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昼前に目が覚めた。子供はまだ寝ていたが、俺がベッドから出ると目を覚ました。反射的に笑顔を作った俺を見て身体を震わせる。周囲を確認するように目が動いた。ダヴィドさんの姿を探しているのかもしれないと思うと、一段と腹立たしかった。
「昼御飯と買い物に行くよ。靴は、とりあえずこれでも履いといて」
普段履いている靴を見せる。俺は仕事用の靴を履いて玄関に立った。子供は俺の方をチラチラと見ながらベッドから降りた。部屋を出る前に帽子を被せて、適当な上着を羽織らせる。子供は黙ってされるがままだった。
アパートをでて、早々と貧民街を抜けた。大通りと逆の道を行く。子供は、朝のように俺の斜め後ろを歩いている。
まずは靴屋に行った。好きなものを買っていいよ、と言ったら、不安そうな目で見上げてきた。結局自分で選べず、俺が候補として挙げたものを即決した。服は俺が適当に買った。一般的に見て、可愛いとは言い難い、むしろ野暮ったい服。もともと着ていた服と比べるとずっと安物だろう。
そもそも、暴力の捌け口に使われていた奴が、こんなに良い服を着ていることがおかしい。性の道具として扱われていたのなら、そういう嗜好なのだろうと納得も出来るんだけど。こいつの飼い主は、童話に出てくるようなお姫様をいじめるお妃様にでもなりきっていたのだろうか。それなら随分と変わった趣味だ。
遅い昼食を済ませた後は、顔を隠すための帽子と伊達眼鏡を買いに行った。鍔が垂れ気味の帽子、縁の大きな眼鏡を選んだ。それから、手入れされている綺麗な長髪を服の内側にいれて完成。可愛い雰囲気の子供、程度の外見にはなったと思う。
「そろそろ帰ろうか」
空は夕暮れ。子供は頷いた。
子供はずっと黙っていた。はいかいいえで答えられない問いをすると口を開いたが、なんの意味もない答えばかり返ってきた。どこまでも透明色。どれだけ弱い色を使っても、混ざり合うことはない。
夜には、苛立つことはなくなった。俺も少しだけ透明になったのかもしれない。ただ、同じ部屋にいるだけ。
「名前、ないんだっけ」
そんなことを聞いたのは何故だろう。混ざり合いたいという欲求が残っていたのか、それとも、透明を塗りつぶしたくなったのだろうか。
「自分で付けなよ、名前」
困った顔。透明が少し濁った気がした。心臓の表面がぞわぞわする感覚はなんだろう。喜びに近い何か。
「おまえ」
「それは名前じゃないよ」
「あんた」
「それも」
困った顔。きっとダヴィドさんも同じようなやり取りをしたんだろうな。
「まぁいいや」
どうせここには二人しかいない。名前なんて不要だ。君と僕、貴方と私でことが足りる。なんて楽な世界だろう。名前っていうものは、人が人を縛る最初の鎖なのかもしれない。互いに名乗り合うことで、更にきつく締められていく。
子供が眠そうな目をしているのを見て、手錠を取り出した。金属同士が触れる音に、子供がこちらを見る。
「悪いけど、寝ている間はこれをしてもらわないといけないんだ」
小首を傾げてから頷く。それから背を向けて、腰の辺りで両手首を合わせた。
「後ろ手じゃあ眠りにくいだろうし、前でいいよ」
子供が振り向く。一瞬、笑っているように見えた。
手錠を掛ける。そのままベッドに寝かせて、鎖で手錠とベッドを繋げる。作業を終えて立ち上がると、子供と目があった。碧い目は何かを期待しているように輝いて見えた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
機械的な返事。瞼が閉じる寸前、目の色がくすんだような気がした。
翌早朝に目を覚ました。外はまだ暗い。子供は寝ていた。朝から善人面をするのは面倒だ。昨日よりもゆっくりとベッドから降りる。仕事着に着替えて部屋を出て、水場で顔を洗ってから店に向かった。
受付には普段通りダヴィドさんがいた。他に二人。ナタシャと男がいた。男はどうも挙動不審だ。俺と目が合うと大袈裟なくらい肩が跳ね上がった。男は受付に数枚の札をおいて逃げるように店を出ていった。
「客をビビらすんじゃねえ」
「そんな気はねえよ」
「無愛想すぎんだよ、お前は。ガキと話すときくらいの笑顔を作りやがれ」
「あんたにだけは言われたくねえな」
「あのガキはどうだ?」
「どうもこうも、なにも変わらねえよ。飯を食っても服を買ってやっても大した反応はなし。犬の方がまだ表情豊かだな」
「本当にお前のことが嫌いなんだろうな。お前がいないときはニッコニコしてたぞ」
そう言って鼻で笑う。苛立ちが胸をチクリと刺した。ダヴィドさんの口の悪さには慣れているはずだった。
「あの子、いつからここで働くの? あ、店長、さっきのお客さんにチップもらいました」
「そうか。どうする?」
「返済に当ててください」一枚の札を手渡す。
「分かった。あのガキについては、まだ分からん。お前が気にすることじゃねえ」
「はーい。もう閉店ですよね。他の子、呼んできますね」
「待て。まだ帰ってきてねえのがいる」
「見てきましょうか」
「血の気の多そうな客だったからな。ラナン、お前も行け」
「別料金な」
「細けえ野郎だ」
さっきの客が払った金から、一枚、受付の上においた。ご所望の笑顔で受け取ってから部屋番号を聞いて店の奥へ向かう。部屋の近くで、俺だけ足を止めた。ナタシャ一人で向かわせる。
ノックをして呼び掛けるとドアが開いた。客は若い男。着飾ってはいたが、貴族ではなく平民のようだった。かなり気が立っているようだ。部屋のなかを覗いたナタシャが驚いた表情をした。何かあったと確信して角からでる。俺に気づく前に、男がナタシャに掴みかかった。ちょうどいいタイミングだ。歩幅で距離を調整。寸前でこちらを見た顔面に拳を叩き込む。男とナタシャは揃って床に倒れた。靴先で腹部を蹴って、抵抗しないことを確かめてから部屋を覗いた。ベッドの上。裸で誰かがいた。誰かはわからない。それほどに顔が腫れていた。そいつに駆け寄ったナタシャに、縄を持ってくるように言った。それで男を縛り上げる。こういう嗜好なのか、女がなにかしたのか、それは分からない。というよりどうでもいい。どんな理由があろうと、こいつはやりすぎた。
女はソニヤだった。十四歳。息はあったが、意識は朦朧としているようだった。
男をダヴィドさんに任せてから、女達を家まで送り、ソニヤを診療所に連れていった。今回のようなことがあったときはいつも行っているところだ。医者は「こりゃまたひどいな」とは言ったが、怪我の理由は聞かなかった。
病院を出てから、ソニヤに帽子を被せた。理由は、昨日の子供と同じ。
「ありがと」
その声は聞き取りにくかった。
「仕事だ」
「うん」
歩き出す。さっきまで立てなかったのは、どちらかというと精神的なショックのせいだったらしい。医者に診てもらって大分落ち着いたようだった。
「聞いてはいたけど、本当にあんな客がいるんだね」
「あそこまでひどいのは珍しいけどな」
生きているだけ運がいい、とは言わなかった。
「仕事、ちょっと怖くなった。久し振りに」
「辞めたらいい。ソニヤは借金もないし、金も大分貯まっただろ」
首を横に振る。
「私みたいな子供は一人じゃあ生きていけないから。貧民街じゃあカモにされるだけだし、街じゃあアパートを借りることもできない。施設に、地獄に送られるだけ。ラナンも知ってるくせに」
「成人するまでの辛抱だ」
「うん、そうだね」
家の前に着くと、ソニヤは帽子をはずして俺に手渡した。軽く手をあげて別れ、店に向かう。大分時間が過ぎていた。
ソニヤは、俺が拾った子供の一人だ。二年前、浮浪者に襲われていたところを見つけた。だからすぐになついた。善人面をする必要もないほどに。幼い頃に親に捨てられ、それから孤児院で様々な虐待を受けて育ったという。仕事を始める際も、それほどの抵抗は示さなかった。三日も経てば、お金がもらえるだけマシと笑えるくらいだった。
店についた。受付には誰もいなかったが、書き置きがあった。部屋番号のみ。その部屋に行くと、ダヴィドさんと男がいた。ダヴィドさんはベッドに足を組んで腰掛けていて、男は床に正座させられていた。
「どうだった?」
「もう歩けるくらいには問題なし。でも顔はひどい。腫れが引くまでに一ヶ月はかかるだろうってさ」
話を盛っておく。その方が都合が良いことは知っている。
「そうか」俺から男に目を移す。
「だとよ。さっき話した通り、一ヶ月分の治療費と儲け分、払ってもらうが構わねえな」
男は何度も頷いた。顔色が悪い。どうやって脅したのだろう。暴力か、それとも家族か。
「逃げてもいいが、あんたの母親や姉、姪に払ってもらうことになる」
「ちゃんと払う。だから家族には手を出さないでくれ」
後者か。そう思うと同時に、ダヴィドさんが立ち上がり、男の膝の上に置かれた手を思いきり踏みつけた。
苦痛の声を意にも介さず、続けて脇腹を蹴った。倒れた男のそばにしゃがんで見下す。
「人のとこの従業員に手ぇ出しといて生意気なこといってんじゃねえぞ」
男が呻くようになにか言った。多分、謝ったんだと思う。ダヴィドさんは立ち上がると、ポケットからなにかを取り出して俺に投げた。受け取る。丸めた紙幣だった。広げると二枚。
「一枚はこいつの相手分、もう一枚はソニヤの付き添いってとこか」
「あと、こいつをスラムの外まで連れていけ。別料金か?」
「サービスしてやるよ。もう大分稼げたからな」
「本当に運のいい奴だ」
貧民街の入り口付近で男を解放してからアパートに帰ったころには朝とはいえない時間になっていた。気が抜けて腹が鳴る。部屋にはいると、子供はベッドの上に足を伸ばして座っていた。無表情。人形みたいだった。
そばによると、ようやくこちらを見た。俺は鎖をはずしながら笑みを浮かべる。
「遅くなってごめん。お腹空いただろう」
子供は首を横に振った。飯を食いに行くことは確定だから見なかったことにする。
手錠をはずしてベッドから降ろす。さっきの男みたいに走り去るつもりは全然ないようだった。
調査結果を聞いたのは、子供を拾ってから三日が経った日の夜だった。結局、子供の素性は一切不明。ただ、貴族や他店の所有物でもないことが分かったため、無事採用となった。明日の朝、送迎ついでに連れてくるよう言われてアパートに戻った。
子供はまだ起きていた。ベッドの上で、何を見るでもなく、ただ座っていた。
昼間に買ったパンを渡す。
「明日は朝が早いから、早めに寝た方がいいよ」
俺がそう言うと頷いた。歯を磨くとすぐにベッドで仰向けになった。目を閉じる。へその辺りに置かれた手に手錠をかけた。
夜中になって、俺もベッドに入った。人の匂いがした。三日前より薄いのは慣れたからだろうか。それとも、俺の臭いと混ざったのだろうか。
翌朝、約束通り子供を届けた。その際、護衛の仕事の終了を告げられた。明日からはまた、なにか仕事があれば回してもらうことになる。仕事はまちまちだ。いくら大金が入るとはいえ、豪遊はできない。
アパートに戻って、昨晩の残りのパンを食べた。ベッドに寝る。そこに残った微かな匂いが鬱陶しくてたまらなかった。
深夜に目を覚ました。ドアを殴るような音。外から聞こえてくる怒号はダヴィドさんのものだった。
ドアを開けると同時。頬に衝撃を感じ、尻餅を着いた。頭は冷静だったが、何があったのか考えてもそれらしい答えは浮かばない。
ダヴィドさんが俺の前になにかを放った。人形じゃない。子供だった。頬が赤く腫れている。
「こいつが何かしたのか?」
子供の前だったが、善人面を作るという考えは浮かばなかった。冷静なようで余裕がなかったのかもしれない。
「何かしたなんてもんじゃねえぞ。この糞餓鬼、常連の貴族を刺しやがった」
「刺した?」
「客がしていた十字架のネックレスで、頬をな」
ダヴィドさんが近付いてくる。固く握られた拳が迫ってきても、避ける気にはならなかった。
「とんだ、疫病神を、連れてきたもんだな、おい」
何度殴られただろう。意識ははっきりしていたけど視界が狭く、ぼやけていた。
「契約は不成立だ。金を請求しないだけ有り難く思え」
そう言ってダヴィドさんは出ていった。あの調子じゃあしばらくはろくに仕事をくれないだろうな、なんて考えた。
どのくらい時間が経ったのかはわからない。目が見えるようになってきた。窓を見ると、外はまだ暗かった。
子供はベッドの上にいた。ここは自分の場所だというように。
碧い目が俺を見ていた。無表情。どこまでも透明。
塗り潰したくなった。色は、何でもいい。
殴る。倒れた。馬乗りになって、拳を振り下ろし続ける。
子供の口から声が漏れた。
思わず手が止まる。
この三日間で、一度も聞いたことがなかった声。
笑っていた。
透明な涙を流しながら。
赤い血を流しながら。
碧い目を輝かせながら。
笑っていたんだ。綺麗な色で。




