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足音に目を覚ました。飛び起きる。
窓の外。日が昇っている。
ベッドから降りて、化粧台の前に立つ。寝癖だらけの髪。目ヤニと枕の跡がついた顔。眼をこすって、頬を拭った。跡は取れないけど、これはどうしようもない。
足音は階段を上りきった。呼吸が荒くなる。
櫛を手に取って髪を梳かす。
ドアが開かれた。顔を向ける。
冷たい目は私を見ると僅かに見開かれて、すぐに怒りを露わにした。
「また寝坊したの?」
その声に身体が固まった。一歩一歩近付いてくるのに合わせて心臓が跳ねる。口は開けても、声は出なかった。
足音が止まる。私を見下ろす目。
身体が動くようになった。いや、もしかしたら反射的に動いただけだったのかもしれない。慌てて椅子から降りて、地面に両手と膝を付いて頭を下げた。謝罪を繰り返す。それが、私が教えてもらった謝り方だった。
「顔を上げなさい」
手を伸ばして見上げる。同時に、喉と胸の間辺りにつま先が突き刺さった。蹴り飛ばされて、仰向けに倒れる。あまりの痛みに口から漏れた声は細い呼吸音にしかならなかった。呼吸が上手くできない。咳き込む。
痛みは更に与えられた。顔を殴らなかったのは、周りに気付かれないようにではなく、彼女の目的のためだったのだろう。
「さっさと立ちなさい」
髪を掴んで無理やり立たされる。両足に力が入らず、よろけて倒れた。彼女が膝を曲げて、また髪を掴んだ。もう片方の手で頬を叩く。その衝撃によってか、目尻に溜まっていた涙が頬を伝っていくのが分かった。
彼女は一段と不機嫌になった。何度も頬を叩く。流れた涙が、その度に宙を舞った。
ひたすらに謝罪を繰り返した。立てない以上、私が出来るのはそれくらいしかなかったから。
平手打ちが止んだ。代わりに、空いた手は私の首を握った。途端に息が苦しくなる。
「いいかい。私はあんたのことが嫌いでこうしているわけじゃないんだ」
彼女は言った。私と同じ色の目を、怒りと狂気に染めたまま。
「言うなれば愛よ。私はあんたのことを愛しているから、こんなことをしているの」
目を覚ました。飛び起きる。
夜明け前の薄闇に包まれた広い室内を見回して、長い息を吐き出した。冬だというのに汗を掻いていて、心臓は全身に響くほどに鼓動している。
隣には誰もいなかった。皺の寄ったシーツを撫でると温もりを感じられた。もしかしたら彼が部屋を出ていく音で目が覚めたのかもしれない。
彼がいたところに横になって、身体を丸めた。毛布をすっぽりとかぶると少しだけ安心感に包まれた。
この時間は、どこか現実じゃないような雰囲気がある。夢が現実に侵食してくるような、そんな雰囲気。空気。
見たばかりの夢が浮かんで、身体を丸めたまま両手で耳を塞いだ。
彼の温もりに包まれながら、昨夜のことを思い出した。でも、恐怖はなくなってくれない。
こんな時こそ彼にいてほしいのに。
何もしなくても、傍にいてくれれば、それでいいのに。
毛布越しに光を感じた。顔を出すと、朝日が広い部屋を照らしていた。ベッドから出て、窓の前に立つ。この部屋だけじゃない。朝日は、城を、城下町を、国を、世界を照らしていた。一瞬のうちに闇を溶かして、世界を変えた。
この景色を彼と並んで見ることは二度とないのかもしれない。
彼といるのは、闇が濃くなっていく、その間だけだから。
一人きりで外に出たことはなかった。でも、出る時の作法は教わっていた。シャワーを浴びて、外出用のドレスを着る。同色の帽子もかぶった。靴は、普段のものだとドレスと不釣り合いだから履き替えた。
財布を持って家を出た。夕暮れ。窓から見下ろしていた景色が目の前に広がる。辺りを見回しながら歩いた。私の家と同じくらいの大きさの家が並んでいる。そのうちの一軒の玄関先に車が止まった。降りてきたのは三人。夫婦とその男の子だった。男の子は私より年下のようだった。最初に女性が私に気付いて、それから他の二人も私を見た。彼らが笑みを浮かべたのを見て、踵を返して駆け出す。新しい靴が踵と擦れているのが分かった。
立ち止まり、呼吸を整える。顔を上げると街並みは変わっていた。建物の高さは変わらないけど、作りがシンプルで、連なるように建っている。庭も見当たらない。人の数も多くなっていた。話をしている人のほとんどが笑顔を浮かべていた。恐怖を覚えて後ずさると、誰かにぶつかった。振り返る。そこにいたのはスーツ姿の男性で、最初は驚いた顔をしていたけど、すぐに、他の人と同じような笑みに変わった。
再び駆け出す。すぐに息が上がったけど、恐怖が背中を押してくれた。
人のいない方へいない方へと走り続けた。細い路地裏で足を止めた時には日が暮れていた。夜明けによく似た薄闇。両足が痛くて、地面に座り込みたかった。でも、それは行儀が悪い、はしたないことだと思ったから、もう少し歩いた。
ベンチを見つけて腰掛ける。足全体が、特に太ももと踵が痛かった。でもその二つの痛みはまるで別種のもので、太ももは内側が痛くて、踵は外側が痛かった。靴擦れを起こしているのは予想できたけど、こんなところで靴を脱ぐのは行儀が悪いと思って確かめはしなかった。
足の痛みが引いて、空腹を思い出した。お腹が鳴る。買い物の仕方も、どんな店に行けば食べ物が買えるのかも知っていたけど、またあの人達の中に戻らないといけないということが嫌だった。
立ち上がる。でも、さっきの道に戻る気にはなれなくて、反対方向へ進んだ。どんどん人通りが少なくなる。笑顔を浮かべた人も少なくなっていく。
分かれ道。まっすぐと左右の道がある。自然と右を向いた。
不意に、声と足音。振り返る。街灯の下には、さっきぶつかった男性がいた。笑みは浮かべていなかった。迷うような表情。
男性が続けて口を開く前に駆け出した。後ろから、そちらに行くなという忠告が聞こえてきたけど、全て無視した。
ひたすら走った。途中で転んで片方の靴が脱げた。慌てて振り返ったけど、街灯もない暗夜の中では一目に見つけることはできなかった。男性が追ってきたのかは分からないけど後ろから足音が聞こえてきて、片方裸足のままで駆けだした。その拍子に今度は帽子が落ちたけど、立ち止まって拾う余裕はなかった。
背後からの足音が止むと駆け足を緩めた。歩きながら足元を見る。靴を片方無くしてしまった。怒られる。それならいっそ、最初から履いていなかったということにしたらいいんじゃないかと思った。
残った方の靴を脱いで道端に置いておいた。また歩き出す。感じる空腹。食べ物を買うところがないかと辺りを見回してから、ふと気づいた。両手を開いて視線を落とす。財布を持っていなかった。いつからだろう。転んだときに落としたのか、それとも、もっと前、ベンチに忘れてきてしまったのか。
どうやっても空腹を満たせないと分かると、次は眠気を感じた。外で眠るわけにはいかないという気持ちは、歩き続けるほどに眠気に侵食されていく。
とうとう前に歩くことも出来なくなって、膝から崩れるように倒れた。痛みは感じなかった。寒さも感じなかった。
安心感に似た、暖かい何か。
あのときに私を包んでいたのは何という感覚なのだろう。
目を覚ました時には彼がいた。
逃げようとしなかった理由は、よく分からないけど単純で、彼の表情が、あの人がたまに浮かべるソレと似ていたという、ただそれだけのことだった。
お父様とお兄様、お義姉さまと夕食をとったのは、春が過ぎて、昼夜の気温差が顕著になったころだった。食前と食後にお父様と少し話をしただけ。お兄様とお義姉さまは、たまに視線を向けてくるだけだった。
最後に部屋を出ると、廊下でアルフィンが待っていた。一礼。顔を上げて、小首を傾げた。顔に出ていただろうか。何か問われる前に、首を横に振る。彼女は僅かに目を伏せた。
入浴を済ませてから自室へ戻った。灯りもつけずに窓の前に立って開け放つ。冷たい夜風が火照った顔を撫でた。
「湯冷めしてしまいますよ」
アルフィンが言うと同時に灯りが点いた。
「暖かくなってきたとはいえ、まだまだ風邪をひきやすい時期ですから」
窓を閉めてから振り返る。今日は彼が来る日じゃないから、後は眠るだけ。でもまだそれにも早い時間だから、ベッドのヘッドボードに腰掛けて、サイドテーブルに置いていた本を手に取った。栞を挟んだページを開きながら、横目でアルフィンを盗み見た。ティーポットを持ってカップに紅茶を注いでいる。湯気。緑の香り。
たまにティーカップを口に運びながら読書を進める。アルフィンは机で何か書き物をしているみたいだった。こういう時、最初の頃は何もせずに入り口の辺りに黙って立っていたけど、私が、気になって仕方がないと言うと、こうして別の仕事をするようになった。私が眠るか、あるいは彼が来るまでこうして付いていないといけないのは私のせいなのだから、休憩していても文句は言わないし、アルフィンだってそれは分かっているだろうに。そういうところが彼女らしくて、少し笑った。
「そろそろ眠ります」
アルフィンの返事を聞きながら、本に栞を挟んでサイドテーブルに置く。毛布を肩まで上げると、ベッドの横でアルフィンが一礼した。
「おやすみなさいませ、姫様」
「おやすみなさい」
灯りを消して部屋を出て行こうとしたところを呼び止めた。ドアは半開き。廊下から差し込む橙色の灯りが彼女の横顔を照らした。
「どうかなさいましたか」
「あの、まだ正式に決まったわけではないのだけど」
そう前置きして、お父様から聞いたことを伝えた。
十六の誕生日に隣国へ嫁ぐということを。
「正式な決定でないのであれば、このことは内密にしておいた方がいいですね」
アルフィンはしばらく黙ってからそう言った。問いのような確認。釘を刺されたような気もした。
「彼には?」
今度はちゃんとした質問だった。首を横に振る。
「まだ。このことは、貴女だけに伝えておきます」
アルフィンは一礼し、もう一度就寝の挨拶をしてから部屋を出て行った。
「今日からあなたの身の回りのお世話をさせていただきます」
人に対して、苦手だ、と思ったのは、この時が初めてだったと思う。それまでは――それこそ彼に会うまでは比べる対象がいなかったし、彼と会ってからもそこまで誰かと知り合ったわけじゃなかった。そもそも苦手意識を持つほどに自我が確立されていなかったのだろう。ただ警戒するだけの、動物みたいな感じ。
私に人間らしさを教えたのは彼で、だから、私がそう思うなら、きっと彼もそうなんだろう。そう思った。
彼女はお妃様と会わせてくれると言った。その時は嬉しかったけど――そう、嬉しかった。どうしてだろう。よく分からないけど、その時の気持ちは、今でも少しだけ残っている気がした。
数日後に彼女が連れてきたのは私が知るお妃様じゃなくて、この国の、本当のお妃様だった。すぐに違うということを伝えたけど、私はお妃様のことを何一つ知らなかったから、伝えられるのはせいぜい外見くらいだった。
「貴女の期待を裏切ってしまったみたいでごめんなさい」
頭を下げる彼女に、私は首を横に振った。
彼女は笑みを浮かべた。不思議だった。お妃様に似ているような、彼に似ているような、でも世話係の人にも似ているような。
苦手だとは思わなかった。興味を持ったのだと思う。彼の時と同じように。
それから彼女は私をよく訪ねてくるようになった。世話係の人とか騎士の人と同じように王妃様と呼んでいたら、お母様と呼ぶように言われた。そう呼ぶと、お母様はいつもの不思議な笑みを浮かべた。
お母様に懐くまで時間はかからなかった。代わりを求めていたのだと思う。彼か、それともお妃様かは分からないけど。
勉強を頑張ったり、丁寧な言葉遣いをすると褒めてくれた。
「でも私には普通の話し方をしてくれていいのよ」
そう言ってくれたことも嬉しかった。丁寧な喋り方はお妃様が教えてくれたものだから決して嫌いじゃあなかったけど。
撫でられたり抱きしめられたりすると彼のことを思い出した。でもお母様はそれ以上何かを、彼のようなことはしてくれなくて、そして、お妃様みたいなこともしてくれなかった。そのせいか、いつからか、心の中にもやもやとした黒いものが溜まっていった。
あれはなんだったのか。
多分、愛したいとか、愛されたいとか、そういう漠然とした思いだった。
愛は真っ黒だった。
じゃあ、何が真っ白なんだろう。
雪が積もっていた。
お母様と一緒に中庭に出て、まだ足跡の無い雪の上を走り回った。
転んだ。全然痛くなかったけど、なんとなく、そのまま仰向けになって空を眺めていた。薄い灰色の空が、真っ白な雪を吐き続けていた。
お母様の声が近くから聞こえた。上体を上げると、お母様はすぐ隣にいた。
心配しながら抱き起してくれた。遊んでいるうちに身体が大分冷えていたのか、何重にも重ねた衣服越しに温もりが伝わってきた。それが心地よくて、背中に手をまわして抱き着いた。お母様も抱きしめ返してくれた。
温もりを感じながら不安になった。この気持ちを、ちゃんと伝えきれているのだろうか。ただ笑い合うだけで、言葉を交わすだけで、抱き締めあうだけで。
不安の雫が黒い愛の中に落ちた。
赤が溢れた。
伝えきれずに溜まっていた愛の分だけ。
怒号が聞こえて突き飛ばされた。それでも、まだ世界は赤かった。
黒はなくなった。きっと、赤と一緒に流れたんだと思う。




