凍結するシベリアと硝子の断層
地下演習場の冷たい空気の中、後藤教官はそれ以上何も語らなかった。
無言のまま端末のキースイッチを押し込む。起動音と共に、演習場の中央に巨大な球体ホログラムが浮かび上がった。映し出されたのは文字や数値の羅列ではない。ロシア極東、シベリア永久凍土の最前線から送られてきた最高機密の交戦記録映像だった。
吹雪が荒れ狂うツンドラの大地。白銀の世界を埋め尽くしているのは、ロシア軍最新鋭の主力戦車隊と、上空に滞空する銀色の異星連合大型母艦だった。重力制御によって雪煙すら寄せ付けず、絶対的な威容を誇る超科学の浮遊要塞。近代兵器と地球外テクノロジーの融合。本来ならば、地球上のいかなる軍隊も数分で消滅させるはずの無敵の布陣だった。
だが、画面の奥で空が不気味に歪んだ。
音はなかった。爆発も、閃光もない。鉛色の空に、まるでガラス板を巨大なハンマーで叩き割ったかのような幾何学模様の亀裂が走った。
次の瞬間、銀色の母艦の右翼がモザイク状に細かく分解された。装甲が吹き飛んだのではない。金属の分子構造そのものが別の時間軸へとずり落ちるように、四角いキューブとなって宙に散っていく。母艦を取り巻いていた重力バリアは、触れた部分から腐食した油のように黒ずみ、迎撃システムは光の筋を虚空へ乱射するだけで何も捉えられない。
地上で何が起きているかを理解しようと、通信兵の絶叫が無線越しに再生される。
ロシア兵たちの戦車が、凍土ごと持ち上がった。砲塔が発射した徹甲弾は、前方の空間に触れた途端に停止し、そのまま逆再生のように砲身の中へと戻り、戦車の内部で内破した。時間が逆流しているのだ。兵士たちが車外へ這い出そうとするが、開いたハッチから伸びた腕は、一瞬で老婆のような皺だらけの皮膚へと老朽化し、そのまま灰となって崩れ落ちた。
『うそ、でしょ!』
琴音が喉を鳴らし、自らの唇を噛んだ。
映像は切り替わり、今度はアメリカ・ネバダ州の砂漠地帯が映し出された。乾燥した赤土の大地。米軍のステルス戦闘機群と、同盟関係にある異星陣営の純白の戦闘艇が編隊を組んでいた。地表には幾重にも張り巡らされた高エネルギー防御フィールド。
だが、砂漠の中央にぽっかりと開いた漆黒の穴から、煙のようなノイズが這い出していた。
純白の戦闘艇がプラズマ砲を斉射する。太陽の表面温度に匹敵する灼熱の光線がノイズへと直撃した。しかし、光線は穴の手前で奇妙に屈折し、平面的に押し潰されて二次元の絵画のように砂の上に貼り付いた。物理法則そのものが書き換わっているのだ。
通信衛星の生体ログが狂ったように警告音を鳴らし、戦闘機のパイロットたちが計器を狂暴に叩く姿がワイプに映る。だが次の瞬間、砂漠の地平線そのものが折り紙のように内側へと畳み込まれた。数十両の装甲車と、超科学の戦闘艇が、まるで潰された空き缶のように立体から平面へと圧縮されていく。
血の一滴すら飛び散らない。ただ、三次元の質量を持った物質が、次元の裂け目へと平然と吸い込まれ、白い砂煙だけが残された。
映像が途切れる。ノイズ混じりの砂嵐が消え、演習場に静寂が戻った。
『息が、止まるかと思った』
剛田が額の汗を手の甲で乱暴に拭った。その太い腕の筋肉が、怒りではなく純粋な恐怖で強張っていた。常人の骨を砕く怪力も、鉄骨を曲げる剛力も、あの空間の歪みの前では何の役にも立たないことが、皮膚感覚で理解できたからだ。
オレは震える拳を太ももに押し当てた。空間把握の感覚が、映像の歪みを追認して脳の奥を激しく揺さぶっていた。
(あんなものと、戦えるわけがない)
最新鋭の兵器も、宇宙から来た高度な科学力も、まるで子供の積み木のように崩されていた。後藤教官はホログラムを消すと、冷徹な目でオレたちを見据えた。
『見た通りだ。これが今、地球の各地で起きている現実だ。彼らは弱かったわけではない。敵の攻撃ですらない。多重パラレルの重なり合いによって生じた空間の綻び、世界のバグに巻き込まれ、存在そのものを消去されたのだ』
教官の声が、冷たいコンクリートの壁に低く染み込んでいく。
『そしてこのバグの侵食は、すでに日本の足元にまで達している』
誰も言葉を発することができなかった。十六歳の少年少女たちが直面した現実は、想像を絶する世界の終焉のプロローグだった。




