鷹は静観しない 3
私が彼の妹の誘拐を聞かされたのは、昨日の、朝食の用意をする前の時間だった。
一昨日の夜八時の時点で彼の妹は出かけてしまっており、リートはいつものことだと思っていた。それが夜の九時を過ぎても帰らない。ミネルバの住人なら遅くても夜の九時には眠りについている。彼は眠気に負けて寝たあと、夜中に父親に起こされ、そこで妹がまだ帰っていないことを知った。妹は夜が明けても帰ってこなかった。それからすぐに本部へと来たようだ。本部に駆け込んできた彼の顔は血の気が引いていた。
念のために彼の家の周辺を見て回ってエリジュがいないことを確認し、それから本部へと帰ってアサギとサジタリスにも事情を伝えた。正午にもう一度リートの家を訪ねたがやはりエリジュは帰ってきていなかった。私はリートに家で待機するよう命じて、それからニジェットの本部へと向かい、彼女の部下を借りて今回のことを認めた手紙を各地区の隊長宛に送った。
メレップとルイン、両家の娘の失踪のことを改めて誘拐事件と考えていること。今回のエリジュのこともそれに続く事件であること。三人の共通点である事柄や脅迫状のこと。厳重警戒をすべきであることも書き綴った。警備隊の地方司令官であるギダにも同じ内容の手紙を速達で送った。
その時ニジェットと話をしたが、メレップ家の娘がとある少女と口論をしていたということをすでに知っていた。彼女も独自に誘拐事件のことを調べていたようだ。
見回りはアサギとサジタリスに任せ、第二地区にあるリートの家の周辺で聞き込みをしながら情報を集めた。しかし残念ながら目ぼしい情報は得られなかった。
そして何もできないまま次の日になってしまった。リートは内心気が気でないだろう。どうしたものかと考えが行き詰まる。いつもより早めの朝の見回りを終えて本部に帰ると、ギダが待っていた。この時ばかりは彼の身軽さを褒め称える気さえ起こった。
「大変そうだから来てやったぞ」
応接間の本棚の近くにいたギダは偉ぶるというよりも、挨拶がてら立ち寄ってみたというような雰囲気だ。私は近づきながら話を切り出す。
「行き詰った。情報がまったくないんだ」
「まあ、そうだろうな。夜のうちの犯行なら、目撃情報はそうそう出てこない。ミネルバの奴らは寝るのが早いからなー」
「それが当たり前なんだから仕方ないだろう。夜通し舞踏会をするような酔狂な考えの持ち主は、この町にはいない」
「別に馬鹿にしたわけじゃない。事実を言っただけだ。それだけに手こずってるわけでもある」
ギダは腕を組むと眉をひそめた。彼にソファーに座るよう促し、話を続ける。
「そうだ。あれ、調べてくれたか? 橋の通行記録」
思い出したようにギダが言った。私はそのことをすっかり忘れていた。
「悪い。まだ行ってないんだ」
ギダは一瞬眉間のしわを深くしたが、私の言動を咎めたわけではないらしい。
「まぁ、どのみち記録なんて載ってないだろ。思ったんだが、もしかしたら橋の無断使用と今回のことはつながってるんじゃないか? つまり……」
ギダはそれまで組んでいた腕をほどいた。私は言葉を継ぐように思いつきを口にした。
「誘拐された少女たちは、橋を使ってアレリアに運ばれたっていうのか?」
「アレリアじゃないかもしれないが、少なくともミネルバから運ばれたことは間違いないと思う。ミネルバから攫ってるならそう考えるのがふつうだろ?」
我ながら突拍子もないことを口にしてしまったが、徐々に納得しはじめる。つい昨日、ほかの隊に手紙で誘拐事件のことを伝えたのだから、もし怪しいことや情報があれば上がってきているはずだった。ミネルバは決して大きい町ではない。それなのに上がってこないということは、ミネルバにはもう少女たちがいないということなのかもしれない。
「やはり君の言う通り、橋の通行記録を調べたほうがいいかもしれない……」
第二地区の警備隊は湖に架かる橋の管理をしていることもあり、本部が湖の橋に近いところに建っている。橋が夜中に使用されているのを隊員が見ているかもしれないし、目撃情報が集まっているかもしれない。
「俺のほうも色々調べとく。橋のことはサーシャにも頼んだことがあったんだが、何か聞いてないか?」
「いや、色々あったからあまり話せてないんだ」
「じゃあ、時間がある時に訊くといい。何か掴んでるかもしれない」
それからすこし話をしたあと、ギダは帰っていった。この家と家の周辺のことを訊くのを忘れてしまったが、誘拐事件が解決するまで後回しにするしかないだろう。
何はともあれ、マシュウの隊の本部に行く理由ができてしまった。気が進まないなどと言ってられない。リートの妹の安否が懸かっているのだ。私は気を引き締め、午後になる前に第二地区の本部を訪ねた。結果的にマシュウは留守で、すこしばかり肩の力が抜けた。
応対した隊員が用件を訊いてきたので、橋の通行記録を見せてほしい旨を伝えると、すんなり中に案内された。応接間のソファーに座らずに待っていると、隊員が大きめの紙の束をふたつ持ってきた。どちらも紐で仮止めをされている。
私はその紙の束を受け取ると、ソファーに腰を下ろして紙をめくった。どうやら一年ごとに記録をまとめているようで、表紙をめくった次のページには今年のはじめの月の記録が載っていた。ミネルバからアレリアへ行く時の記録簿には、左から、日付、時間、名前、備考の順番で書かれている。
ふと先月の頁を見た時、自分の名前が載っていることに気がついた。日付を見て納得する。この日はギダの頼みで、領主邸の晩餐会に行くためにアレリアへ行った日だった。当然私の名前のほかに、サイラスとツカサの名前も載っていた。
彼らの名前を目で追った時、あの時の情景が目の前に広がった。
馬車で湖の上の橋を渡り、アレリアへ向かった。
あの時はアサギがおらず、三人だった。
ツカサは体の調子が悪かったが、彼女は無理を押して一緒に来てくれた。
それから自分は、腹を刺されて生死を彷徨った。
あの日からまだ二ヶ月も経っていない。
ツカサは、元気だろうか。
無事に帰れたのだろうか。
私は首を振り、いまはそのことを考えている場合ではないと気を取り直した。
頁をめくり今月の記録を見る。開いた時からわかっていたが、ミネルバからアレリアに行く記録簿に記録はひとつもなかった。何か手がかりがあるとすればこちらの記録簿に載っているはずだが、そんな足がつくようなことはしないだろう。
今度は、アレリアからミネルバに来る時の記録簿を開いた。先月の記録を見ると、私たちがアレリアに行った翌日の日付で、ツカサの名前があった。私とサイラスが倒れたこともあり、その日は泊まり、次の日に帰ったのだろう。かくいう私も事情があったのでかなり経ってからミネルバに帰ったが、その時は橋を使わず湖の外周を馬に乗って帰ったのだった。ツカサが帰った次の日の日付にはサイラスの名前があり、月末にはリートとサジタリスの名前もあった。彼らは今月のはじめからうちの隊に勤務しているので、この記録は当然と言えた。
しかし見慣れぬ名前がひとつだけあった。日付は三日、時間は昼の十一時、名前はウェイデン。馬車で、ひとりでミネルバに来たようだ。確認してみたが、ミネルバからアレリアに行く記録簿にこの名前はなかった。ウェイデンという名前をどこかで聞いたことがある気がして、私は目を細める。
町同士の仲が悪いこともあり、橋はほとんど使われない。橋を使うのなら当然馬車で来る。アレリアの住人なら湖を迂回する面倒な道は使わないだろう。湖の周りを回る道は、徒歩や馬に乗って行くならいざしらず、馬車ともなると悪路で、まともな道を使うとかなりの遠回りになる。ミネルバからアレリアに行く記録にウェイデンという名がない以上、この記録の人物は、まだミネルバにいる可能性が高い。念のためほかの月の記録も見てみたが、特に気になることは載っていなかった。
私は記録簿を返しがてら、隊員に訊いた。
「あの、噂で聞いたのですが、夜中に橋が無断で使われているみたいなんです。何か知りませんか?」
若い男の隊員は何を言われたのかわからなかったのか、動きを止めた。すこし待ってみたが返答がない。だいじょうぶだろうかと思っていると、ようやく隊員が口を開いた。
「それは、いったいどこで耳にされたのですか?」
表情は硬く、渡した記録簿を持つ手に力が入っているのが見て取れる。
「ほかの警備隊からです。橋が使われているのを目撃したひとがいるみたいで」
アレリアの警備隊の情報だが嘘は言っていない。隊員は黙り、明らかに何かを知っているような、思い詰めた顔をしていた。
「マシュウは知っているんですか?」
非情かと思ったが彼の名前を出してみた。しかし隊員の様子は変わらず思い詰めたままだった。
「知ってるんですね、彼も」
隊員はしばらく黙っていたが、観念したのか震えるように頷いた。
「隊長が、黙っているようにと言ったのです」
「いつからですか?」
「七日……いえ九日前のことです。俺なんです。橋が使われているのを見たの。でもマシュウ隊長に伝えたら、そんな事実は有り得ないから見間違いだ、忘れろと言われました」
隊長自ら情報を隠していたのか。どおりで情報が上がってこないわけだ。功名心の高いマシュウのこと。管理している橋が無断で使われているということを汚点と考えたのかもしれない。
「何か対策は打ってるんですか?」
そう訊いてみるが、案の定隊員は首を横に振った。何もしないつもりか。そうして問題が通り過ぎるのを待っているのか。
「あの」
隊員が何かを決意した目で私を見た。
「どうかラグトム隊長のほうから言っていただけませんか。我々隊員の言葉は聞き入れてもらえないのです」
彼の切実な訴えに私は応えたかった。
「いますぐにはどうこうできませんが、ほかの隊にも相談してみます。つらいと思いますが待っててもらえますか」
彼は苦しそうに顔を歪ませて、小さく頷いた。




