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第三巻 第二章 門の町・トーラン・第三書庫

 トーランの旧記録庫は、門から少し離れた坂の上にあった。

 新しい役所の白い壁とは違い、黒い石を積んだ低い建物である。窓は細く、蔦が半分ほど覆っていた。入口の札には《旧王国記録庫》とあるが、扉は固く閉ざされている。

 エッダさんから預かった鍵に合うという北側の小扉は、建物の裏手にあった。

 「本当に、ここへ入っていいのかな」

 ロッテが訊く。

 「鍵を渡されたのだから、たぶん」

 「たぶんで入るの?」

 「誰かに訊いてからにする?」

 「それはそれで、鍵の意味がなくなる気がする」

 ロッテが困ったように笑った。

 鍵を差し込むと、錠は驚くほど素直に回った。

 扉の向こうには、紙と乾いた木の匂いが満ちている。

 第三書庫は、建物のいちばん奥にあった。

 高い棚が壁を埋め、帳面や封印箱が天井近くまで並んでいる。中央の机では、白髪を短く切った女性が、一人で紙を写していた。

 棚ごとに、紙の色が少しずつ違った。戦争の前の帳面は黄みが強く、避難記録は急いで綴じられたらしく背が歪んでいる。新しい報告書だけが白く、揃いすぎた文字で並んでいた。読む前から、同じ「記録」でも、書かれたときの息づかいまで同じではないのだと分かる。

 机の脇には、細い紙片が何枚も置かれていた。帳面を戻す場所を示す札なのだろう。ベアトリクスさんは写しを取る紙の端へ、ひとつずつ重石を置いている。風もない室内でそうするのは、頁が勝手に閉じて、書くべき行を隠さないようにするためらしかった。

 その几帳面な手つきを見ていると、ここは秘密をしまうためだけの場所ではなく、いつか誰かが探しに来たとき、迷わず辿り着けるようにする場所なのだと思えた。

 鍵の音を聞いても、彼女はすぐには顔を上げなかった。

 「北の扉は、もう開かないようにしたはずだけれど」

 「エッダさんから鍵を預かりました」

 わたしが言う。

 女性の羽根ペンが止まった。

 「……エッダから?」

 「はい」

 彼女はようやくこちらを見た。灰色の瞳は疲れていたが、わたしたちを見定める強さがある。

 「私はベアトリクス。この書庫の記録守よ。あなたがフリーダ・リンデン?」

 「そう名乗っています」

 「正直ね」

 「本当のことを言えないときに、嘘を重ねたくはありません」

 ベアトリクスさんは少しだけ口元を緩めた。

 「エッダらしい人を寄越したものだわ」

 彼女は机の脇に置かれた、薄い茶色の外套を指さした。

 「エッダは王都の書記になる前、ここで夏だけ写しの仕事をしていたの。急ぐ人ほど、原本と写しを取り違える。記録に残ることと、今すぐ人へ知らせることは、別の仕事だとあの子は覚えた」

 「それで、わたしたちへ鍵を?」

 「ええ。王都の中では、目立つ紙を持って動けない。けれど、何も見なかったことにもしたくないのでしょう」

 ベアトリクスさんは、棚の最下段にある小さな木箱を取り出した。箱の表には、王家の白塔と、トーランの門が並んだ古い照合印が押されている。

 「ここは、王都の命令を疑うための場所ではありません。誰が、いつ、何を命じたかを確かめるための場所です」

 その言葉は静かだった。けれど、入る前に感じた紙と木の匂いが、急に重くなった気がした。

 彼女が机の引き出しから出したのは、二冊の薄い帳面だった。

 どちらも、フリーデリケ・ヴァイスの名が記された王都の命令書である。

 一冊目には、魔王討伐の後、王家との婚姻契約を提案すること。拒否された場合も、生け捕りを原則とすること。

 二冊目には、同じ日付で、別の文字が並んでいた。

 《対象が王家の命令に従わない場合、国土の安定を害する危険魔法使いとして、戦時非常法により即時処断を許可する》

 息が止まる。

 「王の命令では、ないのですね」

 「署名は評議会の五人。王へは“治安維持の補足規定”として提出された。陛下が読んだか、止めなかったかまでは、この記録だけでは分からない」

 「エドガー殿下は?」

 「署名していない。でも、反対の記録もない」

 ベアトリクスさんは、二冊目の末尾を指した。署名の下には、いつもならあるはずの王印がなかった。

 「戦時非常法は、戦場で魔力災害が起きたとき、評議会が一時的に人を避難させたり、術式の使用を止めたりするための法律でした。本来、個人を長く拘束することや、処断を命じることには、王の裁可と公開の記録が要る」

 「これは、ないのですね」

 「ない。だから、評議会は処断の命令そのものを門や地方役人へ渡さず、“危険な魔法使いを確保せよ”という紙だけを先へ出したのでしょう。誰も全体を見なければ、従っている人たちは自分が何に加担しているか分からない」

 わたしは、フルセアで会ったエーリヒさんを思い出した。彼は生け捕りだと言った。門の騎士たちも、ただ規則に従っていた。

 「皆が、同じ命令を読んでいたわけではないのね」

 「そうです。命令を細かく分ければ、誰も責任の全体を持たずに済む」

 ベアトリクスさんの声には怒りがあった。けれど、それを大きく見せる人ではなかった。

 「王が止めなかった責任まで消えるわけではない。でも、評議会の五人が勝手に書いた一文まで、王の言葉として扱わせるのも違う。だから記録が要るのです」

 紙に書いていないことまで、なかったことにはできない。

 ロッテが便箋の端を押さえた。

 「これを、エッダさんは見つけたんだね」

 「写しを作って、私へ預けた。原本は王都の記録庫に戻したわ。勝手に持ち出せば、すぐ疑われるから」

 「じゃあ、これは写し?」

 「ええ。けれど正式な照合印もある」

 ベアトリクスさんは、二冊目の帳面を閉じた。

 「紙一枚で、人の人生を危険物にすることができる。それが記録の怖さです」

 「なら、燃やせばいいのではないですか」

 思わず言うと、彼女は首を横に振った。

 「燃やせば、評議会は“そんな命令はなかった”と言える。記録は、誰かを縛るためだけにあるものではない。誰が何をしたのか、後から問うためにも残すの」

 わたしは二冊の帳面を見た。

 星落としの跡地を消せないように、この文字も、なかったことにはならない。

 ベアトリクスさんは、隣の棚から別の帳面を抜き出した。

 表紙には、町ごとの名前が細い字で並んでいる。

 「ここには、戦後に行われた魔法設備の修繕依頼も記録されています。ミュレアの水車、フルセアの渡し舟、ゼーリアの湖上書庫」

 知っている町の名が、次々に出てきた。

 「どうして、それを」

 「国が金を出した復興事業なら、王都に報告が来るからです。でも、記録には“修繕完了”としか書かれない」

 ベアトリクスさんは頁をめくる。

 「水車を直した人が、町へ残るかどうか。舟を待っていた姉弟が、何を話したか。書庫はそこまで残せません」

 「残せないことも、あるのですね」

 「ええ。だからこそ、残せることを勝手に消してはいけない」

 彼女は、ゼーリアの湖上書庫についての報告頁を開いた。そこには、船名と修繕費、予定航路だけが整った字で並んでいる。

 「この船が、戦争中に避難民を何人運んだかは、ここには書かれていない。船を直すために、修繕士が自分の仕事を選び直したことも」

 ロッテが、頁の余白を見た。

 「書けないことは、誰かが覚えておくしかないんだね」

 「その通り。ただし、覚えている人だけに任せると、力のある人が“そんなことはなかった”と言ったときに弱い。だから、書けることは書く。足りないから捨てるのではなく、足りないと分かったまま残すのです」

 わたしは、クララのことを思った。誰かの記録に、彼女が何を望んだかは残っていない。けれど、残っていないことは、なかったことではない。

 ロッテが、わたしの隣で小さく頷いた。

 「記録にないことが、なくなるわけじゃない。でも、記録までなくしたら、嘘をつく人が楽になる」

 「そのとおり」

 ベアトリクスさんは帳面を閉じた。

 「エッダは、王都の外であなた方が直してきた町の報告も読んでいた。だから、ただ逃げている人ではないと思ったのでしょう」

 胸の奥が少しだけ熱くなった。

 町で起きたことは、わたしとロッテだけのものではない。けれど、誰かが見ていたのだと思うと、旅が急に遠くまで続いているようだった。


 書庫の外で、金属が鳴った。

 ベアトリクスさんが顔を上げる。

 「早いわね」

 窓の隙間から見ると、灰色の制服を着た役人が三人、正面入口に立っている。手には、王都の封印がついた文書。

 「評議会監査局です。戦時記録の確認に参りました」

 扉越しに声が響く。

 ロッテが、わたしの横へ来た。

 「私たちを探してる?」

 「書庫を探しているのかもしれないわ」

 ベアトリクスさんは、落ち着いた手つきで帳面を箱へ戻した。

 「監査そのものは、拒めない。けれど、記録は一度に一か所へ置かなくていい」

 「正面で令状と封印棚の鍵を照合するあいだなら、奥の棚へ来るまで半刻ほどはあるはずです。急ぐのは、処断条項と、王印のない付則、それから命令がどの町へ送られたかを示す表――四頁だけにしましょう」

 彼女は棚の間にある、古い紙写し機を示した。

 「壊れているのですか」

 「二年前から。書庫の予算は、新しい照合術式に回された」

 ロッテが機械へ駆け寄る。

 「修繕士として、ここに来たことにしよう」

 「通行証には、そのように書いてあります」

 わたしが答える。

 「本当に使うことになるとはね」

 ベアトリクスさんは小さく笑った。

 紙写し機は、二枚の紙を重ね、薄い魔力で文字を移す道具だった。

 けれど内部の魔導石は欠け、術式を送る管も詰まっている。

 ロッテが糸で管を探り、詰まった古い墨をほどいていく。

 「フリーダ。魔力を入れるなら、文字が浮くところまで」

 「何枚分?」

 「一度に五枚。欲張らないで」

 「五枚でも、たくさんではないかしら」

 「まず処断条項を五部。残りの三頁は、機械を休ませながら手で五部ずつ写す。全文を今ここで増やそうとしたら、間に合わない」

 わたしは頷いた。

 紙を置き、ロッテの青い印へ魔力を送る。

 淡い光が広がり、最初の写しに文字が浮かんだ。

 《即時処断を許可する》

 その一文が、二枚、三枚と増えていく。

 重い。けれど、増えた文字は、評議会だけのものではなくなる。

 五枚目の紙へ文字が移る前に、ベアトリクスさんは一度だけ手を止めた。

 「ここから先は、あなたたちが決めてください」

 「何をですか」

 「写しを作れば、王都へ戻ったとき、あなた方がこの命令を知っていたことも明らかになる。送られた町の人たちも、監査の目を向けられるかもしれない」

 ロッテが、機械の前で固まった。

 「だったら、送らない方が安全では」

 「安全かもしれません。でも、原本が消えたら、あるいは評議会が別の文書へすり替えたら、後から確かめるものがなくなる」

 わたしは、淡い光が浮かんだ五枚の紙を見た。誰かへ危険を知らせることと、その人を巻き込むことの間には、いつも同じ怖さがある。

 「ロッテ」

 「うん」

 「あなたは、どうしたい?」

 ロッテはすぐには答えなかった。小さな修繕鞄の留め具を握り、それからベアトリクスさんを見た。

 「送る相手に、選んでもらいたい。紙だけを突然送りつけるんじゃなくて、何が起きるかを書いて。それでも写しを預かるか、決めてもらう」

 「それなら、できます」

 ベアトリクスさんは頷いた。

 「わたしも、その手紙に名を入れます」

 「フリーデ」

 「これを送るのは、あなたに頼まれたからではないわ。わたしも、命令がなかったことにされるのは嫌です」

 ロッテは、少しだけ目を潤ませた。けれど、すぐに笑う。

 「うん。じゃあ、二人の名前で書こう」

 ベアトリクスさんは写しの余白へ、日付と照合印を書き込んだ。

 「記録を残すのは、きれいなことではないわ。見たくないことも、あとで読める形にすることだから」

 「でも、必要なのですね」

 「ええ。読んだ人が、次は違うことを選べるように」

 五枚目の写しができたとき、機械の奥で小さな火花が散った。

 「フリーダ、止めて」

 「ええ」

 わたしが魔力を引くと、ロッテはすぐに機械の側面を開けた。

 「仮継ぎした線が熱を持ってる。これ以上は、少し休ませないと」

 「あと何枚?」

 「原本の重要な頁は、あと三枚。それぞれ五部ずつ、残りは手で写す」

 ベアトリクスさんは、ためらわずに羽根ペンを並べた。

 「私も書きます」

 「わたしも」

 ロッテが言う。

 「ロッテは修繕を」

 「今は待つ仕事。フリーデも書ける?」

 「報告書なら」

 「今日は、報告書でいい」

 三人で机を囲み、写しを始めた。

 最初の一枚を写し終えるまでに、思ったより時間がかかった。原本の字は細く、急いで書かれた箇所だけ墨が滲んでいる。わたしが「即時処断」の「処」の字を一度書き損ねると、ベアトリクスさんは紙を取り替え、失敗した方をすぐには捨てなかった。

 「誤写も、何を間違えたか分かるように残しますか?」

 「ここでは残すこともある。でも、相手へ渡す照合写しは、読めることが先よ」

 彼女は新しい紙をわたしの前へ置いた。

 「正しい字を書くために、間違えた紙まで正しいふりをさせる必要はないでしょう」

 それは紙の話だったけれど、わたしは少しだけ頷きにくかった。

 ロッテは隣で、ひとつの段落を書き終えるたび、魔導機の熱を指先で確かめている。休ませるべきときに休ませる。急ぐべきときにも、壊れるまで働かせない。その手つきは、荷車や水車を直してきたときと同じだった。

 途中で、ベアトリクスさんが書庫の隅にあった小さな湯沸かし器を持ってきた。火を使う余裕はないから、底に残った保温の印を温め直すだけのものだった。

 「フリーダさん、これくらいなら?」

 「ええ。ここへ入れるだけなら」

 わたしは、器の底に刻まれた丸い印へ、ごく少しだけ魔力を送った。湯気がひと筋立ち、乾いた書庫に茶葉の香りが広がる。

 ロッテが目を丸くした。

 「紙を焦がさないでって言われた直後に、お茶まで淹れられるんだ」

 「同じくらい小さな終点があるもの」

 「それなら、ちゃんと覚えてる」

 冗談のように言いながら、彼女はわたしの書いた行を覗き込んだ。

 「今度は“処”も合ってる」

 「見ないでください」

 「見るよ。照合する仕事なんだから」

 短いやり取りのあいだにも、手を止めた人の茶が冷めていく。だから、わたしたちはまたペンを取った。重い一文を写すのは辛かったが、その辛さを理由に、書かなかったことにはしたくなかった。

 《即時処断を許可する》。その文字を何度も書くのは、ひどく嫌だった。それでも、手を止めなかった。

 書き終えた頁の端に、ベアトリクスさんが照合印を押す。

 ただの紙ではなく、後から誰かが確かめられる記録になる。

 写しの合間に、ロッテは短い手紙を書いた。

 《これは、あなたに何かをしてほしいと頼む手紙ではありません。王都から出た命令の写しです。読むか、保管するか、誰かへ見せるかは、あなた自身で決めてください。》

 彼女は最後の一文を書く前に、羽根ペンを置いた。

 「“一緒にいたいから隣にいる”って、こういうことも含むのかな」

 「どういうこと?」

 「フリーデのために皆を危なくするんじゃなくて。皆が自分で選べるように、フリーデと一緒に紙を残すこと」

 わたしは、少し考えた。

 「そうだと思うわ」

 「即答しないんだ」

 「大切なことだから、考えてから言いたいの」

 ロッテは小さく笑った。

 「それも、フリーデらしい」

 監査役が裏口まで回ってきたころには、処断条項、王印のない付則、送達表、命令の日付を示す頁が、それぞれ五部ずつできていた。

 ベアトリクスさんは、それを三つの束に分け、照合番号だけを書いた紐で結ぶ。

 「トーランの印刷屋、フェルヴィの羽根便、ゼーリアの湖上書庫。信頼できる場所へ分けて送ります」

 「町の人を巻き込むことになりませんか」

 「送るかどうかは、私が頼む人たち自身に決めてもらう。あなたたちが、そう教えてくれたのでしょう」

 ロッテが、わたしを見る。

 わたしは、フェルヴィで読んだ“待てる手紙”を思い出した。

 届くかどうかを、最初から他人が決めてはいけない。


 監査役が書庫へ入ってきたとき、わたしたちは紙写し機の前にいた。

 ベアトリクスさんは、修繕の依頼書を机に置いている。

 「記録の確認に来たと聞きました」

 彼女は淡々と言った。

 「どうぞ。ここにあるものは、すべて目録どおりです」

 役人の一人が、わたしの杖を見た。

 「この者は」

 「修繕補助です。紙写し機の仮修理を頼みました」

 「身元は」

 「門番書記が発行した通行証があります」

 わたしは胸元の紙を出した。

 役人はそれを確かめ、顔をしかめる。

 けれど、期限も印も正しい。

 「勝手な複写は禁じられている」

 「複写は、目録作成のためです」

 ベアトリクスさんが答えた。

 「原本の所在を確かめるには、写しが必要でしょう」

 監査役のうち、いちばん年嵩の女性が机の上へ手を置いた。

 「目録作成なら、監査局の立会いが必要です。いつ、誰の依頼で修理を始めたのですか」

 「昼前です。門番書記レオン・マールの発行した通行証に、修繕補助の記載があります」

 ベアトリクスさんは迷わず答えた。彼女が差し出した依頼書には、確かにその時刻と、紙写し機の故障箇所が書かれている。

 役人は、書面を何度も見比べた。

 「戦時記録の棚を確認します」

 「どうぞ。ただし、棚から出した帳面は、元の番号へ戻してください。ここでは、探しているものが見つからないこと自体も記録の一部です」

 女性は一瞬だけ眉を動かした。

 「ずいぶん、記録にこだわるのですね」

 「こだわらなければ、後から来た人が、誰が何を動かしたか分からなくなります」

 役人たちは棚のあいだへ散った。紙の頁をめくる音が、書庫の高い天井に小さく響く。

 わたしは、ロッテの隣で写し機のねじを押さえていた。逃げるなら、窓から転移することもできる。けれど、そうすれば、ここで写しを残そうとした人まで疑われる。

 ロッテが、声を出さずに口だけを動かした。

 〈大丈夫?〉

 わたしは小さく頷く。

 大丈夫ではなかった。戦うときは、どこまで守るかを決めればよい。けれど、紙を守るために立ち止まるときは、誰かが自分のせいで責任を問われるかもしれない怖さを、力で押し返せない。

 それでも、ロッテが隣にいて、ねじを押さえる指が同じように震えているのを見た。怖いのは、わたしだけではない。


 監査役が去ったあと、日が落ちていた。

 最後に出ていった女性は、扉の前で振り返った。

 「ベアトリクス記録守。今日見た帳面と、あなたの修繕依頼については上へ報告します」

 「そうしてください」

 「後悔しませんか」

 ベアトリクスさんは、机の上に残った古い避難記録を閉じた。

 「後悔することと、記録を消すことは別です」

 役人は何も言わず、扉を閉めた。

 しばらく誰も動かなかった。やがてロッテが、大きく息を吐く。

 「今の人、悪い人には見えなかったね」

 「ええ」

 「でも、紙を持っていく人だった」

 わたしは頷いた。フルセアの騎士たちと同じだ。誰か一人を悪人にすれば、話は簡単になる。けれど、簡単にしてしまえば、また別の人が同じ紙を持って現れる。

 ベアトリクスさんは、写しの束を革袋へ入れた。

 「だから、受け取る側を増やすのです。誰かが一人で正しい紙を持つのではなく、いくつもの町が同じ記録を確かめられるように」

 「これで終わりではありません」

 「分かっています」

 彼女は、もう一通の記録をわたしたちへ渡した。

 それは、王都から北東の町へ送られた魔法使い動員の一覧だった。

 町の名は、灰谷の町・アシェル。

 《戦後残留魔力の浄化、および結界核の維持のため、魔法使いを集めること》

 その下に、小さな追記がある。

 《対象の協力が得られない場合、家族および所属組合への処置を検討する》

 ロッテの顔が曇った。

 「協力って言ってるけど、脅してる」

 「ええ」

 「アシェルでは、誰かが困っているのですね」

 「結界核が壊れれば、町だけの問題では済まないでしょう」

 わたしは記録を折り畳んだ。

 評議会の命令に従うためではない。けれど、そこで魔法使いたちが選べないまま集められているなら、見過ごせない。

 「アシェルへ行きます」

 ロッテが、すぐに言った。

 「二人で」

 「ええ。二人で」

 書庫の窓の外には、トーランの門を行き交う人々の灯が見えた。

 記録は、過去を閉じ込めるためのものではない。

 次に、どこへ向かうべきかを選ぶためにも残されるのだ。


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