影法師の暇乞い 5
暗くなった道を走る。頬にあたる空気の冷たさに、馬の足音と呼吸以外、世界から音が消えたような錯覚に陥る。白い息が後ろへと流れ、霧散していった。晴れた空に星が瞬いていた。
馬から下りて黒い門扉を開け、広い庭を走り、俺は玄関の扉を開けた。その音に応接間の出入口から寝間着姿のコーラルが顔を出した。
「こんな時間に悪い。あいつ、いるか?」
そう言っている最中に二階から下りてきたノアが赤の廊下を駆けてきた。様子が変だった。どうしたのかと訊ねる前に、ノアは切羽詰まったように叫んだ。
「いないんだ、彼女。さっきまでいたのに」
だめだ。考えを止めるな。真っ白になっている暇などない。
「誰か来なかったか」
「来たよ。総務課の女のひとが夕方に来た。でも彼女はツカサさんに会って、すぐに帰った」
「ツカサはいつからいない?」
「私が気づいたのは三十分前からだ。もしかしたらもっと前からいなかったかもしれない」
「外に出てる可能性は?」
「これだけ家の中を捜していないんだ。あると思う」
「俺は外を捜す。おまえはもう一度家の中を捜してくれ」
「わかった」
ノアはライラの姿を見ても驚かなかった。
俺は広い庭を走った。花壇の脇を過ぎ、家の後方にある納屋を覗いてみたが、人影はなかった。後ろから順に庭を回り、彼女の名前を呼んで、木の影や物陰の後ろを見ては視線を周囲に走らせた。ライラも同様に捜してくれたが、家の前面の庭まで見て回っても返事をする人影は見つけられなかった。焦りばかりが募る。
唐突に、何か力のうねりのようなものを感じて、肌が泡立ち、息が止まる。すこしするとそれは弱まったが、感覚は消えない。感覚のするほうへ視線を向けると、門扉のある方角の向こうで、空の低いところに薄い黄緑色の透明な幕がうねっているように見えた。
「どうしたんだ、ガーランド」
ライラが駆け寄ってくる。
「これは、やばいかもな」
これが感覚の鋭い純粋なエルフだったら卒倒しているかもしれない。サジタリスはだいじょうぶだろうか。俺はノアを呼びに行こうと家に戻った。
「感じた。すごく大きな術が発動してる。すぐ近くだ。未完成のものとは比べ物にならない」
応接間にいたノアがはっきりとこたえた。後ろに立っているコーラルの顔が青く、がたがたと震えている。ライラよりも感じているのを見るに、力が抑えられているとはいえ〈角を持つ者〉であることが関係しているのだろうか。
「俺たちだけで行ってくる」
俺はノアにもついて来てほしかった。しかしコーラルの様子を見ると考えが変わった。彼女を見て、一瞬でも舌打ちをしそうになった自分を殴りたくなった。
「危険だ。絶対に何か起きてる」
「もしもの時のために、おまえはここに残れ」
彼も馬鹿ではない。何故俺がそう言うのかすぐに理解した。
「俺たちが一時間しても帰って来なかったら、ひとを呼んであの荒地に来てくれ」
「……わかった」
かろうじて返事をしたノアの肩を叩いて、俺たちは外へと再び出た。庭に放っていた馬が興奮していなないていた。
まだあの光のうねりが見える。門扉の前の道に戻り、そこから向こうの荒地を見下ろすと、向こうに円形の模様の光が宙に浮かんでいた。人影のようなものも見える。あそこにあの魔族がいるのだ。そして恐らく、ツカサも。
丘を下り、乾いた大地を蹴ると足が滑りそうになった。近づいていくにつれ、不快な感覚が増していく。呼吸が荒くなり、汗が噴き出て、心臓が痛いほど鳴った。それでも立ち止まらず、目的の場所へとひたすら走った。地面を踏み締める音だけが小気味よく、軽い。凍てついた空気に、肺の奥まで握り潰されそうだ。しかし複数の人影に気づいた時、潰れたのは心臓のほうだった。
「エマっ!」
呼んだ相手が顔を上げた。白っぽいコートを着た彼女は、地面に座り込み、何かを抱いていた。宙に浮かんでいる光の模様がかすかな明かりとなり、彼女の顔を照らす。表情をくしゃくしゃにして、泣いていた。
彼女が抱いているものがなんなのか、どうしてわかってしまったのだろう。
俺はすぐにエマのそばに屈み込んで、彼女が抱いているものの顔を凝視した。
ツカサ、だった。
白の寝間着に厚手のガウンを羽織った彼女の腕は、だらりと垂れ下がり、目蓋は閉じていた。
息を、していなかった。
嘘だ。
こんなこと、あるはずがない。
あってはいけない。
起こってはいけないことだ。
彼女が、死ぬなど。
頬に触れて、そのぬくもりが、かすかにしか残っていないことを感じた。
さっきまで、ついさっきまで、彼女は生きていたのに。
俺は、何をしていたんだ!
「改めまして、地方司令官様」
場違いなほど艶めいた声が響く。視線の先にあの円形の光があり、それは複雑な模様を描いて宙に展開していた。模様はかすかに動いていた。その下で女がひとり、紅を引いた唇を三日月のようにして笑っていた。黒い髪を頭の右側でまとめて滝のように流し、体に沿った黒いコートを着ていた。赤い眼が独立した生き物のようにほの暗く光っている。
「わたくし、ライラの養い親のシャノン・マートフと申します」
シャノンはまるでここが舞踏会場であるかのように、足を引いて優雅に挨拶をした。
「この度は娘たちがお世話になったようで、恐れ入りますわ。ライラのことを疑わずに逃がしていただいたばかりでなく、エマにまで目をかけていただいて。彼女たちの保護者として、感謝いたします」
俺は歯を食いしばって立ち上がった。
「ツカサに何をした」
「何も」
やましいところなど何もない。シャノンは平静に、ただ目を細めている。
「わたくしはただ最初から、彼女を助けただけです。そしてつい先程、彼女の命は尽きたのです。彼女は言っておりました。自分が死んだら、自分の体を焼いてほしい、と」
「そんなこと、意味もなく彼女が言うはずがない」
「ええ、そうです。彼女にはわたくしが知っている〈メイト〉のすべてをお伝えいたしました。だからこそ、彼女はそう言ったのです」
「じゃあ、おまえの知る〈メイト〉とはなんだ。何を知っているんだ」
「そう……そうですわね。地方司令官様と言えど、彼らのことに関しては無知……。わかりました。きっともう話す機会もありませんから、置き土産としてお話しいたします」
道化師でもここまで不気味には笑わないだろう。シャノンは何かを思い出すように、顎に指先を添え、視線を宙に向けた。
「話は随分と遡ります。いまから二百年前、この地にカンドラという魔族がおりました」
むかしむかし。枕元でおとぎ話を語るように、シャノンは静かに話しだした。
「カンドラは失われて久しい召喚術の研究をしていました。召喚術は高度な術ゆえに遥か昔に廃れていたのです。しかしカンドラは長い時間をかけて召喚術を完成させるに至りました。ですが術を展開し、異界へと通じる門を現したあと、彼女は忽然と姿を消しました。異界からなんの存在も呼ぶことができず、術は失敗したのです。原因はわかりません」
力のあったカンドラであっても術を完成させられなかったということは、余程危険な術ということか。
「やがてこの町には、ある者たちが現れるようになりました。彼らはいずれも瀕死か、死亡した状態で発見されました。町の者たちはいつしか彼らのことを〈メイト〉と呼ぶようになりました」
「何故だ。術は失敗したはずだ」
シャノンが語るそれは、前日にノアが、その可能性があると話していたことだった。
「確かに術は未完成で失敗したはずなのですが、術者がいなくなったあとも何故かそこにあり続けました。現された門は完全には開いておらず、そして閉じてもいなかった。その結果〈メイト〉が来ることになった、とわたくしは考えております。〈メイト〉たちが瀕死であったり死亡していたりするのも、その状態でなければ未完成の門を通れなかったのかもしれません。そして彼らは不思議なことに、魔族と似たような気配を持っていました。彼らは大なり小なり魔族の血を受け継いでいたのです。だからこそ馴染みのあるこちらの世界に呼ばれた。帰ってきたと言っても過言ではないでしょう」
「向こうに魔族がいるっていうのか?」
「いいえ。術が失敗した時、恐らくカンドラは向こうに行ってしまったのです。そして、こちらでは不可能だった他種族との交配が可能になった。結果、魔族の血を受け継いだ者が生まれた。〈メイト〉は彼女の子孫なのです。確認する術はありませんが、カンドラの娘のわたくしが言うのですから、すこしは信憑性がありますでしょう? わたくしには感じるのです。彼らの中に、母の気配を」
シャノンの言うことは証拠がないにもかかわらず説得力があった。
「わたくしは瀕死の状態の彼らに、自分の血を分け与えることにいたしました。血は他種族には猛毒ですが、我々魔族の間では傷ついた同族を助けるのに有効な手段でもあります。もうひとつ用途があるのですが……これは話さずともよいでしょう。魔族の血を引いていてもやはり合わない方が大半で、九割方が与えてその場で死にました。そこで生き返ったとしても、記憶の欠落があり、大抵は数日から数ヶ月で死に、何年も、何十年も生きたのは両手で数える程度。現在何年も生きているのはそこのエマと、あとは黒髪の青年だけ。彼らがあとどれだけ生きられるのかわかりません。きっと体の中にある魔族の血の量に左右されるのでしょう。そこにいる彼女は、その日が来たに過ぎません」
シャノンは悼むように、ツカサにわざとらしく目を向けた。
「わたくしは、ここに彼らの遺体を埋めました。何年、何十年も。何十体、何百体も。彼らの体から漏れ出る力は、ひとつでは少ないですが、数が集まればそれなりの力になります。火葬をしなかった魔族と同様、その土地に良かれ悪かれ影響を与えます。魔物が生まれてしまうのですから。ですがわたくしにはその力が必要でした。彼女はそのことを知って、この町のひとに迷惑をかけるのなら自分の体を燃やしてほしい、と頼んできたのです。わたくしは彼女の考えを尊重し、承諾しました。彼女がここにいるのはそのためです。ですがエマがそれを許してくれません。自分の妹が死してどうこうされるのが嫌なのでしょう。そうですね? エマ」
エマはすすり泣いたまま何もこたえず、しかしシャノンは意に介さない。
「わたくしはこれからこの術を応用して異界へと渡ります。母の見た世界をこの目で確かめたいのです。そのために彼らの遺体をここに埋めたのです。術はうまく発動しました。今度は成功する」
「あなたが召喚術のために動いていたのはわかった。でもどうして? どうしてあの男をイムレアから連れ出した?」
後ろにいたライラが必死に問う。真っ直ぐにシャノンを睨んでいたが、どこか悲しそうな顔だった。
「ふふふ。どうしてでしょうねえ。わたくしもあの権利書がほしかったものですから。あの男にまた動いてもらおうと思ったのです。彼が現状に満足していないのはわかっていました。だからあの家に盗みに入ってもらったのです。しかし彼は権利書の入った木箱を持って逃げ、領主のもとに行ってしまいました。わたくしは仕方なく数日後の領主の晩餐会に出席いたしました。そこでエマに動いてもらい、特殊な薬を混ぜたランプを書斎に持っていかせました。あの男は三階におりましたし、ひとをはけさせた書斎やその周辺に目ぼしいものがないか、権利書がないか探させようとしました。まあ途中で飽きてしまったので先に帰ってしまいましたし、案の定失敗に終わりましたが、そうなることも織り込み済みでした。落胆はいたしませんでしたわ。あの男は、領主の仕込んだ毒で死んだようですけど」
「権利書がほしかったなんて、霊薬が目的か」
「ええ、その通りです。なんでも癒すといわれる霊薬。異界に旅立つのですから、相応の準備はしておきたかったのです。領主のミドエ卿もほしかったそうですよ。だからあのような、大それたことができたのですね。人魚に歌を歌わせて、船を沈めさせた」
「領主が人魚に歌わせた?」
「エルフの里の守人、その一家の長が乗った船。彼にしてみれば、動機がありました。そうして百人以上ものひとびとを巻き添えにし、エルフの森にあった一家の家も使用人に焼かせた。それは司令官様のほうがよくご存じではありませんか? 権利書は手に入りませんでしたが、念のため森には行きました。やはり里には入れませんでしたけれど」
この女は何もかも知っているのだ。しかし昨日まで俺が知らなかったように、霊薬の効果がエルフにしかないのを知らないようだ。領主が何故リートの家族を自分の領地に保護したのか疑問だったが、なんのことはない。自分のそばに置いて彼らを監視しておきたかっただけなのだ。しかしリートの母親は、良心の呵責に耐え切れず死んでしまった。領主はそれでも犯罪の片棒を担がせた女の家族を逃がそうとは思わなかった。
「そのあとは、ええ、昨日ミドエ卿にお会いしました」
「何故殺した」
「ただ単に目障りになったからです。利用価値もなくなって、探られて邪魔をされるのもわずらわしくなりましたので、それならいっそ、いなくなってもらったほうがいいと判断いたしました。幸い、種族除けの道具は三階の書斎にありましたので影響はありませんでしたし、ええ、暖炉にくべられないのがもったいないくらいよく燃えましたわ」
不必要なものを捨ててさっぱりしたように、彼女の笑みは清々しかった。
「わたくしの行動はこんなものです。〈メイト〉のこともよくわかったかと思います。あなたのご友人の魔族の方には、少々勘がよろしかったのでどうしようかと思いました。本当は消してしまったほうがよろしかったのでしょうが、同族のよしみでやめておくことにしました。わたくしが面倒を見切れなかった〈メイト〉の面倒を見てもいただきましたもの。恩を仇で返すのは畜生のすることですわ」
当然のことだ、とシャノンは笑顔で言う。
「このあたりでよろしいかしら。そろそろ旅立ちたいのです。あ、そうでした。術が完成したわけですから、あとには何も残りません。きっとこれ以降〈メイト〉が来ることもなくなるでしょう。本も燃やしておきました。時が経てばひとびとの記憶から〈メイト〉などという存在はこの世から消えます。まるで何もなかったように。この土地に眠る彼らの力を根こそぎ借りるのですから、この土地の不毛もしばらくすればもとに戻るでしょう。それが見られないのは残念です。念のため彼らの遺体を燃やしたほうがいいのでしょうが、旅立つわたくしにはそれができません」
「待て!」
「ライラ、スリプにはよく言っておきました。あとをよろしくお願いします。それでは皆さん、ごきげんよう」
シャノンの体が光に包まれたかと思うと、たくさんの細かい光の粒になり、それは背後の円形の模様の真ん中へと吸い込まれていった。すべての光の粒が吸い込まれると、円形の模様が一瞬強く光り、それからゆっくりと消えていった。星空がはっきりと見え、広い荒地に冷たく乾いた風が吹くと、ずっと感じていた不快な感覚が消えていることに気づいた。
俺は、俺たちは呆然として、その場に佇んでいた。術の気配が消えたことに気づいたノアが来るまで、動くことができなかった。




