比等志くん、委員を決めりゃいいんだよ、クラス委員を。そうすりゃ、そいつが司会をするんだから、君は晴れてその場から無罪放免だよっ。」
「あっ、そうか! じゃあ、今から、新しいクラス委員を決めます! 立候補か推薦で候補者を立てて下さい!!」
◇◇◇◇◇
結局、早川さんの替わりにクラス委員に選出されたのは私でした。
「澄也くん、こうなることが判ってて沼津くんにあんなこと言ったんでしょう?」
「さぁ、どうだろうねー。まぁ、想定の範囲内ではあるけどねー。」
澄也くんは、にこにこ笑って、他人事みたいに言いました。そして続けて、
「まぁ、でもさ、先生に、この結果を報告しておいた方がいいんじゃないの?」
◇◇◇◇◇
職員室の自分の席に座って私に、禅昌寺先生は言いました。
「そうか、函南。やはり、お前がクラス委員に選出されたか。まぁ、想定の範囲内ではあるな。」
こいつらー。
私は話題を変えました。
「でも先生、なぜ掛川くんが、くそぶたくんの目を潰すことがわかったんですか?」
「それが判っていたわけではない。くそぶたツーにおいては、五感の一つを喪失すると、それに応じて何らかの才能が発現するように、反応がセッティングされていたのだ。それが今回は、実際に潰されたのが視覚だったというだけだ。正直、私は、お前らが、奴の耳を潰すと思っていた。耳介に平手打ちの一つでもすれば、鼓膜は簡単に破れるからな。実のところ、眼球に箸を突き刺すというのは、想像以上だった。ある意味、出来過ぎというか、行き過ぎと言ってもいい。」
そして先生は、少し黙ってから、おもむろに言いました。
「函南。くそぶたの琵琶の件については、私も既に知っている。くそぶた自身から連絡があった。かように、くそぶたが一つの帰結に到達した今、私もまた、この学校を、そして、この世を、去る。」
◇◇◇◇◇
その日の放課後、私は豊橋月子さんと連れ立って、カラオケに行きました。例の一件までは、私達二人に早川さんを加えた三人で、時々、来ていたのですが、今日は二人だけです。
階段を登って、小さなビルの二階にある受付で部屋を取り、奥に進みます。整然と並ぶ閉じた扉々から、まるで古新聞に包んだ生ゴミから浄水が浸み出すみたいに、爆音に乗せた大声の歌声が、レンズの先端にネジ込んだ減光フィルターによって振幅を強制的に減衰させられたみたいな、ささやかな名残りの小音が、多重に微かに響いてきます。
豊橋さんは言いました。
「あ、でも、ゆりは、そんなに新しい歌をたくさん知ってる方じゃないわよね。他のみんなと大勢で行った時なんか、よく『懐メロみたい』とか言われてるし。」
「そんなこと、オタクの一人アニソン大会に言われたくないわ!」
でも、まぁ、いいんです。実際、選曲には結構よく苦慮していたりはするのです。ですが、今日は、なんだかんだ言っても気心の知れた豊橋さんと一緒ですから、その辺は、ある程度は気楽なものです。
私は早速リモコンをガメると入力送信しました。画面が現れ、私は歌い始めました。いつものように「懐メロみたい」な選曲です…。
「そこに行けば
どんな夢も かなうというよ
誰もみな行きたがるが
遥かな世界
その国の名は ガンダーラ
何処かにある ユートピア
どうしたらいけるのだろう
教えて欲しい
In Gandhara, Gandhara
They say it was in India
Gandhara, Gandhara
愛の国 Gandhara」
…何処かにある 遥かな世界?
いえ、しかし。
案外、ガンダーラは、遥か遠くにあるのではなく、すぐ近くでパックリと口を開けて待ち構えていて、私たちが普段、それに気づかないだけなのかもしれないな、と、思ったりもしたのです。
◇◇◇◇◇
しかし私のそんな思いとは裏腹に、その数日後、私が朝食を摂りながら見たテレビは、「学校殺人計画」関連のニュースを報じていました。
そう、殺人文部科学省は、遂に今日、これまで「秘密準備段階」にあった「学校殺人計画」の存在を、公式にメディアを通じて発表しました。
手に取った新聞にも、そのことは報じられていました。そこに掲載された政府公報には、禅昌寺先生が自分が「殺人教育者Z」だと言い出した時、くそぶたくんを殺害した時、そして、復活させたくそぶたツーくんを連れて来た時に述べたのと同じ内容が、「学校殺人計画」のあらましとして記載されていました。
そして、くそぶたくんの殺害や、くそぶたツーくんの出現、その才能の発現についても公式に記述がされており、これを「学校殺人計画」のネクストステージである「人間改良計画」の第一段階と位置付け、「本日を以て『人間改良計画』を本格的に発動いたします!」と宣言されていました。
すでに国会では、政府与党が、教師に殺人権を認めるための条件に関する法案を提出し、早期の成立が予想されていることも報じられていました。そうなれば、禅昌寺先生以外にも、複数の『殺人教育者』が誕生することになります。全国で、殺害及びドッペルニンゲン化を一セットにした『学校殺人計画』『人間改良計画』が本格的に進展してゆくことになるというのです。
そして、さらに宣言はこう結ばれていました。「十月二日を以て、『人間改良計画』の公式な第一フェーズ『第一学校殺人』を執行いたします!」
◇◇◇◇◇
秋分の日、私は澄也くんと一緒に地下鉄で皇居に向かいました。
この日、「殺人教育者Z」がすでに確定している死刑の執行を受け、以て「人間改良計画」の礎となるべく、皇居で公開処刑されるというのです。そのイベントは「ぶらさがりフェスタ」と銘打たれ、メディアを通じてその挙行が大々的に予告されていました。新聞に、テレビに檄文が掲載され、音読されました。
「国民的英雄の死を悼みましょう!!」
私たちが千代田線の二重橋駅の2番出口の階段を昇って地上に出ると、小学生たちが、訪れる人々に、プラスチックの柄の小旗を配っていました。ちょうど旭日旗を四等分して右上の部分だけを取り出して拡大したような旗です。なんですか、この旗?
皇居外苑の、だだっ広い行き止まりの道の先、お堀を渡り、門をくぐって宮殿東庭につくと、そこは既に、かなり人々で一杯でした。時間までしばらく待つうちに、人はさらに増えていきました。
時間になりました。宮殿の長和殿前に設けられた特設の演台に、総理大臣すなわち殺人総理大臣が登壇しました。演台の後方には、既に首を吊るためのロープと十三段の階段が設置されていて、処刑の準備は万端に整っているようでした。そしてその後ろには、くそぶたくんと、第一学校殺人で殺害された「被験者」の、二人の写真が大きく掲出されています。
宮原総理大臣すなわち宮原殺人総理大臣が声を発しました。
「皆様! 本日はようこそおいでくださいました! 只今より、『殺人教育者Z』の公開処刑イベント、『ぶらさがりフェスタ』を執行いたします! 私は、すでにご承知の通り、このたび遂行いたしております『学校殺人計画』及び『人間改良計画』に、政治生命のみならず人間としての生物学的生命までもを賭けて邁進する所存であります!!」
総理大臣すなわち殺人総理大臣が壇上から去ると、今度は禅昌寺先生が、両手を後ろに縛られた姿で、二人の刑務官に付き添われて登壇しました。禅昌寺先生は、マイクの前に近づくと、にやりと笑って、開口一番、こう宣言しました。
「諸君! 私、殺人教育者Zは、ここに宣言する!! 今まさに、私がこの世とさらばだ、ぬふふふふ。」
人々は興奮し、叫びました。
「いいぞーっ!!」
「最高だーッ!!」
小旗が打ち振られます。
ぶらーん。
再び総理大臣すなわち殺人総理大臣が壇上に現れました。彼は言いました。
「皆様、国民的英雄『殺人教育者Z』の死を悼みましょう!! そして、この計画の最初の被験体である『くそぶた』こと袋井呑蔵君、および公式な学校殺人の最初の被験者たる厚木泰吉君との前途に幸多からんことを、ともに祈念いたしましょう! そして、今回、『第一学校殺人』を執行した『殺人教育者X』に敬意と感謝を! 本日はありがとうございました!!」
人々は再び小旗を打ち振り、おうおうと怒号を挙げました。
◇◇◇◇◇
その翌々日、週が明けた月曜日、私は、禅昌寺先生が存在しなくなった以上、誰が担任として現れるのか、色々と憶測を巡らせながら、教室に座っていました。
以前一度あったように、小淵沢先生に戻る、というのが一番ありそうな話ではあります。ですが、今はもう禅昌寺先生は存在しない以上、小淵沢先生に戻るなら、前みたいに一時的なリリーフということはあり得ません。メディアは、「人間改良計画」を本格的に発動する、と報じていました。つまり、事態は一段階進んだのです。そう考えると、私たちの学校でも、全く新しい先生がやって来る可能性もあります。
ところが、驚くべきことに、ガラガラと音を立てて扉が開き、白衣を翻して入ってきた人物は、禅昌寺先生でした。私は思わず口走っていました。
「ちょっと待って! 禅昌寺先生は確かに死んだはずよ!」
ところが「禅昌寺先生」は、開口一番、意外なことを言いました。
「私は、善光寺鵬次。今日から、私がこのクラスの担任だ。」
「はい?」
「諸君らは疑問に思ったのであろう。私は禅昌寺放介その人ならずや、と。否、否、否。私は善光寺鵬次、禅昌寺放介のドッペルニンゲンである。この世界における第二のドッペルニンゲン、『セカンド・ドッペルニンゲン』といったところだな、ぐふふふふ。見よ、眼鏡をかけておらぬだろう、視力が改良されている故のことよ。」
◇◇◇◇◇
いなくなった早川さんに替わってクラス委員に選出されていた私は、その日の昼休みの終わり近く、理科準備室に来ました。
「善光寺先生、午後の理科の時間は、教室ですか、理科室ですか?」
「うむ、次の授業は理科室で行う。」
「…。」
「何か言いたそうだな。」
「…禅昌寺先生のドッペルニンゲンなら、『前生』の記憶を引き継いでいるのでしょう? ならば伺いたいんです。なぜ、ぶらさがりフェスタでくそぶたくんを大々的に広告塔にするような真似をしたんですか。」
「うむ、確かにな、殺人文部科学省はくそぶたを、計画の宣伝のために、骨までしゃぶり尽くすつもりだぞ。『人間改良計画』は、かくも劇的であると、な。」
「…。」
「不満か?」
「はい。」
「それは、どうやらお前だけの意見というわけでもなさそうだな。」
「はい。これは清水くんと掛川くんの意向です。彼らが、私に、先生に真意を確かめてきてくれと言ったんです。」
先生は言いました。
「ならば、放課後、奴等を連れて、もう一度ここに来い。なに、奴等とて、私に直接言いたいことの一つもあるのであろう?」




