0
鍋に入ったスープからは湯気が立ち上っている。小皿に少量取り分けて、口をつける。舌を動かして味を確かめながら、もう一枚の小皿に同じように取り分けた。
少し離れたところに立っていたエルマさんを呼んで小皿を渡す。大袈裟なくらいに恭しく受け取ってから口をつけた。私の目を見て頷く。彼女が料理を口にして、美味しくない、と言ったところは見たことがない。ためしに聞いてみる。
「少し薄味過ぎたでしょうか」
「いえ。そのようなことは思いませんでした」案の定、否定が返ってきた。私も、考えていた以上に薄味だとは思わなかったから、良い出来になったのだと思う。
「それに、姫様のお身体のことを考えると、少々薄味の方がいいでしょう」
フォローのつもりで言ってくれたんだろう。それは分かったけど、やっぱりどこか暗い顔をしてしまったらしい。彼女は慌てた様子で謝罪を口にした。
首を振って、笑顔を作る。
「行きましょうか。料理が冷めないうちに」
彼女は頷いて、料理が乗せられたトレイを持った。そこに、スープをよそった白いカップを置く。一流のシェフ達が作った料理のなかに、簡単なスープとはいえ自分の手料理が混ざっているというのは、いつまで経っても慣れることがない。劣等感と、ほんの少しの優越感。
調理場を出る。広い廊下には、掃除をしている給仕の姿があった。私たちに気づき、手を止めて礼をする。歩きながら、軽く頭を下げて返す。エルマさんも同じようにしたと思う。
姫様の部屋の前には親衛騎士が二人立っていた。さっきの給仕と同じやりとりをしてから一人が口を開く。
「オルソン様がいらしています」
「先生が?」
ノック。姫様の声。ドアを開ける。
姫様はベッドの上で上半身を起こしていた。その横に立っている人物に目を向ける。
「おう、嬢ちゃん。ちょうどよかったな。今、検査が終わったところだ」
「先生。前々から申し上げているように、検査をする際は事前に私へ連絡をください」
「嬢ちゃんに言ったら断られるだろう」
「姫様に必要な検査なら断ったりしません」
「残念だが、俺ぁ姫様だけのために医師をやってるわけじゃあないんでね」
先生は片手を振りながら部屋を出ていく。天才に変わり者が多いという通説を裏付けるような性格。初対面の頃に感じた苦手意識は今も続いている。
「もうお昼なのね」
ベッドテーブルに置かれた料理を見て姫様が言う。
「先生がいらしてくれたおかげで、時間の流れが早かったわ。今日はね、恋のお話をしてくれたのよ」
「あの先生が、恋、ですか」
「ふふ。似合わないわよね。患者さんのお話らしいのだけど――」
「姫様。暖かいうちにお食事を。続きは、そのあとでたっぷりとお話しください」
「貴女に話したいの。でも、食事が終わると、またお仕事にいってしまうのでしょう?」
「姫様がお望みならば、私はここにいますよ」
「本当に?」
「はい」
姫様は笑みを浮かべた。スプーンを手に取って、スープを掬う。袖がずれた。細すぎる手首。木の枝のようだ。そう思ったとき、自然と、枯木をイメージしていることに気付く。縁起でもない。でも、現実的ではある。
「美味しいわ」
姫様が笑う。水風船が割れるように心に広がった感情はなんだろう。喜びか、それともやっぱり優越感か。優越感による喜びかもしれない。
二十分ほどで食事は終わった。空になった食器は、スープカップだけ。他は、一口か二口、手をつけただけだった。料理はエルマさんが下げてくれた。
姫様の話を聞いた。昔、先生が勤めていた病院であったことらしい。患者同士が恋仲になり、病気を乗り越えて結婚したという話だった。その内容より、先生の考えが分からなかった。どうして、そんな話を姫様にしたのか。残酷にさえ思えてくる。
「アルフィンは恋をしたことがある?」
「ありません」
「そう」姫様はそう言って視線をおとした。少し疲れたように見えた。長話をする体力すら残ってない。無理に食事をとらせたところで吐いてしまうだけ。もう、身体の芯まで弱りきっている。
「私も、恋をしたことがないの」姫様は言う。少しだけ掠れた声で。
「愛したことはあるわ。お父様も、お母様も、お兄様も、アルフィンやエルマだってそうよ。愛すべき人を愛することだって出来るわ」
隣国の王子の顔が浮かぶ。すぐに消した。嫌いなわけじゃない、なんて、言い訳をした。好きじゃない。無関心というわけでもない。なら嫌いなんだと思う。
「恋をしてみたいわ、私。溢れているような愛じゃなくて、どうしようもないくらいの、愛に置き換えられないくらいの恋をしてみたい」
なんと答えればいいのか分からなかった。黙っていた時間だけ、自分への嫌悪感が増していった。
姫様が眠ったのを見てから部屋を出た。医務室に向かう途中、階段の前を横切ろうとして、足を止めた。階上から聞こえてくる足音と声。
王様と王妃様が降りてきた。傍らには母と父。他に数人の側近がついていた。壁際に避けてから頭を下げる。
「アルフィン」
足音と声が止まった。私の名前を呼んだのは王妃様の声だった。足音がひとつ。私の前で止まった。
「顔をあげて」
僅かに頭をあげる。目一杯に上目遣いをして、ようやく顎が見える程度。
「ノエリアのところにいっていたのかしら」
「はい」
「今はどうしているの?」
「話し疲れたようで、お休みになられました」
「あら、そうなの」
王妃様の隣に人影。王様だった。
「すまないな。娘が話に付き合わせてしまったようで。君も仕事があるだろうに」
「いえ。滅相もございません」
「しかし、そうか。眠っているのか。どうしたものか」
「姫様に何か?」
問うと、王妃様がくすりと笑って、私の耳元に顔を寄せた。
「出掛ける前に少し会っておきたかったのよ。三日も会えないと、この人、萎んじゃうから」
なるほど、と頷く。王様には聞こえていたらしく、誤魔化すように小さく咳払いをした。
「顔だけでも見ていきましょうか、あなた」
「ん、あぁ。そうだな。そうしよう。アルフィン、私達がいない間、ノエリアを頼む」
「かしこまりました」
深く頭を下げる。足音が聞こえなくなってから頭を上げた。一度振り返り、誰もいない廊下を見てから歩き出す。
王様と王妃様は、私にとって、親戚の叔父さん叔母さんのような存在だ。私が幼い頃、両親はとても厳しかったから、甘やかしてくれる二人のことが大好きだった。その延長とでもいうのか、姫様に対しても、仕える相手というよりは妹のような気持ちが強かった。いや、それに関しては今も同じかもしれない。
物語に出てくる王様は、傲慢だったり、我が儘だったり、極悪非道だったりするけど、そんなことは全然ない。
優しい人達。
だから、悲劇は生まれるんだろう。
医務室の前に着いた。ノック。出てきたのはオルソン先生とは別の医者だった。不在を確認してから立ち去る。ここにも姫様のところにもいないなら、あとは一ヶ所しか思い当たらない。
階段を降りて、庭に出た。昔、庭師が住んでいた小屋が立っている。その側にある花壇も、その庭師が作ったものだった。
先生はそこにいた。しゃがんで、雑草を抜いているらしかった。近付くと顔を上げた。いつも通り、どこか意地の悪そうな笑み。
「手伝いならいらんぞ」
「そうですか」そんな気はさらさらなかったけれど。
「あぁ。前もな、俺が休みの時によかれと思って手入れをした給仕がいたんだが、雑草と一緒に薬草まで抜きやがった」雑草抜きを再開しながら言う。
「申し訳ありません」
「いや。しっかり怒鳴り散らしたから、もうどうでもいい。悪気がないから悪くないってわけじゃあないしな」
「姫様にあのような話をしたことにも、悪気はなかったのですか」
手が止まり、顔がこちらを向いた。
「悪いことだったか?」
「残酷だと思いませんか」
「なにが」
「姫様が恋に憧れるということがです」
「あの歳の子供なら普通のことだ。まぁ、嬢ちゃんには当てはまらないみたいだが」
茶化して笑う。頭に血が上っていくのが分かった。
「ふざけないでください。あなたは人の死に慣れているのでしょうが、私はとてもそんな風には笑えません」
極力抑えた声。でも結局、叫んだようになってしまった。自己嫌悪。それでも心のどこかで先生に牙を剥いている自分がいた。そして、そんな自分を正当化しようとする自分も、どこかに、確かに存在していた。
呼吸をひとつ。頭を下げる。先生は無表情になっていた。
「申し訳ありません。話をしたのは姫様に頼まれたからでしょうし、検査だって先のことを――同じ病気にかかる誰かのことを考えると必要なことなんですよね」
「姫様に必要なことかっていうとそうじゃないからな。嬢ちゃんの怒りは最もだ」花壇の囲いに腰掛ける。
「残酷なことをしてる自覚もある。悪気はなかった給仕の何倍も悪い奴だな、俺は」
そう言って浮かべた笑みはあまりに自嘲的で、怒りは沸いてこなかった。
頭を下げて踵を返す。
「嬢ちゃん」
振り返る。
「医者は確かに人死にには慣れてるが、子供が死ぬってのは、いつまで経っても慣れないもんだ」
苦手だ。初対面の時からずっと。自信に満ち溢れていて傲岸不遜にも思える態度も苦手だった。手術が不可能だと分かってから、少しずつ優しくなっていくのも苦手だった。
さっきだって、そうだ。あんな弱々しい言葉を吐くなんて、医者失格じゃないか。もっと堂々と、残酷でなにが悪い、みたいにふんぞり返っていてくれればいいのに。本当に残酷な人でいてくれればいいのに。現実だけが残酷なんて、本当に、救いようがないというのに。
夕食に出すスープの下拵えをしに厨房へ行った。厨房ではたくさんの料理人が慌ただしく動いていたけど、私が調理をするスペースは空けられていた。
「今晩はどうするんだい?」
料理長がやってきた。額に汗を滲ませている。
「材料は何がありますか?」
「あぁ。こっちだ」
手招きされて付いていく。
姫様の食事の一品を担当するようになったのは一ヶ月ほど前からだった。姫様の要望だった。始めこそ恐縮してしまったけど、今となっては有り難かった。こうしている時だけは、姫様のために何かできていると実感できたから。美味しいと笑ってくれれば、それだけで心が――、喜びであろうと優越感であろうと、確かに満たされたから。
材料の中に、姫様が嫌いなニンジンを見つけた。
そうだ。いいことを思い付いた。ニンジンのスープに見せ掛けたまったく別のスープを作ろう。
姫様のしかめ面と、そのあとに浮かべてくれるであろう笑顔を想像して、思わず笑みが浮かんだ。




