1
私は死ぬときは土葬にしてほしい。日本で生まれて死んだなら普通は火葬だろうなと思うのだけど、どうしても土葬がいいなと思うのだ。
私の家は代々地元の顔役的な役割を担っていて、何か催しがあるときは率先してことにあたることになっていた。それに、(あまりあることではないけれど)このあたりでもめごとが起きると、それは必ず我が家に持ち込まれるのだ。私にとっては「これ、一番に警察に持っていくべきだろう?」と思えるようなものであっても、第一報が警察にいくことはなかった。
どこかの家でなにか手に負えない問題がおきると、その家の人間はまずうちに訪ねてきて「先ほど、私の宅でこれこれのことが起きたのだけれど、どうするべきか」と聞くのだ。
私が家に住んでいた頃は、だいたいこの話を直接聞くのは父親だった。父はその話を聞いて、その場で(どうしても即断できないときは日を改めて)訪ねてきた人にその問題に対して適切でふさわしいと思われる対処を伝えることになっていた。
父が伝えた対応が「適切」であり「ふさわしい」ものかどうかは、実際に問題が発生したはずの家の家人が判断するものではなく、もちろん私が判断することでもなかった。
判断するのは父であり、父の前の家長であった祖母であった。
もちろんそれらは何か公的機関の裏付けがあるわけでもないし、判断が下された当事者の人間にとってすべてが納得のいくものではなかったのだと思う。父に慮ってはっきりとは反抗しないものの、父の判断に不満をもつ人間はそれなりの数はいたのだろう。
けれど、父らは代々の家長がしてきたように人々に応対し、その動揺や不安に応え、その後の行動を示唆し続けた。それらをもって彼らは人々の尊敬を或る程度集めていたし、私を含めた身内の人間は、彼らの血をひくということでそのおこぼれに預かっていたのだ。




