第1話「目覚め」
「お前さ、いつも同じことやってて飽きねーの?」
隣のベッドで本を片手に碁盤を眺める彼女へ、俺は思わずそう話しかけた。
「全く。それが何か?」
「いや別に何ってわけじゃ……」
素気無く突き放されて、黙り込む。
俺が小学生にして早くも保健室登校となってから、早二か月。
いや、そもそも小学生という表現も果たして適切なのだろうか?
俺が現在通っている学校は『普通』じゃない。所謂特別支援学校って奴だ。
体やら頭やら何かしらが、世間の平均より明らかに劣ってたりそもそも無かったり。
そんな奴等が通ってる。
そして当然、俺もその例に漏れない。だが俺の場合、不幸中の幸いで頭には特に障碍は無い。
というか数か月前までは何の不具合も無く普通に健康だった。
しかし、遡ること数か月前。
それは何の前兆も無く、突然俺の身に降りかかった。
あれは確か、英会話の習い事で出された宿題をやっていなかった、ただそれだけの理由で八つ当たり気味に母親に怒鳴り倒された後だった。
寝室も母親と同じだから、俺は母親と顔を合わせたくない一心でずっと湯舟に浸かり続けていた。恐らく十分以上はずっと入りっぱなしだったように思う。
そして、次に俺が意識を取り戻したとき。そこは既に、病室のベッドの上だった。
まるで金縛りにあったかの如く、身体が動かない錯覚があった。
上半身のほとんどは辛うじて動いたが、下半身は本当にピクリとも動かなかった。
告げられた病名は、脳溢血。
俺みたいなガキとはおよそ無縁なはずの年寄り臭い重病は、当時の俺には理解不能だった。
後から聞いた話じゃ、何でも俺は、三日三晩盛大に生死を彷徨ったらしい。
それを思えば、こうして無事一命を取り留めただけでも、割と奇跡的だったと言える。
その後、何とか腕やら口やらは、倒れる前と同じレベルで動くようになった。
だが足だけは、どうにも動かなかった。
それで特別支援学校への転校と相成った。
しかし転校早々、俺はこの新川特別支援学校に嫌気が差し、一か月と持たずに保健室登校となった。
最初は実質俺一人の、快適だが空虚な空間だった。
保健の先生は普通の小学校と違って二人もいたが、偉い方と思われるおばさん先生が実に気が利く人で、若い男の先生共々、俺の方から呼びつけない限り放置してくれた。
それに変化が起きたのが、つい十日ほど前。
そいつはまるで、ずっと前からいつもそこにいたかのように、俺の隣のベッドにいた。
大人と喋るのはしんどいが、かといってこうもずっと一人だと流石に寂しい。
そう思っていたところだったから、内心嬉しかった。
これで男子だったなら尚良かったが、そいつは女子だった。学年は見たところ俺と同じくらいで、まあ何というか、世間一般で言うところの相当な美少女だと言っていい。
最初は「なんだご同輩か、そりゃ気持ちは分かるぜ。頭はまともな俺達からしたらあんなところやってらんねえよなー」なんて話しかけようと思っていた。
だがそいつは、あまりにも一心不乱だった。あまりにも無我夢中だった。
そいつの世界は、そいつとそいつが見つめる碁盤と本だけでできていて、余所者の俺は邪魔しちゃいけないような気がした。
だから俺は、話しかけようとそいつを見ては、「今は悪い、また今度にしよう」と自重した。
それを何度も何度も何度も何度もかれこれ百回くらいは繰り返し、一体いつまで待たせやがるいい加減にしろよと完全な逆恨みで自暴自棄になりながら、今日ようやく、こうして話しかけるに至ったのだった。
それなのに――
「逆に訊くけど、君はいつもそうやってぼーっとしてるけど何で? 私にはよく分からない」
「はぁ?」
最初の冷淡な反応から、会話する気も無いらしいと判断していたところだった。
だから、問われた内容の不可解さと、質問を投げかけられたという事実への驚きで、二重に困惑する。
「いやまあ、何でって……何もやる事ねえし? ゲームとか漫画は流石に駄目って先生に言われちまったし」
「ふーん。それで君は、そこでうじうじといじけて、ただ無駄な時間を過ごしてるってわけ?」
「おい、お前もしかして喧嘩売ってんのか?」
「別に。思ったことを率直に言っただけ。あと仮に喧嘩になったとしても、君、確実に負けるよ? 私は君と違って全身動かさせるし」
「んだとゴラァ! いいよ来いよ! 女だからって殴られねえとか思ってんじゃねえぞ糞が!」
凄みながら、思わず立ち上がろうとする。しかし脳溢血の後遺症で当然足は動かない。
それでも怒りに任せて、無理矢理全身をベッドから乗り出そうとし、
「あっ! ちょっ! 落ちる――!」
気付いたら風呂場で倒れてたあの日と違い、はっきりとした激痛を伴って、俺の意識は真っ暗闇に落ちて行った。
§
気が付くと、すっかり見慣れた病室の天井が視界に飛び込んで来た。
「今日からやっとか……」
再開する日常への気怠さからか、遅れを取り戻さねばならないしんどさからか、あるいはそれらに対する若干の期待からか。
溜め息のような、自分に喝を入れるような。
語りかける相手もいない病室で、独り言を漏らした。
目覚まし時計が表示した日付は、十一月二十二日。
俺が先日自宅でぶっ倒れてからちょうど一週間になる。
先週十五日の朝。平日なので当然学校があるにもかかわらず一向に起きて来ない俺を、母親は事務的に叩き起こしに来た。
しかし声をかけても揺すっても全く反応を示さない俺を見て徐々に事態の深刻さを悟り、俺は救急搬送されて緊急入院となった。
小学校時代の俺の出来事がトラウマとなっている母親にとっては気が気じゃなかっただろうが、検査の結果に異常は無かった。
二十四時間ほど余分に眠ってからは、ごく普通に目を覚ました。
話を聞いたときは俺自身も相当不安になったが、医者が何の異常も無いと言うのだから事実そうなのだろう。
血の滲む、決死のリハビリの果て。
かつて二度と歩けないと言われた俺の肉体は、完全な健常状態まで奇跡的な回復を遂げた。
地元のローカル新聞に小さく取り上げることすらあった。
その体がまた動かなくなるのではと大いに焦ったが、どうやらそれは杞憂のようだった。
「しかしなぁ。それならそれで、一体何だったってのか?」
診断結果は異常無し。
感覚的にも異常は欠片も無く、むしろどこも悪くないのに絶対安静なんて言われて精力を持て余していたくらいだ。
だからこそ引っかかる。
なぜ俺は、都合訳三十時間もの間、眠りこけていたのか。
眠る前は特筆すべきことも無かった。
普通に期末に向けて勉強に勤しみ、スマホでネット掲示板に書き込みをしながら歯磨きや翌日の準備をして床に就いた。そして、子守歌代わりの英単語暗記音声を聞きながら意識を失ったはずだ。
他に強いて何か挙げるなら――そういえば、起きるまでに何か懐かしい夢を見ていた気がする。
もっとも、夢の記憶なんて一分一秒と加速度的に薄れゆくものであるからして、具体的には何も思い出せないわけだけれども。
どうも釈然としないが、ここで悩んでいるのはたたの時間の浪費であって合理的じゃない。
どうにもならないことに気を揉むよりも、自力でよりよくできる事柄にリソースを割こう。
そう考え、親に持ってきてもらっていた制服に着替えると、一週間ぶりの学校へ直行した。