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後編

 


 この『声』なら、私は彼と会話が出来る。


 鈍く光る真珠大の粒を口に含んで飲み込んだ。喉につっかかる違和感は気になるものの、いずれ消えるだろう。

 単語にもならない試しの第一声は期待以上に美しく、自分が発したものだという認識が少し遅れた。

 意味のない単語を羅列して、自分の『声』である事を確かめる。

 湧き上がった喜びのまま笑顔になった。

 満面の笑みというものを浮かべたのは、記憶にある限り初めてだった。

 声が綺麗になっただけで、心はこんなにも軽やかになるのか。

 笑みの回数が自覚する程増えていく。店に訪れた客が一様に目を丸くするのがおかしかった。

「驚いた。魔女さん、その声どうしたんだい」

「内緒だよ」

 くすくす笑って、注文の薬を袋に入れる。


 ハンスに声を聞かせたい。

 早く店に来ないだろうか。それともこちらから出向いてみようか。

 気が急いた夕方。もう店を閉めようという時になって、扉のベルが勢いよく鳴った。無作法に扉を開いたその人は、挨拶もなく開口一番に言った。

「クリス、喋るようになったって!」

 噂に疎そうなのに、ハンスは意外に耳が早い。私が喋らないと決めたその日も、こうして店に飛び込んできた。

 あの日と違うのは、私が笑顔で迎えようとしている事だ。

 いらっしゃい

 歌うような声で迎えるつもりだった。

 そして彼を、驚かせるつもりだった。


 突然、喉に焼け付くような痛みが走った。

 カツンと軽い音と共にほんの小さな振動が足に伝わる。

 その正体を、私は確認する前に直感的に感じ取っていた。

 喉を押さえてしゃがみ込む。視線を巡らせれば、光沢のある海の秘宝が転がっていた。

 拾い上げて飲み込む。突っかかりながらも通った『人魚の声』で、改めてハンスに話しかけようとした。

 しかし声になる前にあの焼け付く痛みに襲われ、『人魚の声』は落ちてしまう。

 飲んでは逃げられるを、何度も何度も。意地になって何度も繰り返した。だけど『人魚の声』はその度に抵抗する。


「クリス?どうしたんだよ」

 ハンスが私の異常に戸惑いを見せていた。だけど私には答えられる声はない。使いたい『声』は私を拒絶している。

 薄暗い床にあってもなお消えない輝きは、その無言の主張に思えた。

 他人から大切なものを奪い己の幸せを得ようとした心を見透かしているのだろうか。

「クリス?」

 呆然とする私の頭上から、心配する声が降りてくる。

 つられるままに顔を上げたはいいものの、返す言葉は出なかった。

 じわじわとハンスの輪郭がぼやけだし、まばたきひとつで涙が一筋こぼれた。慌てて拭ったところで止まるわけもない。

 醜い嗚咽がこぼれる前に店の奥に逃げ込んだ。

「おいっ」

 戸を閉めて鍵をかける。

 しばらくハンスが私に呼び掛けていたが、到底応える事など出来なかった。



 *****



 『人魚姫の声』はどこまでも私を嫌った。


 『声』は一日で噂になったようで、翌日は普段よりもずっと多くの客が来店した。中にはほとんど来る事のない若い娘までいる。

 そんな野次馬な客と会話するだけなら支障はない。だけどハンスと話そうとすると途端に喉が焼け付いて、『人魚の声』が落ちてしまう。

 そのうち店を開ける事もやめてしまった。

 最後に店を開けてから、何日経っただろうか。

 塞ぎ込む中で、次第に考えるようになったのは、私が『声』を奪った人魚姫の事だ。

 彼女は意中の王子と会えたのだろうか。

 きっと声がなくたって、彼女の美貌ならうまくやっているに違いない。

 気持ちを伝えなくとも愛されているのだろう。

 薬の材料で染みの付いたテーブルの上に、瓶に閉じ込めた『人魚姫の声』がある。

 窓から傾いた月明かりが差し込み、鈍く光っていた。己の穢れを見下されている気分になる。


「あんたなんか売り払ってやる」

 久方ぶりに出した声は以前よりも掠れていた。

 明かりも灯さない室内。椅子の上で膝を抱えたまま、物言わぬ宝石を憎々しく睨みつける。

 カランカラン

 淀んだ店に似つかわしくない、軽やかなベルが響いたのは、そんな折だった。

 この音を聞いたのももう随分と前の事に感じる。

 停滞しきっていた空気が動いた。歓迎するように浮ついた店の気配から、訪問者が誰なのか知れる。

 そもそもこの店の鍵を持っているのは、私とあの人だけだ。


「おやおや。店が嘆いていると思えば。随分と景気の悪い顔をしているねぇ」

 折り曲がった背中。垂れ下がった皮膚にいぼだらけの肌。声はしわがれているが、人の耳に入り込むように深く、私の声とはまた違う。

「……おばあちゃん」

 大祖母は私の暗い顔を見るなり、意地悪にニィっと笑った。

 祖母は魔女の師匠であり、この店の先代店主でもある。刺しても毒を盛っても死にそうにない化け物じみた頑丈さを持っているくせに、労働は老体に響くと言って私に店を譲り、今は遠い森で悠々自適に暮らしている。


「嫌だ嫌だ。そんな顔じゃ幸運も逃げちまうよ。あたしの店を潰す気かい」

 どう聞いたって面白がっている。思わず顔を顰めた。余計に面白がらせると分かっているのに、つい突っかかってしまう。

「用がないなら帰って。これから眠るんだ」

「嫌だねぇ。折角おばあ様が来てやったのに。おばあ様不孝な孫だよ」

 祖母との会話はいつだって宙を掻くように手応えがない。ペースを向こうに掴まれて放さないのだ。

 椅子に座った祖母は、そこで初めてテーブルの上に目を留める。

 目尻が垂れ下がり開いているかも分からない目で興味深く見つめた。ほうほうと頷き値踏みをする。

「いい声だね。もしや人魚のものかい?」

「ああ」

「そうかい。それはいいものを手に入れた」

 祖母はニヤニヤと笑って『人魚姫の声』の入った瓶を撫でた。

 『人魚の声』は珍品中の珍品だ。売り飛ばせ数年は遊んで暮らせる。かつて乱獲されていた事もあったらしいが、海の王の怒りを買ってからはそれもなくなった。そのため人魚の『声』の価値はとても高いのだ。ましてや『人魚姫の声』だ。倍以上の値段で捌ける事は確実である。


「私が売り飛ばすんだよ」

「まだ小娘のあんたには買いたたかれるのがオチだよ。アタシが代わりに売ってやろう」

 そして仲介料をせしめるつもりだろう。まったく可愛い孫娘に対してもちゃっかりした姿勢は崩さないんだから。


 大祖母から瓶を取り上げて胸に抱いた。するとしわくちゃ顔の大祖母が芝居がかった動作で肩をすくめてみせる。我が大祖母にして魔女の師匠ながら、かなり憎たらしい。

 私の睨みなど意にも介さず、視線を窓へと送った。

「おや。お客さんだよ」

 窓の外を見ると、遙か下の海から人魚が大声を出して手を振っていた。

 人魚姫の時もそうだが、たまにこうして海の客もこの店を利用する。崖の下は丁度ぽっかりと穴が開いており、森の中にある洞窟と繋がっているのだ。

 ランプを手に洞窟へ降りると、真っ直ぐと伸びて癖のない髪の人魚が、私を見るなり表情を明るくした。


「良かった、魔女さん。あなたにお願いがあるの!」

 彼女は私が人間に変えた人魚姫の姉だった。

 現在の妹の状況を彼女は憂いつ語り出す。

 城の近くに住む小鳥に聞くと、妹は城に入り込む事には成功したものの、意中の王子には既に婚約者がいた。声を失った妹は喋る事は不可能で、文字も書けないために思いを伝える事も叶わない。

 寝物語のように聞かされる。人魚の声とはかくも美しいものだ。自然と惹きつけられてしまう。

 ある種の魅了の魔法だった。

 歌声に魅入ったばかりに船が座礁してしまったとはたまに聞く話だが、そうなってしまうのも無理はない。

「王子は別の娘と結婚を決めたらしいの。だからあの子には海に戻って来なさいと言っているのだけど、首を横に振るばかりで。もしかしたら人魚に戻る方法が分からないのかと思って。ねぇ魔女さん。あの子を人魚に戻す薬はないの?」

 人魚姫には薬を飲ます前にちゃんと伝えてある。知らないはずはない。


「人間になる薬は、相手を強く思う事で体の作りを変えるもの。人間で居続けるにも人魚に戻るにも相手の血が必要になるのさ。ただし――」

 それが愛情であれ憎悪であれ、全ての感情を傾けて相手を思う事が魔法の材料となる。そして相手の血を摂取する事で完成するのだ。

 呪いとも呼べるだろう。そして呪いには必ず代償がつく。

「満月までに血を飲まなければ泡になって消えちまう」

「そんな!」

 叫び声が洞窟内で反響する。この暗さでは分からないが、顔を真っ青にしているだろう事は想像に難くない。


「どうにかならないの?」

 縋るように見上げられた。

 人魚は陸では自由に行動出来ない。彼女は手助けする力をほとんど持たない。

 思案を巡らし、店に戻って再び洞窟に入る。

 人魚に差し出したのは一本の針と香だ。

「針は普通のものだが、香は少しの間深く眠るように調整したものだから。これらを上手く使いな」

 人魚は救われたように涙目で二つを受け取った。大切に胸に抱く。


「ありがとう。私は何を支払えばいいの?私の『声』?」

 期待が瞬いては消えた。流れ星に似た一瞬の間だけだ。だけど自己嫌悪を抱くには充分だ。

 顔が苦々しく歪む。

 耳に入るのは、変わるわけもなく聞き飽きたしわがれた声だった。

「真珠でいいよ。言うだけ持ってきな」

 祖母がこの場にいたら、きっとニヤニヤと気味の悪い笑顔でこちらを見ていた事だろう。




 結果として人魚姫帰郷作戦は失敗に終わった。

 人魚姫は姉が差し出したものを、決して受け取ろうとはしなかったのだ。

 王子から貰う血は、指先に針を刺して膨れ上がる少しの血だけでいい。王子を死なせる心配はない。

 そう何度説得しても、妹は首を縦に振らない。

 人魚姫の姉が思い詰めた様子で相談に来た。満月はもう明日に迫っていた。

 王子が婚約者を愛する状況は変わらない。

 あんな美しい人でも振られてしまうのか。

 それを慰めにする私は、声ばかりか心まで醜い。それとも心が醜いから、声も醜いのだろうか。

 人魚姫の様子を見に行くという事でその場は切り上げた。

 気分は乗らないが新たに報酬を貰ったのだ。仕方がない。


 草木も眠る時間に、梟に姿を変えて店から飛び立つ。上空は地上よりも空気が冷たい。しかし梟の羽毛があればむしろ心地良い。

 森を越えれば城が見える。巨大な岩山と一体化したような、唯一の入口を覗いて周囲を絶壁に護られた城だ。

 岩山を荒い海の波が打ちつけていた。城の近くは風も穏やかではない。少し手間取ったが、どうにか目的の部屋の窓に近付けた。

 人魚姫の姉に部屋については聞いていた。そうでなくとも、人魚姫が窓に頬杖をついて物憂げにしているのだから、すぐに分かる。

 人魚姫の頭上を抜けて部屋に降り立った。人の姿になる。途端に寒さで身震いをした。

 こんな時間になっても窓を開けているために、室内は些か冷えているようだ。暖炉の火も効力は薄い。

 窓に張り付いていた人魚姫は、今は目をこぼれんばかりに見開いて、私の登場に驚いている。

 口をぱくぱくするも、当然発せられる声はない。


「何を言いたいのかさっぱりだよ」

 小瓶を魔女に向かって放り投げた。取り損ねて白いナイトドレスの足元に転がったそれを、彼女は不思議そうに見る。そして何かを認識すると、こちらに向ける視線に戸惑いを映した。

「一時的に渡すだけさ。用が済めば返してもらうよ。それを飲みな。このままじゃ会話にならないからね」

 彼女は納得したようだ。小瓶を広い、手のひらに転がした『声』を懐かしげに撫でた。

 飲み下した後に、外見にこれといった変化はない。しかし口を開けば明確な変化が分かる。

 人魚姫の発した音は意味のないものばかりだ。にもかかわらず、楽器を奏でるように美しいものである。比べてみれば、十分美しいと思われた私の時とは明らかに『声』のやる気が違う。

 すぐにでも大好きらしい人魚姫から引き剥がそうと意地の悪い事を考えたものの、行動するまでに至らなかった。

 思案気に絨毯を見つめていた彼女が視線を上げる。

 それは決心した人間のものだった。


「声、一日だけ返してもらえないかしら」

 すぐ要望を突っぱねなかったのは、話がそれで終わりではないと察したからだ。

 彼女は案の定、しかし思いがけない事を口にした。

「王子様に結婚式で歌を贈りたいの」

 だから結婚式の当日だけ返してほしい。

 瞳に狡猾な色などなく、ただ本当に祝福したいだけなのだと、泉のように澄みきったそれを見れば容易に分かった。

 理解し難い。

「その声があれば王子の心を奪えるとは思わないのかい」

 美しい容姿。美しい声。二つ揃って落ちない男などいないはずだ。

 人魚姫は寂しげに笑う。

「……無理よ。この声があったとしても、きっと私は王子様の恋人にはなれないわ。あの方の婚約者はとても素敵な方で、王子様が惹かれるのも当然だもの」

 そんな王子だから、憧れが恋に変わったのだ。

 そう告げる彼女は憂いながらもどこか誇らしく、店に来た時のふわふわとした空気はなかった。きっと恋に破れたから。しかしあの時の少女らしさとは打って変わる落ち着きが滲み出ている。

 彼女は一度目を伏せて、茶目っ気たっぶりに笑った。


「でも……。逃がした魚は大きいって、少しでも思ってくれたら嬉しいわ」

 スカートの裾を摘まんで白い足を見せる。

 今はもう、あの美しい青の尾鰭はない。

 背筋を伸ばして、二本の足で立っている。

 その強さがただただ眩しかった。

 『声』が彼女を望むのも当然だ。


 再び彼女から『声』を取り上げる。

 彼女の手の中では美しく輝いていた、真珠大のその粒も、私の手に渡った途端に鈍いものに変わった。

 やはり売り払ってしまおうか。

 それともすり潰して薬の材料にしてしまおうか。

 憎たらしい態度に鼻を鳴らす。

 窓の前に立ち、梟に姿を変えた。飛び立った後に何気なく振り返ると、人魚姫が見送る姿があった。

 彼女は口をぱくぱく動かして、「ありがとう」と声なく伝えてくる。

 やめてほしい。

 私と彼女の差をより突きつけられて惨めになる。


 そもそも魔女が強欲で醜いのは当然じゃないか。

 良い行いだってほんの気紛れ。魔法の対価は客が破滅しようが関係なく搾り取るものだ。

 心を入れ替えたところでしわがれた声が美しくなるわけもない。

 今からするのは魔女の気紛れ。

 いや、更なる儲けを得るための行動にすぎない。客がどうなろうとも。

 店に戻った私は、竈の前に椅子を置いて火を見つめている大祖母に声をかける。

「おばあちゃん。頼みをひとつきいてほしい」

 私の十倍は生きている大魔女は、待ち構えていた様子で「高くつくよ」と告げて、求めていたものを取り出した。



 *****



 美しい人魚姫は結局、王子を振り向かせる事は叶わなかった。

 しかしその歌声と容姿が見初められ、宮廷専属の歌姫となったそうだ。

「知らない歌を覚えるのが楽しいの」

 大祖母に頼んで手に入れた王子の血液と『声』の対価を少しずつ返済に来る彼女は、笑顔で語った。

 元人魚姫は好きな人と結ばれなくても日々充実して幸せそうだ。

 やはりそんな彼女が眩しくて、煩わしくて。店から叩き出したくなる。

 それでも彼女の無駄話に付き合うのは、菓子や果実水を用意して過ごすその時間に楽しさをほんの少し見出しているからだ。


「いらっしゃい」

 彼女が顔を見せるようになってから、私はまた客に声を発するようになった。

 相変わらずのしわがれ声で嫌気が差す。

「魔女さん。腰痛に効く薬をちょうだいな」


 嫌いな声を再び使い出した時、このふくよかな客はネズミのように愛嬌のある丸い目を、より丸くしてまばたき、ふわりと解いて言った。

「久しぶりに聞いたねぇ、魔女さんの声。やっぱりこの声が落ち着くね。そりゃ、この前の声も綺麗だったけどさ」

 私には醜い声がお似合いという事だろうか。

 そんなつもりで言った事ではないと分かっている。

 しかし私が気に病んだところで、他人にとっては声など些末な事なのだ。

 当然だ。バカバカしい。

 私が私の声を聞いてほしくないのは、ハンスただ一人。それ以外はどうでもいいではないか。

 そう。他人なんてどうでもいい。

 だから他の誰かには声を聞かせても、ハンスにはまだ、声を掛けられない。


 ベルと共に浮かない顔のハンスが店に入ってくる。ここ最近の彼は配達品を持っていない事も多い。そして何を買うわけでもない。

 ただ私に会いに来ているだけなのだ。

 いつもなら笑顔で挨拶をする彼の口も重たい。

 そんなハンスを見て少なからず悦に浸る私がいた。

 実際に私に抱いている感情がどうであれ、この時ばかりは彼が私の事を考えているのだと分かるからだ。

 ハンスはしばし無言で戸口の前に立ち、重たい口を開いた。


「あのさ。クリス、まさかお前、今更声気にしてるのか?」

 反論しかけて口を噤んだ。

 声を聞かれないためにやった事ではあったが、結果として肯定した事になってしまった。

 鈍いハンスも気付いてしまったようだ。

 パチパチとしばたたいた目を意外にも心配げに曇らせた。

「それ俺の所為じゃないよな?どうせ俺が余計な一言でも言ったんだろってアンの奴に言われてさ。言った覚えないし。あいつは思い込みでものを言う癖どうにかしろって話だよな」

 貶しつつも口調からは親しみが滲んでいるのは明らかだ。

 ほんのりと熱を帯びた気持ちが急激に萎む。我ながら現金だ。

 落ち込む私に勘違いしたのだろう。ハンスは月並みな事を言う。


「今更気にする事でもないだろ」

 悩みを軽んじられるのは気分がいいものではない。

 顔を顰めたので不味いと感じ取ったようだ。慌てて付け足した。

「俺は好きだぜ」

 所詮は口先だけの慰めだ。

 頭ではそう思いつつも、俄かに胸が騒ぎ出す。言葉ひとつで気持ちが舞い上がるのだから、私はどうしようもなく単純だ。

「死んだばあちゃんの声に似てて落ち着くし」

 そう。言葉ひとつで気持ちが変わるのだから単純なのである。


 私は速やかに店の奥に引っ込んだ。戸を閉めてしっかりと鍵もかける。

 しばらくの間弁解と共に扉をドンドンと叩かれたが、無視を決め込んだ。

 声を変える薬を意地でも作ってやろう。

 やはり私はこの声を好きになんてなれやしない。

 好きな人には少しでも理想の自分を見せたいものなのである。


 ハンスのあまりの必死さに、私は少しだけ笑った。




end

 


「あんた、バカ?」


 夜になれば、食堂は飲み屋に変わる。ざわめきに紛れる事なく胸を刺してきた声に、ハンスはうなだれるほかなかった。

 しかし幼い頃から的確にハンスを窘めてきたアンが、たった一言で済ませるわけもない。


「死んだばあちゃんに似てるとか。魔女さんに同情するわ~。あんたの一言の多さはもう病気ね。いっそ魔女さんじゃなくてあんたが黙っていればいいんじゃない?」

 辛辣な意見が矢の雨となって降り注いでくる。ハンスは息も絶え絶えに、自分の家が卸した葡萄酒をちびりと飲んだ。

 クリスの考えが全く分からない。

 何故今頃になって声を気にするのか。これまで声について触れたところで流すだけだったはずだ。

 考えたところで答えは出ない。ならばと本人に問いかけたが、黙して語らず。何も得られなかった。

 思い悩むハンスを見かねたアンが口を挟む。

「あんたいい加減、自覚したら?」

「は?」

 突拍子もない台詞に面食らう。

 アンは呆れきった面持ちで首を振った。


「魔女さんを名前で呼ぶのは自分だけって、優越感持ってるくせに」

 まるで意味が分からない。

 アンはハンスの思考を見抜いて、あからさまに馬鹿にした表情を作る。

「あたしの前ならともかく、他の人間の前じゃ絶対に魔女さんの名前を言わないでしょ。あたしが魔女さんの名前を口にした時だって不機嫌になったし」

「してないだろ」

「してたのよ。それも無自覚?あんた本当にバカなのね」

 バカに付き合うのはごめんだとばかりに、アンはひらひらと手を振る。

 店を手伝っていたアンの妹が、悲鳴に近い声で姉を呼んだ。姉が手を休めていた分を妹が補っていたのだが、この忙しい時間帯。ついに限界を迎えたようだ。

 アンは妹に答えて、最後のお言葉をハンスに授けた。


「花を持って行きなさいよ。魔女さんの店、いつも綺麗な花が飾られているじゃない。きっと好きなのよ」

「花か...」

 花束を贈ったら、笑顔を返してくれるだろうか。

 長らく見ていないクリスの笑顔を思い浮かべ、ハンスはごく自然に花を摘んでいく事を決めていた。

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