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武田見聞録  作者: 塩宮克己
2章 天文12年(1543年)佐久小県編
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01 新年

 年始と言えば、儀礼にあまりうるさくない現代社会でさえ何かと恒例行事の多い時節である。それが身分社会の確固として残る戦国時代であればどうなるか。


 その答えを政秀は体験していた。然程付き合いのあるわけでもなく、大勢の家臣がいるわけでもない。それでも、季節の挨拶というものは発生した。


 特に田舎の場合、片方が贈り物をし受け取った側がそれに返礼することで互いの結びつきを確認し合う面がある。義理をするとも表現される。


 例えば若いころの織田信長なども、領地の村から贈答を受け、返礼として踊りを披露しに行ったなどという事がかの『信長公記』にも記述されている。


 政秀とて片手で数えられるほどとはいえ配下を召し抱え、多少とはいえ知行を宛がわれた身である。流石に正月に何の挨拶も無しという訳にはいかなかった。


 何分曰くつきの家と縁を持っているのだ。周囲からも色眼鏡で見られる。何か一つ落ち度があれば「やはり……」と後ろ指をさされてしまう。


 そのあたりの慣例を一から十まで事細かに聞かれた教来石も、手土産などの相談に乗り手配を任された坂田屋も、災難と言えば災難であった。


 更に言えば周囲もであろう。あの新参の余所者でさえ古式に則っているといわれては自分たちもそうしないわけにはいかないからだ。それはどこか浮ついた空気をもたらした。


 そうして、往々にしてそう言った時ほど厄介事は起きるものだ。新年早々の三日、甲府城下に大風が吹き、武田道鑑宅から出火したのだ。


 火は風にあおられ周囲に燃え広がり、あろうことか武田晴信その人の屋敷にまでその被害を拡大させることとなった。これを受け晴信は駒井高白斎邸に一時移る事となった。


 これには甲府中が大騒ぎになった。この時代、木造建築がほとんどでありひとたび火災が発生すれば被害は凄まじいものとなる。かの江戸城とて被害に遭っている。


 加えてこの時代は迷信がまだ根強く残っている。不吉の前触れ、切腹した諏訪頼重の祟り、果ては諏訪大明神の天罰という者さえ現れ侍衆はその火消しに追われることとなった。


 そんな中で政秀ら白樺家は新しい役宅へと引っ越しした。当然、やっかむ輩からはご当主が災難に遭われる中自分達だけ、と影に日向に言われながらの移転であった。


 実際問題として、下級武士の知行の相場は十五貫前後である。それが政秀は百貫である。立派な中級武士だ。それ相応の所に住んでもらわねば身分制度としても問題だ。


 加えて今迄の居宅は自身と家族のみ用である。家臣を召し抱える身となれば、敷地内にそれ用の長屋も構えなければならない。出世はしたらしたで大変なのである。


 流石に女中も雇わねばならない、馬を世話する馬丁や馬小屋も要る。周囲の生垣や来客用に茶道具や床の間もそれ相応に整えなければならないのだ。


 例によって政秀に相談に来られた教来石もある意味で災難であった。本来ならば場数を踏んだ血縁の年長者、物知りの叔父などの出番である。


 しかし流れ者の政秀ではそんな存在は望むべくもなく、すべて教来石の元へと相談に来られたのである。自身とて戦功による加増で慌ただしい中にである。


 政秀を従えるからにはそれ以上の知行を持っていなければ格好がつくまいとの意を含んだ加増であったが、加増は加増である。だがこれが嫉妬を買った。


 元々教来石自身、地侍という豪農より少し上、程度の下級武士である。それが得体のしれない新参者を部下に宛がわれてそのおこぼれで出世したのだ。


 嫉妬を買わない訳が無かった。加えて本人も武骨な武人肌でまかり間違っても世渡り上手の性質ではない。そんな人物が部下が手柄を立てたとの理由で昇進したらどうなるか。


 結果は陰口の嵐であった。

曰く、首一つ上げずに加増された。

曰く、元服前の子供の上前をはねた。

曰く、他国者の腰巾着となった。


 どれ一つとっても武士の矜持を踏みにじるものである。万一本人の身に入ったならば喧嘩両成敗の慣例を承知の上でも相手を手打ちにしかねない。


 この時代、武士の面目は命よりも重い。時代を下った江戸時代でさえも面目を守るためと一族郎党討ち死にを承知で主家に弓引いたものがでた程だ。


 当然ながら、この件に関しては本人よりも周囲の方が青ざめていた。本人やその家族は武士の面目を守り立派な最期を遂げたですむが、使用人はそうはいかない。


 遺児が取り立てられることもあるが、大半はお家取り潰しとなる。ならばその家に仕えていた中間などはどうなるか。雇用枠の空きなどそうそうない。


 結果として養うべき家族を抱えたまま職にあぶれることになる。ましてこの時代の就職は地縁血縁が重視される。次の職を紹介してくれるべき主人がいなくなればどうなるか。


 そういった人物が盗賊などに身を堕とす場合もあることを考えれば、ある意味で治安対策の一環とも言える。教来石家の者共はある意味で綱渡りをしていた。


 それでも白樺の放逐を主人に進言しなかったのには理由があった。ある日政秀が登城した折に絡まれることがあったのだ。残念ながら武田家にもそういった輩はいた。


 政秀には難癖にはまともに取り合わず一礼するとただ一言「弘法は筆を選ばずと申します」と返答した。これを聞いていた一部の者は瞠目した。


 その言葉の意味は自分の力量ではなく教来石の薫陶よろしきを得たのだ、である。本人のいる所ならば部下は上司をほめる。それは処世術だからだ。


 だが本人のいない所では不満を漏らす事が多い。そうやって心の釣り合いを取っているのだ。それゆえ、政秀が教来石に本物の敬意を払っている証拠と噂された。


 新年早々に館を焼失するという痛手を被った晴信であったが、政務や他国との関係はそんな事で待ったをかけるわけにはいかない。駒井邸に居を移し対応に当たっていた。


 流石に当主が家なしでは格好がつかない。甲府の大工に召集がかかり、館の再建は急ぎで行われつつあった。しかし流石に一国の主の屋敷である。一月二月では落成しない。


 そんな折、二月二十四日には今度は萩原某の宿が火元となって再度火事になり、今度は駒井邸がその被害を受ける事となったのである。

 

 二度の火災による難に甲府の人は前にもまして祟りだ神罰だと噂したが、晴信は粛々と建設途中の自分の館へと戻り政務を執り行う事とした。


 政秀が一人で呼び出しを受けて参上したのは、そのしばらく前、一月も半ばの折である。当然、向けった先は再建中の晴信屋敷ではなく駒井邸である。


 近習に案内され奥まった一室に案内された政秀は驚愕に目を見開いた。躑躅ヶ崎館ではなくわざわざ駒井邸に呼び出すとは何事かと思ったがそれも当然であった。


 縦長の畳敷きの一室の一番廊下側、つまりは下座に案内された。それは良い。しかし、その場にいた面々が大問題であった。一歩室内に足を踏み入れるのさえためらわれた。


 それでも呼び出された以上は覚悟を決めなければならない。政秀が室内に入ったことを確認した近習が静かに閉めた襖の合わさる音が、やけに大きく響いた。


「何をしておる、頭が高いぞ」

 そう教来石に声を掛けられ慌てて平伏した。

「白樺槍之介政秀、お召しにより参上いたしました」


 自分の上司である教来石が臨席しているのは良いだろう。だがその対面に原美濃守が着座し双方とも刀を右ではなく左に置いているのは何事か。政秀の手が汗で湿った。


 加えて館の主の駒井高白斎度の。これは良い。だがその更に上座に座る二人の片方は一度だけお会いした当主晴信公の弟典厩信繁その人ではないか。ならその対面の老臣は――

 

 当主実弟の対面に座れる存在など武田家人ありといえども限られている。もう懐かしささえ感じるあの歌会にいた、ちらりと一瞬見ただけだがあの雰囲気は見覚えがある。


「甘利備前守である」

 憮然とした、だが張りのある声が上座から聞こえ政秀は額が畳に張り付くほど平伏した。とんでもない大物だったからだ。

 

 武田家筆頭家老は現在諏訪在番の板垣駿河守、そして次席家老はこの甘利備前守だ。だが問題はそこでは終わっていない。この二人より奥に一段高い座があるのだ。


 大膳太夫様おなり、の先触れの声が疑問に答える様に響いた。全員が一斉に平伏した。武田家当主、武田晴信その人の登場である。

政秀は汗が冷汗か脂汗か分からなくなった。


「皆の者、ご苦労である。面を上げよ」

 それに続いて政秀は晴信から直接の指示を聞かされた。それは目を見開くものだったが、諾以外の答えは許されていなかった。


「よろしかったのですか、あの様な得体のしれぬ新参にこのような扱いを」

 苦言を呈したのは甘利である。時に敢えて苦言を呈するのも老臣の役目である。


 事前に聞かされてはいた。それに一度は了承の意を示しはしたものの、やはり心のどこかにしこりは残った。しかも政秀は今回ご当主様お声掛かりの者になってしまった。


「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は的なり」

 晴信が朗々とした声で発したのはかつて追放した父の信虎を諫めた一句であった。


 それを知る一同は何事かと身を強張らせた。そして晴信は噛んで含める様に今回の一件の説明をし始めた。それが進むにつれ、面々の緊張もほぐれていった。


「まず禰々の事だが、あれは別人じゃ。侍女も人が変わったと申して居るし、儂も実際に会って話をした」

 典厩信繁もその言葉に頷いた。


「そして今回板垣から届いた書状じゃ」

 その内容は事前に一同に知らされていた。にわかには信じがたかったが。しかしこの場にいるのはその真偽を判断できる面々だった。


「諏訪上原城へ女どもを含む数名で侵入、奥まで入り込むがそこで発見され脱出。しかも追っ手を逆に討ち取りさえしている。そしてそのままこの甲斐へ」


 言葉だけ聞くと何かの演目かと思う。だが事実らしいのだ。そして言葉は続く。

「関所を通った様子もなく山越えで甲斐へ入った後は皆も知っておろう」


 事前に聞かされていたが、改めて言葉にされると尋常ならざる所業に一同の背筋を冷汗が流れた。この腕を持っているのは地縁血縁もないただの流れ者なのだ。


「単独では奪われた女を取り戻すのは難しいとみて、我らが諏訪を攻めるのを見越して士官してきたのだ。武芸だけでなく、忍びや先見の才もあろうな」


 一同は唾を飲み込んだ。今は味方だから良いが、もし牙を剥けばどうなるか。

「その望みが女一人ならば、叶えてやればよい。甲府に留め置けば人質にもなろう」


 それが決め手であった。死に目にも会えなかった妹の替え玉さえ家臣の忠誠を担保する道具にしなければならない。それも戦国大名の持つ一つの側面であった。


 帰宅した政秀は女たちに取り囲まれた。今迄呼び出しの際には静と二人で出向いていたのだ。単独での予備出しははじめてであり、あらぬ心配をしたものだ。


 政秀はそれに詫びると全員を居間に集め今回の要点を話した。静は顔をしかめ、玉藻は感心し、牛若は面倒そうな顔をし、梅子はこくりと頷いた。少なくとも反対は無かった。


 政秀はそれを確認するとほっと胸を撫で下ろし、夕食を取ると早々に布団を敷き横になった。兎にも角にも今日は神経を削られ過ぎた。


 翌日、教来石が白樺宅を引っ越し祝いに訪れあれこれと助言をし、その後白樺家全員に話をして去っていった。後日諏訪より戻った晴信の妹禰々の訃報が甲府を駆け巡った。


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