57 周囲の思惑
武田家筆頭家老、板垣信方は困惑していた。諏訪の戦後処理のため合戦終了後も上原城にとどまり続けていることにではない。自分の立場なら些末と言ってよい事柄についてだ。
平定直後の地域は何かと厄介ごとが起きやすい。大きなことでは旧主の配下が主君の血縁の者を押し立てて反乱を起こす、小さなことでは村々が税率や訴訟で不満を述べる。
そういった事一つ一つに優先順位をつけ対応していかなければならない。放っておけば火種になるし、そうでなくても実際に反乱の起こった土地だ。油断などできる筈もない。
ましてここで諏訪の仕置に力量を示せばそのまま郡司に任命される目もあるのだ。勝負どころの言葉が胸の内に起こる。冬の寒さなど気にもならないほどだ。
現に今も諏訪旧臣への所領の安堵、先の戦で戦功を挙げた者どもへ与えられた知行の境界線の確定、各村々から出される陳情や訴訟への対応を行っている。
これが武田領でのことならば、前後の経緯を知っている古老や内情に通じた縁戚の者を通じて双方ほどほどの所で落しどころを探ることもできたであろう。
しかし、ここは諏訪なのだ。甲斐と信濃では慣習も違う。下手をすれば言葉遣い一つで余所者と判断され本音の付き合いができない可能性さえある。
実際、豊臣秀吉が天下を統一しようやく度量衡や税制の統一がある程度図られたのだ。それまでは升一つとっても地域によって大きさがまちまちであったのだ。
気苦労どころの話ではない。一日一日が勝負である。それでも疲れは無かった。むしろ四十を越えた男盛りの心身には活力がみなぎっていた。
先代では千に届こうとする犠牲者を払っても成し遂げられなかった諏訪郡制圧の悲願を成し遂げたのだ。当代晴信ならば信濃一国の制覇以上の事を為せるやもしれぬ。
ならばこそ、蟻の一穴の言葉もある。取るに足りぬ些事に見えてもおろそかにするわけにはいかなかった。その些事の名前を白樺政秀と言った。
おそらくは地下の出身であろうあの型破りな若造の噂は、諏訪の地でも存在した。いや、むしろこの諏訪こそが発端と言ってもいいほどであった。
夜半の諏訪湖での奇怪な騒動。関所も通らず突然諏訪の街に現れた奇怪な集団。上原城への夜間侵入と城兵数名の死傷。その後の追跡網の突破。
不思議なことに白樺が甲斐に来る直前にその事件は立て続けに起こっていた。そしてそれを境に上原城では寧々姫の人が変わり鴉が連日鳴くようになったという。
内心をぞっとしたものが撫でた。今はたまたま武田に従っているように見えるが、万一牙を剥くようなことがあった場合その被害はいかほどになる事か。
本国よりもたらされた書状を震える手で読み進めた後、板垣は深いため息を吐いた。一難去ってまた一難とは言うが、老練の板垣をもってしても解決策は見えなかった。
「若君も先の諏訪攻めでは見事手柄を立てられたとの事。初陣を飾られ誠に祝着至極にございます」
甲斐の武家屋敷で酒宴が開かれていた。
宴の主賓は初陣を無事に終えた嫡子だ。後継者が武人として一定の腕を持つことは家臣らにとっては死活問題だ。気の早いものは嫁の心配までし始めているほどだ。
それゆえ、初陣、特に嫡子のそれには細心の注意が払われる。事によれば手柄を立てる段取りさえも取られた上で戦場へ送り出される程だ。
初陣で雑兵とはいえ手柄首を上げたのだ。年若いことを考えれば鼻を高くしても不思議ではないが、この秋山家の嫡男は神妙な顔をしていた。周囲は謙虚と受け止めた。
最も、当の本人の内心は平静とは程遠いところにあった。家屋が吹き飛ぶほどの大嵐が荒れ狂っていたのである。その原因の一端を、白樺政秀と言った。
しかし今回は政秀のせいとばかりも言い切れなかった。多分に逆恨みの要素が含まれていることも、その年若さには似合わぬ部分で理解していた。
今回自分が立てたことになっている武功は、あの白樺とかいう新参者のおこぼれを拾っただけに過ぎないことに。白樺が見向きもしなかった雑兵首。それが自分の手柄の正体だ。
他者の討った者の首級を挙げることは拾い首と言い、恥ずべきことである。しかし、今回白樺が雑兵首には目もくれなかったため、同様の事例が頻発していた。
本来ならばそれを取り締まるべき上層部も今回は見て見ぬ振りをしていた。そうでもせねば白樺の手柄が目立ちすぎてしまうからだ。実際、一部では噂になっている。
さらに今回秋山家嫡子、秋山善右衛門尉の心を乱している要素はもう一つあった。ことによるとそちらの方が割合は大きいかもしれなかった。静である。
艶やかな黒髪。凛とした立ち姿。研ぎ澄まされたその武芸。その名工の手によって鍛え上げられた業物の様な美しさに秋山の心は一瞬にして虜になってしまった。
それに比べれば肉置きが良い、などと世間でもてはやされている女どもの何と醜い事か。あんな肥え太っただけの肉塊を抱いて喜ぶほかの男どもの気が知れない。
これで相手がただの町娘であったなら因果を含めて側室にでもすることができただろう。しかし相手は既に他の男の女となってしまっているのだ。
流石に他家の女を奪うのは世間の常識でも秋山の倫理でも不可であった。結果として少年の恋はただその胸中にしまわれ熾火のようにくすぶる事となった。
それにしても、と秋山は宴の喧騒とは真逆の心情で思いを馳せた。惚れた女は既にその手の内にあり、初陣の手柄さえ取り残しを拾ったに過ぎない。
大身でないとはいえ、譜代家臣が氏素性定かならぬ新参にここまでいいようにしてやられ、しかも相手はそのことに自覚さえないとは。秋山は震える手で酒杯を呷った。
年の瀬も迫ると、商家は大忙しとなる。年末年始の商いに加え、付けの取り立てもしなければならない。ここでどれだけ取り立てられるかが腕の見せ所だ。
払いたくない相手は無い袖は振れぬと駄々をこねる。こちらの時間が無いことを知っての行いだ。そこで泣く泣く値引きに応じて事を収める。
そこへ行くとあのお客は手間が無くありがたいな。旦那の坂田源右衛門は一区切りした帳簿から顔を上げながらそう思った。店内は騒がしさではなく活気に満ちている。
買いも売りも現金一括払い。値引きも無し。こんな客ばかりなら世の商家はさぞ商売がしやすくなるだろう。くすりと笑みを漏らすと再び帳簿へと向き直った。
伊勢から甲斐へ移り、姓も坂内から坂田へと改めた。かつての伝手で海産物などを商ってはいるがそれだけではいけない。物珍しいものを扱っているだけでは駄目なのだ。
甲斐で根を張り、この地に溶け込み共に繫栄しなければならない。そのためならば、時には大店が手を出さない怪しげな客と取引しなければならない時もある。
今年やたらと武田家を騒がせたとある若者の顔がちらりと脳裏をよぎった。ああも悪目立ちする余所者では老舗は手を出しにくかろう。だがそれは商機でもある。
他者が手を出すのをためらう一見危険な商売こそ利益を出せるものだ。なにせ競合相手がいないのだから。しかし、危険に踏み込み過ぎて火傷をしてもいけない。
要は越えるべきではない一線の見極めだ。それこそが商家の当主としてもっとも必要とされる能力なのだ。そこに照らし合わせると、あの白樺はどうだろうか。
諏訪での炊き出し用にと穀物を依頼された時は驚いたが、終わってみれば中々にいい取引だった。適正な価格で値切りも無く納品と同時に支払いという点が特によかった。
しかし今回依頼された『品』はどうであろうか。伊勢時代の伝手を使えば調達は可能だ。だがそれは果たしてまっとうな侍の所望する物だろうか。一線を越えてはいまいか。
ふむ、と一つ頷くと番頭に挨拶周りに行ってくると声を掛けた。悩んでいても仕方がない。大事な取引の際には直接自分の目と耳と勘で確認する。商売の基本である。
急な来訪にも関わらず白樺家ではきちんとした対応をしてくれた。畳敷きの間の上座に案内され茶も出された。聞けば新たな屋敷を賜り近々引っ越すという。
立身ですな、めでたい事ですと相槌を打ちながら世間話に興じ少しした所で本題を切り出す。例の品についてだ。その答えに源右衛門は驚愕した。
驚きを隠せない源右衛門に政秀は追い打ちをかけた。支払い能力に問題はないと大量の緡銭を見せられた。銭の中央の穴に紐を通したもので一つ百文である。それを数十。
商人は取引を成立させてなんぼである。相手に支払い能力のあるうちはその希望を叶えるのが仕事である。いささかの不安を押し殺し、源右衛門は調達を約束した。
師走に入った躑躅ヶ崎館は喧騒に包まれていた。年の瀬ともなれば季節の挨拶も多い。それを受け、返礼することで両者の関係を確認するのだ。それが大名となればどれ程か。
それに今年は常とは違う要素も加わっていた。諏訪を制圧し上伊那を臣従させたのだ。そちらからの挨拶もある。何せ初めての事だ。向こうも緊張している。
そしてそれは城内に良い意味で活気を与えていた。特に甲府勤めの者にとっては勝ち戦による果実を目の当たりに良い機会だったからだ。
加えて今年はもう一つあった。その勝利をもたらした大名、武田晴信の元へ信濃小県郡の国衆禰津元直の娘が側室として輿入れしてくるのだ。
娘を側室として差し出す。それは古典的な支配される側がする側に対して誼を通じる方法の一つである。戦国時代では豊臣秀吉へのそれが特に有名だろう。
つまりは今年の諏訪と上伊那での勝利を受けて小県の領主の一人が傘下に入りたいと頭を垂れて来たのだ。これもまた一つの勝ち戦である。
躑躅ヶ崎館の士気は高まり、それは活気となって城中にみなぎっていた。勝利は家中を前向きにさせ、実力以上の力を発揮させるものなのだ。
先代信虎の代では諏訪は攻めても攻めても損害が増えるばかり、他の方面も似たり寄ったりであったことを考えれば、武田の前途は明るいと感じるのも無理は無かった。
もっとも、その喧騒とは無縁の場所や人も存在した。例えば現在も躑躅ヶ崎館の奥まった一室で眉間に皺を寄せている一団などがそれにあたる。
「禰津は誼を通じて来たか」
「これで再び小県に足がかりをえられよう」「来年の出兵先は決まったな」
「あとは諏訪と伊那で何も起きなければ」
年末の戦の談合である。翌年どこを攻めるかなど秘中の秘である。限られた者しか出席を許されず、警護の者も遠巻きに配置されているほどだ。
「で、例の件をどうするかだが」
その言葉に空気が一変した。それまで正面を向いていた出席者の視線も畳の上をさ迷うようになった。
それもそのはず、議題が議題である。他家に嫁いだ一門の姫、それも当主の妹がすり替えられたというのだ。不祥事どころの話ではない。
「間違いないのか」
「本人も認めております」
何もなければほとぼりの冷めたころに病死してもらえばよいが、今回は事情があった。
「ならあの白樺の申したことは真実と」
「この始末どうつける」
下手な手を打てば白樺は武田家に牙を剥きかねない。腕利きの武人がだ。
「いっそ死んでくれれば……」
誰かが漏らしたつぶやきに膝を打つ手が重なった。その後の言葉を聞き、出席者の顔に理解の色が広がった。
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