名もなき男の死 4
この邸でまともな挨拶をされるとは、なんとも感動する。白みがかった薄緑色のロングドレスがキミシアによく似合っていた。
「そうですね。まあまあといったところです」
こんなふうにすこし失礼に返しても、キミシアはそれを悪くは取らず、むしろくすくすと笑った。彼女の金の髪が揺れる。
「昨日は大変だったそうですね。わたくしも、昨日は怖くてあまり眠れませんでしたわ」
「それにしてはお元気そうですね。事件のあった三階に足を運ばれるとは」
「意地悪はよしてくださいませ。はしたないとお思いなのでしょう? そうです。わたくし、はしたない娘なのです。怖いのに、事件のあった部屋を覗いてみたくて今朝もここに来てしまったのですわ」
書斎の扉の前にいる隊員のほうを見ると、呆れたような、苦笑いのような顔をして彼は頷いた。本当に来たようだ。『どこか』から来る謎の多い〈メイト〉のことに興味を持つ娘なのだから、こういったことに興味を持つのも頷ける。
「ところで、先程メイド長と話していたようですが、どうなさったのですか?」
キミシアが他意なく訊いてくる。
「ああ、若いメイドたちに訊きたいことがあったのですが、止められてしまったのですよ。仕事の邪魔をしないでくれと」
「レード婦人はお父様から一目置かれております。仕事に誇りを持っているのです。すこし頑固で厳しいですが、いいひとですわ」
領主の娘の評価は上々のようだ。
「ひとつ伺いますが、キミシア嬢は、お父上が人間以外の他種族を邸に寄せつけないために何か対策をしているとか、そのようなことを聞いていますか?」
「はあ、対策、と申しますと?」
「まあ、例えばですが、他種族を追い払える道具を置いている、とか」
首を傾げていたキミシアは、すこししてから何かを思い出したように頷いた。
「ええ、はい、そのようなことなら聞いたことがありますわ。なんでも、とある方からまじないの道具を買って、書斎に置いたとお父様がおっしゃってました。魔族などの力の強い種族が部屋に入ると、立ちどころに追い払えるものを買ったとも」
聞いていてすこし肝が冷えたが、こうしてなんともないということは命拾いをしたということか。そうまでして他種族が疎ましいのなら邸全体にそれを置けばいいだろうに、余程の高額か手に入りにくいのだろう。先程隊員から聞いた呪いの話の印象が薄れてしまった。隊員の言う呪いと、領主のまじないの道具につながりがあるのかはわからないが、昨日入って平気なら今日入っても平気だろうと俺は腹を括った。
「あ、それからわたくし、昨日、三階で画廊を歩いていた時に物音を聞きましたわ。ちょうど、この書斎の扉の前あたりで」
「三階には立ち入らぬよう、お父上から言われていたのでは?」
キミシアはおかしそうに笑う。懲りていないようだ。
「言われてはおりましたわ。でもわたくし、返事をしていませんの。お父様が一方的におっしゃっただけです。それに、お父様に知られなければ問題ありません。メイドたちには何度も止められましたが、要は気づかれなければいいのです」
勇ましく眉を上げ、自信満々に俺を見上げてくる。じゃじゃ馬どころか、随分と機転の利いたこたえだ。いい線を行っている。
「それで、そのあとはどうしたんです?」
「わたくし、さすがにひとりでは部屋の中を覗く勇気がありませんでしたので、すぐに部屋に帰りました。お父様も下の階にいましたし、お母様も寝室を二階に移されていたので、死んだ男の方が何かしていたのでしょうか」
キミシアは眉を寄せた。
「男のことは知っていたのですか?」
「いいえ、知りませんでしたわ。使用人たちの様子がいつもと違うような感じはしていたのですが……。物取りか何かでしょうか」
「ちなみに物音がしたのは何時頃のことですか?」
「部屋に戻ったのが、確か、夜の七時前くらいでしたわ」
俺が死体を見つけたのが夜の八時前だったはずだから、だいたい一時間前。死体の体温からいえば、犯行時刻かもしれない。
「わたくし、お役に立てましたかしら?」
感謝されるのを待っているキミシアに、俺は慇懃に頭を下げる。
「ええ、もちろんです。キミシア嬢に心からの謝意を表します」
キミシアは満面の笑みを浮かべた。にもかかわらず彼女は満足していなかった。
「司令官様、もしかしてこれから書斎をお調べになりますの?」
「……まさかとは思いますが、見たいんですか?」
瞳が宝石のようにキラキラと輝きだし、彼女は何度も頷いた。
「今度こそお父上に怒られますよ。かくいう私も、うら若き女性にそのような場所を見せようとは思いません」
「一生のお願いですわ」
「それ、この間使ったじゃないですか」
「〈メイト〉のことは本当に感謝しています。ですが、どうしてもこの胸の高鳴りを止められないのです」
事件現場に恋するとは、なかなかに度胸のある娘だ。本当にまだ十三歳なのだろうか。俺はしばらく道徳的に考えたあと、あることを思いつき、その道徳的考えを脇へ押しやった。
「わかりました。いいでしょう」
「まあ!」
「ただし、この扉から一歩も中に入ってはいけません。それなら許可します」
歓喜の浮かんだ顔が一瞬にして曇った。が、彼女はやがてそれを前向きに捉え、了承した。
「見せてもらえるだけ有り難いですもの。それで構いませんわ」
気合の入り方が違う。領主の娘にしておくにはもったいないと思わせるほど、彼女は意欲的だった。またそれが、父の頭を悩ませる種であることも、透けて見えるようだった。
気持ちを切り替え、俺は早速書斎への扉を開けた。かすかに鼻をつくような臭いがして、そういえばそうだったと思い出す。こぼれたオイルの臭いだ。オイルランプが倒れていたであろうあたりの絨毯に屈み込むと、夜のうちははっきりと見えなかったオイルの染みを確認できた。臭いがそこにこびりついている。現場保存といえどもオイルをそのままにしておけば大惨事になりかねないので、これはあとで染み抜きか、あるいは絨毯ごと変えるよう言っておいたほうがいいかもしれない。
間取りからすれば、大きさは一階のホールの約半分もあり、部屋としてかなりの大きさだ。左右の壁際に本棚が置かれ、ソファーとローテーブルが手前の左に。奥に大きな執務机が置かれ、そのまた向こうに大きな窓がふたつあり、カーテンの開けられた室内はかなり明るかった。なるほど換気がされたと言っていたが、使用人は窓を開けたままにしていた。オイルは今朝のほうが臭いがきつかったはずだ。開いている窓から冷たい空気が勢いよく入り込み、玄関先で使用人にローブや手袋を預けなければよかったと思った。オイルの臭いのこともあるので、自分がいる間は開けておこうと苦渋の決断をした。もしかしなくても、この臭いのせいで不調を訴える者が出たのではないかと思った。
一見しただけではチェストとは思えないような家具が窓の近くの壁際に置いてあった。引き出しなどは見当たらず、真ん中に抉れた空間があるだけだ。こんな微妙な空間に置けるものなど、小さな花瓶しか思い当たらない。
昨日も思ったが、部屋の大きさに反して、家具がそれほど置かれていなかった。絨毯は黄色がかった白、壁はタペストリーが飾られ全体的に枯れ草色だ。彫り物のされた家具は焦げ茶色で、塗られたニスで艶が出ている。部屋の色味がかなり地味で、最本部のほうがよっぽど色彩豊かだった。ミドエの性格なら厳格よりも豪華さを選ぶはずだが、代々受け継いできた邸である以上、いじるのも難しいのかもしれない。地方司令官と違い、領主は大抵の場合、世襲制だからだ。実を言えば領主の書斎に入るのは昨晩が初めてで、邸の意外な部分を知った気分になった。
机の前にできた血痕を調べる。思っていたよりも広がりはなく、飛沫もほとんどなさそうだった。血痕の大きさは、うつ伏せになった体が上にあったとして、それで隠れてしまうくらいだろうか。次に、部屋に入った時から気になっていたローテーブルの上に目を向ける。ワインボトルとグラスがひとつずつ置かれていた。
「そのワインもグラスも、お父様のものですわ」
扉から身を乗り出さんばかりに立っているキミシアが言った。彼女はこの領主邸の住人として多くの情報を持っており、気づいたことがあれば何かと口を出したくなるだろうと俺は踏んでいた。
「間違いはありませんか?」
「グラスは特注で作らせたものです。ワインはきっと、ワインセラーの中のひとつですわ。銘柄はなんですの?」
「イェルチェと書いてありますね」
「その銘柄でしたら、確かにありましたわ」
「ワインの銘柄も覚えているのですか? まさか全部?」
驚愕の目を向けると、キミシアはまさかというように首を横に振った。
「お父様が前にいいものを手に入れたと仰っていて、それがそのワインだったのです」
ということは、この銘柄の当たり年のワインだったということか。栓も開けられ、これからもしばらく放置されることを思うと、もったいない気もする。もうこのワインは飲めないだろう。
オリーブ色のワインボトルの中身は、半分以上が残っていた。しかしグラスのほうは空で、底のほうにわずかばかりの赤い色があるだけだ。華奢な脚に、滑らかな丸みを帯びた本体部分、口をつけるところのガラスの厚さは尋常でないほど薄い。ほんのすこし乱暴に扱っただけで割れてしまうだろう。よく見ると、グラスの台の部分がすこし欠けていた。
ワインボトルもグラスも、匂いや色に変わったところは認められない。グラスに対して何か違和感を覚えたのだがそれがなんなのかわからず、記憶を引っ張り出そうと腕を組んで室内を歩き出す。
念のためほかのランプも確かめたが、特に気になるところはなく、昨晩置いたオイルランプも同じ場所に置いてあった。表面の一部がオイルで濡れていたはずだが、拭かれたのか乾いていた。
急に、甲高い悲鳴が遠くから聞こえた。
何事かと驚き、書斎から画廊へと出ると、先程話しかけたメイドたちが混乱してひとりがこちらに叫びながら駆けてきた。
「し、死んでるっ!」
俺は画廊を駆け、昨晩使った細い階段のある邸の左側へと向かった。階段の前に着いた時、すぐそばの部屋の入口に尻餅をついたメイドがふたりいて、わなわなと震えて泣いていた。
部屋は物置だったようで布のかけられた椅子や机が置かれていたが、その手前にメイドがひとりうつ伏せになって倒れていた。入口のメイドたちをよけて中に入り、体を仰向けにした。
目は大きく開かれ、口は歪み、口元に小さな泡を作って、死んでいた。
苦悶の表情が、まるで悪魔を見ているようだった。




