歌、鱗、泡と消えて 2
外に出ると案の定、小雨が降っていた。街灯が照らす場所に白い線が何本も飛び込んでいく。吐く息は白く、マフラーに口元を埋めた。寒いが夜は落ち着く。
ライラと別れ、夜のミネルバの町を歩いた。軒先の明かりは消え、住人の就寝を暗に伝えている。雨戸や鎧戸が閉まっていたり、格子のはまった窓の奥でカーテンが引かれていたりと、わずかな光さえ認められない。冷たい雨粒が頬に当たり、最本部の温かい寝室が恋しくなった。
思えばこの二ヶ月の間、ニエジム領は混乱の極みだった。魔物の度重なる襲来や、昼間の盗人の騒ぎ、領主令嬢の誘拐に傷害事件、誘拐事件に伴う隊員の不祥事は逮捕にまで至った。不祥事を起こしたミネルバの一隊長については、職務怠慢及び書類偽造などの罪で降格処分とし、いまは隣領の警備隊でしごかれている。同じ領地にいては態度が改まらないと判断したので、隣領の領主経由でそちらの警備隊に預けることにした。これで根性が真っ直ぐになればいいのだが、生まれ持った気質というものは鼻っ柱を折ったところでそうそう変わるものではない。
濡れた石畳を進み、やがて湖に面した公園に着いた。街灯が照らす場所以外、暗くてよくは見えないが不気味には思えない。湖のほうから小波の寄せる音がした。すこしぬかるんできた地面を歩き、鉄柵のほうへと近寄る。対岸のアレリアの町明かりがぽつりぽつりと見えた。
すこし離れたところで大きな水音がした。怪訝に思い、注意深く暗い水面を見ていると、ぼんやりと黒い影が見えてきた。それはひとのようにも見え、ゆっくりと鉄柵に近づいてひょいと鉄柵を登り、あっという間に柵を越えた。俺から十五歩ほど向こうに下り立ち、濡れた長い髪を手慣れたように絞っている。
こんな寒い季節に水泳だろうか。とても正気の沙汰とは思えないと背中に悪寒が走り、体が震えた。と、向こうが動きを止め、目を凝らしているのかこちらに顔を向けていた。俺は迷ったがくるりとそれに背中を向けて、いままで見たことをなかったことにした。どう考えても面倒なことに違いない。面倒なことは領主邸の事件だけで充分だった。
「あのぉ」
奇妙なことに、後ろから聞こえてきた声は若い娘のそれだった。俺はそれでも振り返らず、足も止めない。俺の耳には幻の声が聞こえているだけで、実際は誰もいないのだと心を説得し続ける。
「すみません……あの……すみません……止まっていただけないでしょうか……」
申し訳なさそうな気弱な声色に、俺は観念して立ち止まった。ゆっくりと振り返る。
「ああ、よかった。止まってくれた」
相手はすでに俺の三歩後ろにまで来ていた。歳は十代後半くらいに見える少女で、薄暗くても肌が褐色であることはわかり、髪の色は薄かった。
「あの、いま絶対、わたしのこと、怪しい、と思ってませんか? 思ってますよね?」
俺は半眼で少女を見ながら素直に頷いた。少女は目を細め、泣きそうな顔をした。
「あの、すみません、違うんです。これには深いわけが、あるんです。だから、あの」
これはどう返したらいいのだろう。怪しい少女が自分の弁明に必死になり、それにしては言葉が足りずに四苦八苦している。これでは俺がこの少女をいじめているみたいだ。それとも新手の詐欺か何かだろうか。俺は少女に話しかけた。
「もしそうだったとしてもさ。こうして引き留めないほうがよかったんじゃない?」
「え、あの、と言いますと?」
「俺がさっさとここからいなくなれば、キミがこうして必死に弁解する必要もなかったし、キミは正体不明の謎の生き物として、町で数ヶ月、噂の種になるだけで済んだんだよ。だけどこうして俺を引き留めちゃったものだから、自分の正体を教えてしまうはめになった」
「えっ、あの、なんのことでしょうか」
少女は声を上ずらせた。嘘がつけないようだ。
「じゃあ手始めに、キミが湖から上がってきたことを材料に考えよう。俺を含めて、大抵のひとはこんな寒い季節に水の中に入って泳ごうとは思わない。こんな季節に湖に落ちたとして、水の冷たさに平然としていられるほどの耐性を大抵の種族は持ち合わせていないわけだ。こんな、服も髪もびしょ濡れなのに指先のひとつも震えていないとなると、これはもう人間じゃない。水に親しいか、寒さに強い種族ということになる」
もし顔色までわかったのなら、恐らく青くなっていたはずだ。だが確認できたのは、不安そうに見上げてくる目と、その開き具合くらいだった。少女を追い詰めることに罪悪感がないわけでもない。
「次に、近年噂されている事柄についてだ。ミネルバには魔族や人魚が出たと噂が流れていた。魔族は寒さにことさら強いわけでもない。となるとキミは、人魚ということになる。人魚なら湖で泳いでいてもなんの疑問もないし、こんな寒い中泳ぐのも平気だろう。反論があるなら受け付けるけど」
少女は胸の前で抱き締めていた腕をガタガタと震えさせて、体全体で驚いていた。
「おーい、エリジュー」
すぐ近くで男の声がした。それから足音が段々とはっきりして、姿が見えはじめた。
「おまえ、ひとを呼び止めて言い訳するのやめろって言ったろー。変な噂されるだけなんだからほっとけばいいんだ。って司令官じゃないですか。え、ほんとに?」
少女の兄である男が俺の正体に気づき、数歩先で驚きのあまり仰け反った。
「よお、リート。妹の監督は大変だな」
「まったく、本当ですよ。こっちだってくたくたなのに、ほぼ毎日出たがるんですから」
リートはやれやれと首を振って、呆れながら妹を見た。昼間に見たら、きっと髪の色も目の色も肌の色も、兄妹一緒なのがはっきりとわかるのだろうと思った。
「ほら、エリジュ、もう帰ろう。父さんも心配しすぎて、今日はリビングで船こいじゃってるよ。起こしてベッドで寝てもらわないと」
「ごめんなさい」
エリジュはしょんぼりと俯いた。
「よろしい。司令官もすみません。こいつに付き合わせちゃって」
「いや、どっちかっつーと、俺のほうが付き合わせたかもしれないな」
「いえ、どっちにしてもエリジュが悪いですし。司令官はこれから帰るんですか? 大変じゃないですか?」
「まあ、大変だけど仕方ない」
「なんならうちに泊まってきます? 近いですよ。エリジュのことでお礼もしたかったですし」
彼の妹もまた、誘拐事件の被害者だった。直接俺が助けたわけではないが、それのお礼がしたいのだろう。小雨に打たれ続けるのもつらくなってきていたので、俺は遠慮なくリートの厚意を受け取った。
*
暖炉のある暖かいリビングにいた、寝ぼけ眼の彼らの父に挨拶をした。ひとのよさそうな彼らの父親は、夜の訪問にもかかわらず俺を歓迎し、自分はもう休むがゆっくりしていって明日帰ってください、と言って階段を上がっていった。
リートの家はあの町外れにある警備隊の本部より、遥かに広さが劣っていた。しかし天井の低さも、家具の年期も、いたるところに置かれた雑貨でさえ、居心地のよさに一役買っていた。安心感がそこには満ちていた。
ごくふつうの家庭なので、余ったベッドや部屋がないのは承知していた。俺がリビングのソファーで寝ることを申し出ると、リートは自分の部屋を使えばいいと言って反対した。暖炉をずっと焚かせてもらうことを前提にした俺の巧みな説得で、彼はしぶしぶ折れた。それから兄妹は手分けして、俺用の毛布や枕や寝間着まで持ってきた。暖炉と毛布さえあればなんとかなる。
すこししてからエリジュが就寝の挨拶に来た。リートが返事をすると、彼女は目蓋を重たそうにしながら階段を上がっていった。
「いつもあんなふうにしてくれてたら、困らないんだけどなぁ」
リートは諦めたようにつぶやいた。
「話した感じでは、結構素直そうなコじゃないか」
「ええ、まあ、そうだと言えばそうなんですけど、夜に外に出ることに関しては譲ってくれないんですよ。俺が帰ってくる時間、十中八九、家にいませんから」
「それはご苦労なことで」
エリジュの兄であることはものすごく大変なことのようだ。弟でよかったと思わないでもない。
「あ、そういえばマドレーヌ作ったんですよ。食べます?」
色々と明日の用意があるのか、リートはキッチンで何やら用意をしている。
「いや、腹はいっぱいだからいいよ。どっちかというと、あったかい飲み物のほうがいいな」
うっかりそう言うと、彼は早速何かを作って持ってきた。カップにやや透明な液体が入っていて、そこから湯気がふわふわと出ている。
「ゆずジャムをお湯で溶かしただけですけど、美味しいですよ」
なるほど、甘党の俺の舌にはやや不十分な甘さだが、一日の締めくくりにはさっぱりとしていて合っている。ここでココアか何かを飲んでしまったら、俺の場合は目がらんらんとしそうだ。
「好きなのか? お菓子作り」
つと訊くと、リートは苦笑いを浮かべた。
「んー、妹に何かとせがまれて、それで上手くなった感じです」
彼が母親の代わりをしているのか。リートの家はほかの家から離れているため、夜にお菓子を作っても物音を気にしないで伸び伸びとできるのだろう。
「俺の母親、結構前に死んじゃったんです。何も知らない俺に本当の名前を呼ばせて、目の前で泡になって消えました」
さらりと言われてしまった。リートは話題のひとつとして口にしているようで、悲しさや惨めさは微塵もなかった。
人魚は確かひとりずつ本当の名前を持っていて、その名前を呼ぶ時は自分が死ぬ時だった。ひとから呼ばれても死んでしまうので、生涯、家族であっても教えないのだという。
「母さんが苦しんでいたのはわかってましたけど、幼い俺にとってはものすごいショックでしたよ。でもきっと、それ以上に母さんはつらかったってことなんですかね。母さんが死んだあと、父さんは魂が抜けちゃって。料理もいまいちだったんで仕方ないから俺がやりはじめたんです。そしたらまあ、こんな感じに。別に好きなわけじゃないんですけど、自分で美味い料理が作れるのは嬉しいですね」
「そういや、料理上手な奴に憧れるって、今日知り合いが言ってたよ」
「どこか行ってたんですか?」
「酒場。幼馴染みと飲んでた。いや、正確には食べてた、か。つまみというより、軽食に近かったな、あれは」
話しながら、食べ応えのある大きなソーセージのホットサンドを思い出した。あの店の常連になってもいいほどの味だった。
「いいなー。俺も飲みたい。でもご覧の通り、あのふたりがいるとそうもいかなくて」
「特に妹な」
「ええ、はい、そうです。その通り」
リートは渋い顔をして溜め息をついた。
「俺、将来は所帯を持ちたいんで、いまからあのふたりが心配です」
「リートならいい相手が来そうだけどな」
俺は深く考えずに返した。
「どうですかね。家族のことも説明しないといけないし」
「ここじゃなきゃだいじょうぶさ」
「やっぱりここ、出なきゃ無理ですよね」
「確か、領主から止められてるんだったな。町から出て行くの」
「やっぱり知ってましたか」
「もちろん。おまえをミネルバに移した時、あとから抗議されたからな」
たかだかアレリアの一隊員であるリートをミネルバに異動させた時、領主から猛烈な抗議書が届いた。自分の知人を勝手に異動させるな、といった内容だったと記憶している。領主は警備隊に対してなんの権限もないので、疑問に思いつつも机のどこかに放ったのを覚えている。
「変だなとは思った。領主であるミドエとおまえが知人だなんて、思いもしなかったからな」
領主は、リートとその家族の正体を知っていて、それでも抗議したというのだろうか。それはおかしい。領主は、人間以外の種族を追い出そう、という他種排斥論者の筆頭なのだ。
「まあ、知人ではありますかね。友人ではないですけど」
「その理由、よければ話してくれないか」
「んー、どうしよう。止められてるんですよね。でも、司令官には知っておいてほしいかもな」
リートは考えるように首を傾げていたが、しばらくすると決心したのか口を開いた。
「司令官、ゲルメジ岩礁の事件って知ってます?」
「……知ってるが」
驚いた。十五年前の、俺とも深く関わっている事件の名前をリートの口から聞くとは、今日は滅多にない特別な日のようだ。
「あの事件、母さんが原因なんです。母さんが歌を歌ったから、近くの船が座礁して、結局沈んでしまった。死者と行方不明者が百人近く出てしまって、そのせいで近隣の領地で人魚狩りの動きが出てしまったんです。どういった経緯でそうなったかはわからないんですけど、領主のミドエが保護するって母さんに言ってきたみたいで、それから俺たちはミネルバに住みはじめたんです。だから一応、領主は俺たちの恩人なんです」
俺は返す言葉を喉の奥に止めたまま、作った握り拳を見ていた。動悸が激しくなり、頭の中がガンガンと鳴った。
「……悪い、リート。そろそろ寝るよ」
「あ、すみません。じゃあ、俺も上がります。おやすみなさい」
特に怪しく思った様子もなく、彼はすぐにリビングから出て行った。階段を上がる音を最後まで聞き届け、俺はゆっくりと息を吐く。暖炉から木片のはぜる音が聞こえた。まさかこんなところで、このような話を聞くことになるとは……。俺は、運命に弄ばれていることを自覚せざるを得なかった。
十五年前、俺の父親は、ほかならぬその沈没した船に乗っていた。
その数週間後、俺のいた森が、家が燃やされた。
ミドエは絶対に、ゲルメジ岩礁の事件に関わっている。そうでなければあの領主が他人に親切を働くはずがない。これらがつながっているのは誰が見ても明らかだ。
胸の奥にある、ほの暗い感情がふつふつと湧いた。
いますぐにでも、ミドエの喉元をナイフで切り裂いてやりたかった。




