歌、鱗、泡と消えて 3
暖炉の火を消し、書置きをして、夜が明ける前にリートの家を出た。一応、家の鍵と思われるもので鍵をかけ、扉の郵便受けから鍵を中に戻しておく。はじめから朝食の世話になる前に発つ予定だったが、朝の突き刺すような寒さは心臓にすら届きそうだった。当分の間、コートのポケットから手も出せないし、マフラーから鼻も出したくなかった。何故ローブを羽織ってこなかったのか。
あれから雨雲は去り、これから日の昇る、晴れた薄い水色の空は高かった。町全体が青白く、冷たさに時間が止まっているようだった。
このまま歩いて帰ったとして、勤務の時間に間に合うだろうか。ものすごい寒いだろうが、町の外れにある馬小屋から馬を借りてさっさと最本部に帰ろう。体も洗いたいし、着替えもしたい。このままだとまた寝てしまいそうだ。
俺は馬の背で眠気と寒さに負けないよう意識を保ちながら、なんとかしてアレリアの最本部へと帰り着いた。時刻は朝の八時半を過ぎたところだった。これからバスルームにこもっても充分に間に合う。玄関ホールでコートを預けた使用人に湯を溜めるよう伝え、一旦執務室へと入る。リートの家のことを思い出すと、この邸の壁の色がまぶしく、天井の高さが異様に感じられた。追加されている書類にざっと目を通し、サインをするだけのものか、一考するものかを選り分ける。今回はそれほど多くなかったのですぐに終わった。あとは体を温めて着替えたあとにやることにしよう。
何気なく目がいったので、机の引き出しを開けた。掌ひとつ分ほどの大きさの黄緑色の手帳がそこにあり、おもむろに取り出す。頁をめくるが、何度見ても読めない文字がそこにはびっしりと書かれていた。
この手帳は、彼女の物だ。
彼女がいなくなって、すぐに紅い髪の男から手紙が来た。俺は急いで彼女が世話になっていた家に向かった。
彼女が使っていた部屋に入った時、さっきまで誰かがいて、そして帰ってくるような感覚に陥った。椅子の上に置かれたトートバッグも、机の上に散らばっている筆記用具も、使われていたベッドも、そのままの状態でそこにあった。ただ、俺が渡したはずの壊れた懐中時計だけが見つからなかった。
俺は机の上に置かれていた彼女の手帳を、紅い髪の男に断って、持って帰ることにした。何か、彼女がいたことの証がほしかった。幻でなかったことを確信したかった。
この文字が読めたら、どんなによかっただろう。しかし読めたとしても、それはそれで勇気の要ることだった。読めないからこそ手元に置いておけるのかもしれない。
正面に見据えた部屋の扉が唐突に開いた。俺が顔を上げると、そこにはエマが立っていた。
「あ、お、おはようございます。すみません、いるとは思わなくて」
ノックもされずに入ってこられ、ふつう驚くのは室内にいるほうなのだろうが、この場合はエマのほうが驚いていた。俺は手帳を引き出しに仕舞った。
「いや、別にだいじょうぶだ。おはよう」
「また朝帰りですか? 仮にも司令官なんですから、ほどほどにしてください。体にも悪いです」
「ははっ、エマは俺の姉ちゃんみたいだな」
「やめてください。わたし、そんな年上じゃないです」
エマは目を皿にして睨んでくる。どことなく彼女を思い出させた。
「で、何か用か?」
「え、あ、しょ、書類を持って、来たはずなんですけど」
「持ってないな」
意地悪な笑みを浮かべつつ、机の前に行って端にすこし腰かける。
「……すみません。忘れました」
彼女にこれほど間抜けな一面があるとは、なんだか意外だった。まあ、彼女と話すようになって半年も経っておらず、どれほど彼女を知っているかはわからないが。
「そういや最近『お遣い』はエマがしてるな。ククラから頼まれたのか?」
総務課の連中は俺に書類を持ってくることを『お遣い』と称し、一番の後輩にその役目を与えている。一番の後輩は先月総務課に配属されたククラであり、いまは彼女がその『お遣い』担当であった。
「え、いえ、そういうわけではないですけど……。なんていうか、わたしが勝手にやってることなので」
ククラよりも先輩のエマのほうが気を遣ってしまっているのか。
「あ、そうだ。ククラさん、すっかり体がよくなったみたいで、今日はもう来てますよ」
「仕事熱心だな。じゃあ、昨日はやっぱり休んでたのか」
「はい」
一応は俺の言ったことを聞いたようだ。余程体調が悪かったとみえる。そういえばククラはどうして体の調子が悪かったのだろうか。彼女はほかの体調不良になった隊員たちと違い、書斎には長く入っていないはずだ。それとも別の理由があるのだろうか。
「なあ、ククラって、どうして警備隊に入ったんだと思う?」
なんとなく訊いてみると、エマは困ったように眉を寄せた。
「前にも言いましたけど、ククラさん、あんまり自分のこと話してくれないので、わからないんです。あ、でも、すこし前に叔母様が亡くなったみたいで、その時は落ち込んでいました」
できることなら、何故俺を毛嫌いするのかも聞いてみたいところだ。
「ふーん。じゃあ、エマは?」
「えっ、わたしですか?」
まさか自分に話が振られるとは思わなかったのか、彼女は慌てだした。
「別に無理にとは言わないけど」
別段聞きたいことでもなかったので無理強いはしなかった。しかしエマは真面目にこう言った。
「それは、もちろん、みなさんの安全を守るためです」
模範的回答だが、面接でもないのでそれだけで合否の合の判子を押すわけにはいかない。俺がじっと見ていると、彼女はきまりが悪そうに視線を逸らした。
「えっと、はい。お察しの通り、それは建前で、安定した収入を得られるから……です」
「それから?」
「もう、なんでそんなふうに意地悪するんですか!」
エマは困りながらも必死だった。怒っているというよりは勘弁してほしいという感じだ。
「いや、女が警備隊になるのは男よりも狭き門だし、男を探すにしても面倒な職場かと思って」
ミネルバの警備隊に所属している獣人の女のニジェットは、そんなことはまったくお構いなしだろう。サジタリスもしかり。第一、気概が違う。
「そんな、相手を探すために入ったんじゃありません。わたしだって色々考えてるんです。そりゃ、確かに結婚もしたいです。ええ、したいです。でもわたしはそれ以前にひとりで生きていかなきゃいけなかったんです。それはもう必死で仕事を探しました。警備隊に入れたのは本当に運がよかったんです」
言葉はあとになるほど平静さを取り戻していき、彼女は冷静を通りこして、すこし悲しそうに視線を落とした。
「周りはみんな男のひとだし、何より視線が怖かったですけど、わたしもわたしの生活がかかってましたから、引きませんでした。幸い友人から剣を習っていたので、心得はありましたし、試験には通りました。そういったことで男のひとと見劣りしなかったのは有り難かったです」
「いい友人だな」
「はい」
彼女は柔らかく笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「あの、司令官、昨日はすみませんでした」
「何が?」
エマに謝られるようなことが何かあっただろうか。昨日は昼前まで仮眠を取って、昼に領主邸に行き、キミシアと書斎を調べて、そのあとメイドの死体を発見。夕方になって最本部に戻り、ムティラフが来て事件の相談をし、夜はライラと酒場で昔話に盛り上がった。そのあと湖から上がってきたエリジュに言い訳をされ、リートの家に行き、彼からゲルメジ岩礁事件の真相を聞いた。軽くさらってみただけでも、実に濃い一日だったことがわかる。あまりの忙しさに、俺の体はふたつに分かれていないだろうか。
「あの、スミスさんのことで……」
「スミス? ああ、あれか」
意訳で尻軽女とエマを罵倒したスミスのことか。そんなこともあったが、すっかり忘れていた。ほかの出来事の内容に強い印象を持ってしまったせいだろう。
「わたしのせいで、司令官にも、あの、ご迷惑を……」
「いや、俺のほうこそ引き留めて悪かった。スミスのことは気にしないほうがいい。女を貶めて面白がる奴はどこにでもいる」
「……女がひとりで生きていくのは、やはり難しいのでしょうか」
エマは独り言のように言った。声色は低い。
「まあ、ふつうに考えたら難しいかもな。そういう選択肢自体があるとわかっている奴も少ないだろうし」
「スミスさんも、きっとそう思っていたからああいうふうに言ったんですよね」
「なんだ。必死になってこの仕事に就いたのに、自信がなくなったのか?」
そう指摘すると、彼女は寂しそうに笑った。
「なくなりますよ。スミスさんにああ言われた時、悔しかったですけど、純粋に反論できなかったんです。司令官の言うように、わたしは無意識に相手を探しているのかもしれません。できることなら、養ってもらいたいですから」
彼女はあとのほうになるほど声が小さくなっていき、悲しそうに目を細めた。
なるほど。話が飛躍している気もするが、スミスの言葉を完全には否定できない心境でもあるということか。しかしここまで正直に話されると、なんというか。
「そういうこと、あんまり男の前で言わないほうがいいぞ」
「え、どうしてですか」
「自分に養ってほしいのかなって、聞いた男が勘違いするから」
そう言うと彼女は目に見えて赤くなり、すみません、と謝って、慌てて部屋から出て行った。俺は忠告のつもりで言ったが、結果的にからかってしまったかもしれない。おかしくて自然と笑みがこぼれる。
さて、そろそろバスタブに湯が溜まった頃だろうか。俺は大きくあくびをしてから、二階へ上がる階段へと向かった。




