薬師、護身術を学ぶ
「リー、起きて」
低く柔らかで、大好きな声に、リーアは目を覚ました。
「ん、イクスさん。おはよう」
「おはよ、リー。ごめんね早く起こしちゃって」
言われてみれば、外はまだ真っ暗だ。
普段、リーアが起きる時間よりだいぶ早い。
「何かあったの?」
いつでも動けるように布団から出ると、イクスは笑ってリーアの頭を撫でた。
「今日から、護身術を教えようと思って。俺は今日から任務でしばらく忙しくなるから、早朝と深夜にね。でも、それだけだと足りないから、昼間はアンナの所に行って、アンナにも教わってくれる?」
イクスは、基本的にリーアに必要のない嘘はつかない。
それでも、昼間はアンナのところへいけと言うのは、さすがに急過ぎる。
たぶん、リーアが護身術を昼間も習うことの他に、リーアが一人でいることに危険が生じたのだろう。
そうでなければ、1人前の薬師になったリーアが、また師匠の所へ行かなければならない理由はない。
リーアの正体がバレたと言うことはないだろう。
もう、あの戦争から2年以上経っている。
となれば、イクスの身に危険が迫っているということか。
イクス一人だけなら、きっとどんな相手でも対処できる。でも、リーアが人質に取られたりした場合は別だ。
他の誰が人質に取られても、きっとイクスは気に留めない。
でも、それがリーアであれば話は別だ。
そう思う程には、リーアはイクスに気に入られていると思っている。
「師匠の所で暮らさなくても平気?」
見つかる可能性の芽は、少しでも少ないほうがいい。
しかし、イクスは首を振った。
「その日の任務が終われば迎えに行くよ。それに、アンナはそれほど武術が得意じゃないからね。俺が教えた方が確実。ただまぁ、泊まりがけの任務になる日は、アンナのところで寝泊まりしてもらおうかな」
「わかった」
「リー、いい子」
頭を撫でられて、リーアは、ふんすっとやる気を出す。
「じゃ、早速動きやすい服に着替えて……あー、いや。普段通りの服のほうがいいな。襲われたときに動きやすい格好しているとは限らないから」
コクリと頷くと、イクスが部屋を出ていってから、リーアは急いで服を着替えた。
言われた通り、いつも着ているようなワンピースだ。
それに、念の為ローブも着た。
部屋を出ると、廊下で待っていたイクスは、いいね、と言ってリーアを連れて外に出た。
「じゃ、まずは基本的な体の動かし方から」
イクスに、手取り足取り、丁寧に教えてもらう。
対人用の動きは、まだ早いらしい。
歩き方や足の踏み込み方、腰の落とし方、その他にも色々教えてもらって、周りが明るくなるまで、それらの動きを反復練習した。
明るくなれば、リーアはリーアで、素材の採取がある。
だから、鍛錬はそこまで。
その後、二人で朝食を作って食べると、早速師匠のところへと向かった。
リーアに来ている依頼については、師匠が同行してくれることになった。
夜中の、バーでの取引については、イクスの手が空いていれば、これまで通りイクスが一緒に行ってくれるらしい。
ギルドへの納品は、一人でも別に行けるけれど、イクスが心配するので、師匠が同行してくれることになったのだ。
イクスが仕事に行くと、早速師匠が基礎的な護身術を教えてくれることになった。
「私、あんまり武術は得意じゃないけど、基礎ならちゃんとできるから」
そう言って、腕を掴まれたときの対処の仕方や、後ろから羽交い締めにされた時の動き方を教えてくれて、それから、ナイフを一振りくれた。
「ナイフの使い方は、アイツから教わってね。最初に変な癖がついちゃうと直すのが大変だから」
そうなのかと、とりあえず納得はするが、リーアにはそういったことはよくわからない。
分からないことは、師匠やイクスの言うとおりにする方がいい。
「いい?リーア。万が一襲われたら、とにかく逃げるのよ。アイツみたいにそれを生業としてるならともかく、そうじゃないなら逃げるのが一番。それでももしも逃げられなくても、絶対に諦めちゃだめ。捕縛されて、運ばれても、絶対に何かメッセージか手がかりを残すの。そうしたら、絶対にアイツが見つけてくれるから。もしも運良く相手が一人で男なら、とにかく急所を狙いなさい」
「急所?」
「そうよ。前に教えたでしょ?金的よ!」
そう言えば、いつだったかそんな話も聞いた。
「蹴り上げるか、それが無理ならひねり握りつぶしてもいい。踵で足の指先を思い切り踏みつけるのも有効よ。それから、人間の急所は、体の中心に多くあるから、頭突きで頭や鼻、顎なんかを狙って倒れてくれたらラッキーよ。躊躇なく、思い切り急所を踏み潰しなさい」
「金的を踏みつぶす……」
「そうよ!」
アンナだって真面目に話しているが、リーアも真面目に頷いた。
夜、イクスが迎えに来てくれて家に戻ると、師匠に教わったことを実践で確認された。
「ナイフは、イクスさんに教えてもらいなさいって」
「うん。それがいいね。まぁ、もう少し身のこなしを覚えてからだね。他には?」
「とにかく逃げる。捕まったら手掛かりを残す」
「そうだね。そうならないのが一番だけど、そうしてくれると助かるねー」
「あとは、思い切り踏みつぶす」
「……ん?」
「金的を」
リーアは真面目に答えた。
なぜか、イクスは微妙な表情だ。
「えっと、何か間違ってた?」
「あー、いや。うん、合ってるよ。想像したくないだけで」
「イクスさんにはしない」
「うん。お互いの為にも、間違ってもやめてね」
それから、また朝の続きで身のこなし方を教わって、今日はおしまいになった。
「リー。前にリーが作ったオリジナルの毒の解毒薬、まだある?」
「うん。いる?」
「念の為、外で何か口にしたあとは飲んでおこうと思って」
「イクスさん、毒を盛られるの?」
「その可能性もあるってだけだよ」
リーアは、少し心配になって、解毒薬をかなり多めに渡した。
在庫は減ってしまったけど、素材はまだあるから、また作ればいい。
「ありがと。助かるよ、リー」
「止血薬とか、他の解毒薬も渡しておいた方がいい?」
「止血薬はいるかもね。無味無臭の毒の解毒薬はほしいかな。少しでも臭いや味があるものは分かるから口にしないし。止血薬も少しでいいよ」
(でも、怪我したらいるんじゃないかな)
そんなリーアの考えを読んだのか、イクスは少し笑った。
「こう見えて、俺ね、すごーく強いの。駆け出しの頃ならともかく、もう何年も薬がいるような怪我はしてないよ」
そうなのか。
いや、イクスは強いとは思っていたけど、やっぱりものすごく強いのか。
それにしても、イクスがこんな下準備をするほどに、今は狙われているということの方が心配だ。
情けない顔になったリーアの頭を、イクスはぐしゃぐしゃと撫でた。
「心配しなくても、自分の身は守れるよ。リーのこともね。ただ、俺もそうだけど、リーに万が一のことがあるといけないから、念には念を入れるだけだよー」
そこまで言われてしまえば、リーアにはもう何も言えない。
とにかく今は、イクスの足を引っ張らないように、頑張って護身術を学ぼうと思った。
「いい?リー。この家にいるときもそうだし、出かけるときもだけど、前から言っているように、極力気配を消していてね。この家には防御魔法がかかってるけど、万が一ということもあるから。それから、この家の避難場所も教えておくね」
そう言うと、イクスはリーアの部屋に入って、本棚の横の床を踵で三回蹴った。
そうすると、突然床が持ち上がった。
「この床の下に、狭いけど空間があるから、誰かがドアを開ける気配がしたら、ここに隠れて。俺が顔を出すまで、絶対に開けないで」
イクスの話では、この家にかけている防御魔法は破られるとすぐにわかるようになっているらしい。
そして、この床は、決められた場所を、決められた回数蹴らないと、開かないらしい。
リーアも一度締めた床板を、三回蹴って開け方を覚えた。
「中は防火仕様になってるから、もしも家に火が放たれても大丈夫。この中にいれば、安心だからね。
火が放たれたら、消さなくていいから、ここに隠れてね?」
「わかった」
どうやら、イクスはかなり厄介な局面にあるらしい、と言うことがわかった一日だった。