傍観者の詫び言 1
夜が明ける前の青白い世界が、窓ガラスの外に広がっている。
あたしは、自室として使っている二階の部屋にこもり、ベッドの上でじっと夜が明けるのを見ていた。部屋の隅の書き物机の上にはオイルランプと手帳が置いてある。手帳には簡単にだが日記を書いていた。
ミネルバに帰ってきて三日目。あたしは恐ろしいくらい冷静になっていた。だから、あの日のことも手帳に綴ることができた。あまり嬉しくないのが正直な感想だ。
ノアとサイラスが倒れたことで、ノアの隊は事実上業務停止となった。ギダはそのことに対して手を打っていたらしく、ほかの隊のひとがわざわざその旨を伝えに来てくれた。自分たちが第七地区の見回りを一時務めると言いに来たそのひとは、〈メイト〉のあたしに対して特に嫌悪を抱いている様子はなく、かといって好意的でもなかった。変に気を遣われないのが一番いい。
もうすぐ夜が明ける。やっとだ。夜が長かった。
何をするにも軽い虚脱感が体にまとわりつき、昨日も一昨日も特に印象に残ったことがなかった。することもなく気がつけばソファーで昼寝をしてしまい、夜はまったく眠れないという悪循環。これほど夜を長いと感じたのは、初めてかもしれない。
ベッドから下り、カーテンの開いた窓ガラスに触れる。触れた指の周りがわずかに白く曇った。しばらくそのさまを見ていたが、飽きたので上着を羽織って部屋から出た。
冷たく静かな通路を通って階段を下り、なんとなく応接間に入る。いまは夜明け前で、部屋に光はなく、物寂しい空気を漂わせていた。あたしはランプをローテーブルに置き、ひっそりと静まり返る部屋を見渡した。いつもなら、こんなに早くに起きたりせず、外も暗くない。何より、誰もいないということがなかった。ここの家主が笑顔で挨拶をしてくれた。
そのひとも、いまはいない。
活気というのは、やはりひとがいてこそなのだと思った。
ゆっくりとソファーに座った。ああ、寒い。上から毛布を持ってこればよかった。そんな気力もわかず、膝を抱いて、長らくじっと座っていた。
コンコンッと軽く硬い音が鳴った。
何か落としたかと思ったが、すぐに玄関の敲き金の音だと気づいた。慌てて立ち上がり玄関へ向かう。開けようとしてふと躊躇った。ふつう、こんな時間に誰か訪ねてくるだろうか。
しばらく経つとまた音が鳴った。空耳ではなかった。
「ツカサさーん、いるー?」
扉越しにくぐもった声が届いた。
「リア?」
あたしは思わず扉越しにこたえた。
「あ、うん。そうよ」
扉を開けると、本当にリアが立っていた。手に大きなバスケットを携えている。見れば、外は結構明るくなっていた。かなりぼーっとしていたらしい。
「どうしたの? 何かあった?」
「ツカサさんに会いに来たの。いまはひとりだって聞いたから」
「こんな朝早くに? わざわざ?」
誰に聞いたのだろうか。
「ええ、そうよ。朝食を持ってきたの。一緒に食べない? 今朝焼きあがったパンのサンドウィッチとスイートポテトと野菜のスープもあるわよ」
「え、重かったんじゃない?」
「背に腹は代えられないわ。やっぱりスープもないとしっくりこないもの」
リアの気遣いに自然と顔が綻んだ。かすかに漂う香ばしい匂いにあたしの体が目覚め、腹を鳴らした。
「それじゃ、一緒に食べましょ」
あたしは頷き、紅の廊下を通って、その先の白い廊下の真ん中にある扉まで彼女を案内した。扉の先がこの家のキッチンだった。キッチンのテーブルに着き、リアが取り分けてくれたパンと温め直したスープを黙々と口に運んだ。大袈裟ではなく、本当に生きている気がした。
腹が膨れると、眠気が徐々に頭をもたげた。まだ振り切れる程度だったので、リアが淹れてくれた紅茶を胃に流す。お腹が満たされると気分が落ち着いた。
「ありがとう。美味しかった。二日ぶりにまともなものを食べたわ」
向かいに座るリアにお礼を言うと、リアはすごく嬉しそうに頷いた。
あたしは唐突に切り出した。
「リアは、知ってたの? サイラスの呪いのこと」
リアは表情をすこし曇らせたが、優しい眼差しであたしを見ていた。あたしは視線を落とし、返事を待たずに言葉を続けた。
「目の前でね……血を吐いたの。嘘みたいだった。何が起こったのかわからなくて、何もできなかった。あんなに元気だったのに……」
あの場面に遭って正常に動けるほうがすごい。ましてあたしは無力だ。過去に、頭から血を流した肉親を見たことがあっても、そのことに慣れることはない。むしろ肉を抉られた気分だった。それでも、何もできなかった自分に酷く腹が立った。
「わたしも、初めてそのことを知った時、本当に悲しくて……。サイラスが、いまにもいなくなってしまうんじゃないかって思ったわ」
リアは視線を落とすことなく、あたしを見続けていた。懐かしむように、口元に笑みを携えていた。
「わたしがサイラスと初めて会ったのは、確か湖の公園だったわ。妙に落ち込んでいる男の子がいたのよ」
「落ち込んでたの?」
「ええ。昔のサイラスは、幼いわたしでもわかるくらいすごく寂しそうだったわ」
彼が倒れる前に話をした時、本人もそう言っていたことを思い出した。
リアは苦笑した。
「本当に暗くて、わたしつい声をかけちゃったの。でも最初は全然相手にされなくてね。悔しいから見かけるたびに声をかけて、ときどき焼いたお菓子もあげたりして。どうにかしたかったのね。それである日、彼が急に言ったの。『いつもありがとう』って。その時の笑顔、いま思い出しても嬉しくなるわ」
楽しそうに語るリアからは、悲しそうな様子が一切なかった。
「わたしね、もう決めたの。何があっても動じないって。ずっと彼を見守っていこうって。大好きだから、わたしは彼が死ぬまで彼を見守るわ。でもできることなら、やっぱり呪いが解けないかなって思うの。無理な話なのはわかってるんだけど。……ごめんなさい、なんだか辛気臭くなっちゃったわね」
彼女は困ったように笑った。どれほど悩んだかはわからないが、彼女はすでにこたえを出していた。その姿勢が羨ましい。
「実はツカサさんに付き合ってほしいところがあるの」
「どこに?」
「もうすぐ鎮魂祭っていうお祭りがあるんだけど、その時に楽団のひとたちが来て演奏会をしてくれるの。わたしも当日、その演奏会で踊り子として踊ることになったのよ。それでね。その演奏会の練習が今日からあって、ぜひ見にきてほしくて」
「んー、でもなぁ」
あたしは自分の姿を見た。顔は洗っておらず、髪も整えていない。白い寝巻きのままで、服を変えるのも億劫だった。それにひとりになってから、急に気になりだしたことがあった。
「それに……〈メイト〉のあたしが行ったら、嫌なひともいるでしょ?」
そのことを考えると、ますます気が向かなかった。
ミネルバに来てから二週間が経った。あの、犬を飼っていた女から悪意を向けられた日から、あたしの中に恐怖が生まれてしまった。見て見ぬふりをしようにも、目隠しが取れたみたいにはっきりと見えてしまうし、気づいてしまう。外出を断るための、だめ押しの理由がないかと考えていると、リアがテーブルから身を乗り出して訴えた。
「だいじょうぶよ。そんなひとがいたら、わたしが言い返すわ!」
「でも……」
「行くの! ちょっと会わせたい奴がいるから、来てもらわないと困るのよ!」
「えぇ……」
あたしは圧倒され、身を引いた。
リアのごり押しの笑顔でなし崩し的に外出を承諾してしまったあと、面倒臭いと思う間もなくリアに引きずられ、身だしなみを整える羽目になった。




