魔女の挨拶 3
手頃なベンチを見つけたので、濡れていないか確認してから座った。
冷たい。暗い。そして寒い。
やはり夜で、外にいる時はマフラーでも巻きたいところだ。この頃、肌寒い気候から寒い気候に移り変わってきている気がする。
疲れた。
まだ何もしていないのに。
黒髪の彼はいま、何を思っているのだろうか。
あたしを、恨んでいるだろうか。
俯いて、足の先の芝生を見る。
心の底から不安がわき上がっているのがわかった。
帰りたい。
父と姉が待つ、あの場所に。
帰りたい。
「帰りたいのですか?」
一瞬、心の声が外に漏れているのかと思い、あたしは顔を上げる。
「こんばんは」
暗い庭、視線の先に女が立っていた。シンプルでスレンダーな黒いコートを着こなした、黒い髪の女が柔和に笑っていた。
あたしは驚いて体を後ろに引いた。ベンチの背もたれが当たる。
「今夜は素敵な朧月ですわね。ぼんやりと、空に浮かんで」
女は月を見、またあたしを見た。
彼女に、見覚えがあるような気がした。
「こちらに来て、大変そうですわね。陰ながらあなたを窺っておりましたが、本当におつらそうで。わたくしのこと、覚えていらっしゃいますか?」
「え……いま初めて会ったと……」
「あら、残念ですわ。ですが仕方ありませんわね。あの時のあなたは呆然としていて、心配でしたの」
あたしはわけのわからなさに目を見開いた。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんの話ですか? というかあなた誰ですか?」
「あら、ごめんなさい。ついわかっているものだと思って話してしまって。悪いくせね。わたくし、シャノンと申しますの。あなたがお隣のミネルバに来た時に、会っておりますのよ。最初の日に」
「最初って……」
あたしがソファーから起きた日ではなく、その前のことだろうか。
「ええ、最初の日に。〈メイト〉が来た時は、最初にわたくしが会うようにしております。暇ということもありますので」
シャノンはにこりと笑う。
「あの時のあなたは、こちらに来たことを受け止められる状態ではありませんでした。ですので、あの家まで送ったんですの。夜というのはひとを不安にさせます。時間を置いたほうがよろしいかと思いましたの。それに、あの家の主なら、あなたを悪いようにしないとわかっておりましたから」
「……知り合い、なんですか? ノアさんと」
「いいえ、とんでもない。風の噂では存じておりました。あなたの前の〈メイト〉もそこへお送りしたものですから」
「アサギも?」
「あら、そのようなお名前でしたか。一回だけお話ししましたが、お名前は訊かなかったので初めて聞きましたわ」
「……それだけ? 送って、それだけなの?」
シャノンから目が離せなかった。彼女の黒く長い髪は右横に結えられ前に流れていた。飾りなのか小さな何かがチカチカと光っている。
「その時はそれだけですわ。ですが、今回もそれと同じです。あなたに話せることはありません」
「え? え?」
わざわざあたしの前に現れたというのに、シャノンは特に話すことはないという。いったいどういうことなのか。ではなんのためにあたしの前に現れたのか。そう思っていたら、朧月を背にした彼女は真剣に、あたしを真っ直ぐに見た。
「あなたは、帰りたいのですか?」
至極当たり前のことを訊かれ、一瞬思考が止まった。
「え……そんなの、当たり前じゃない。帰りたいわ」
「そうですか」
「なに? 何か知ってるの?」
「いいえ。わたくしには、いま話せることはありません」
あたしは、自分の眉間にしわが寄るのがわかった。このひとは話せることがないと言っているだけで、知らないとは言っていない。
「わたくしが言えることは、あなたのことはあなたしか知らない、ということです」
「それって謎かけか何かなの?」
「言葉、そのままの意味ですわ」
「そういうことが聞きたいんじゃないの。あたしは、帰り方が知りたいの」
「そうですか」
シャノンはしばらく考え込むと、言った。
「あるいは、心の中の不安を取り除けば、何か思い出すかもしれません。不安を取り払い、思い残しがなければ、心の中に余計なことがなければ、最後に残ったものが、あなたにとって一番大事なものですわ」
「そんな、曖昧すぎる……。もっと具体的なことはないの? どこに行けば帰れるとか、これをすれば帰れるとか」
縋るように彼女を見ると、シャノンは悲しそうに首を横に振った。疲れがどっと押し寄せ、体が重くなった。
洞窟に入って財宝を持って帰ったり、凶悪な怪物を退治したりするほうがよっぽど簡単に思えた。目に見える、現実に起こせる事柄のほうが、どれほど実行しやすいか。
「おつらいでしょうが、わたくしに言えるのはここまでです。見えないと思ったものは、見えないものですから。ですが、いま見えるものをありのまま受け止める勇気も必要です。信じられないのも無理はありませんわ。いいえ、無理に信じる必要はないのです。あなたは、あなたの思う通りに動けばいいのです。後悔をしないように」
シャノンは隣に座り、あたしを慰めるように背中に手を置いた。
彼女の言うことを信じられる確証はなかった。そして彼女の言う通り、彼女の言葉自体を信じる必要もなかった。
「ですがもし、何か困ったことがありましたら、わたくしを頼っていただいて構いません。あなたとわたくしの仲です。いつでもお待ちしておりますわ」
その艶めく声は、あたしの勘違いなのだろうか、わずかに同情の色を帯びていた。




