一閃
もしも、あの時でさえなければ、運命は違っていたのかもしれない。
もしも、全てが手遅れになる前に気が付くことが出来たなら、何も失わずに済んだかもしれない。
後悔。自分の過ちによって失われたものに気が付いた時、人は初めて後悔する。決して、取り戻すことはできない。
崩壊の合図は唐突だった。一閃、眩いばかりの閃光が塹壕基地にいたクランクたちの頭上を空気をつんざく音とともに走り抜けた。
「なんだ、これ……」
異様、すぐに身を乗り出して周囲を見回したクランクの視界にはそうとしか形容できない光景が広がっていた。
まるで、時が止まっているようだった。先ほどまで忙しなく動き回っていた兵士たちが動きを止め、目を見開いたまま固まっている。
クランクはそばにいた一人の兵士に近づき、声をかけようとする。その時だった。
固まっていた兵士たちの身体が一斉に弾け飛んだ。正確には、何かに斬られたように身体が真っ二つに分かれ、上半身だけが宙を舞った。視界のあちこちで赤い噴水が噴き上がる。
クランクの視界はあっという間に、血の赤で塗りつぶされた。どこもかしこも、見渡す限りに広がる血の海。
悲鳴は上げられなかった。恐怖のあまり、思考も何もかも一切が停止してしまったからだ。
やがて、後から上がってきた兵士たちから続々と悲鳴があがる。昨日まで肩を並べていた戦友たちが無残に転がる光景に、恐怖から叫ぶ者、亡骸を抱きかかえて泣き叫ぶ者、いち早く逃げ出す者など、そこには阿鼻叫喚の地獄が生まれていた。
そして、そんな地獄の中をピシャリピシャリと血の海の中を歩いてくる影が一つ。
それは、金剛の鎧を身に着け、手の中に一振りの剣を握った一人の人間だった。
きっと、その場にいた誰もが本能的に理解したことだろう。あの人間こそが、この地獄を生み出した張本人であり、勇者なのだと。
ただ呆然と、クランクは数十メートルはあろう距離で剣を構える勇者の姿を眺めていた。あの剣が振られれば、自分は死ぬ。そう分かっていて尚、クランクは動けなかった。
「全員、飛び込め!!!」
誰よりも早く状況を把握したガンツが周囲に向かって叫ぶ。すると、意識の端でその声を受け取ったクランクもようやく思考を再開し、塹壕に飛び込んだ。直後、再びあの閃光のような斬撃が頭上を走り抜ける。
「よし、このまま逃げるぞ」
紙一重というところでクランクが転がり込んでくるのを確認すると、ガンツは小隊の面々を見回して言った。明らかな軍規違反である。しかし、その場の全員が静かに頷いた。
一閃、また一閃、全てを断つ斬撃の轟音が絶えず鳴り響く。ガンツ達はその音から少しでも離れられるように、塹壕の中を素早く駆けていった。周囲には、同じく勇者から逃げようと塹壕に飛び込んできた兵士たちがたくさん見える。
ガンツは内心焦っていた。同じように逃げるこの兵士たちを、勇者は見逃すだろうかと。案の定と言うべきか、地上で斬撃が鳴り止んだ。
「しゃがめぇぇぇ!!!」
力の限りの叫びだった。ガンツは隣を走っていたクランクの頭をつかみ、無理やりその地に落とす。直後、再びあの斬撃が丸めていた頭を掠めて抜けてった。
悲鳴は聞こえなかった。再び、ガンツたちの周囲が血の赤で染まる。今ので、ギリギリしゃがむことのできたガンツたち以外の全員が死んだ。そして、
「バルト!!」
ドサリ、そんな音と共にバルトの身体が崩れ落ちる。全員が目を見開いた。何とか回避しようと身体を丸めようとしていたバルトの頭は、後頭部だけが消し飛んでいた。バルトが、死んだ。
ぴしゃりぴしゃりと、血の海を踏んで塹壕に降りてきた勇者が近付いてくる。
「隊長、俺が少しでも時間を稼ぐ。皆を連れて逃げてくれ」
バルトの死にガンツを含めた皆が動揺する中、アランが言った。近くに倒れた兵士の死体の腰から剣を抜き、勇者を見据えるその目が携えるのは決死の覚悟だ。
「アラン、あなた何言って!!」
アランは叫ぶアンを一瞥すると、何も返すことなくガンツの方を向き言った。
「隊長、皆にはあんたの力が必要だ。皆を守ってやってくれ」
皆を守る。バルトが殺された今、果たされなかった誓いだが、ガンツにはまだ守るべき仲間がいた。当然、アランもその一人だ。しかし、ガンツはアランを止めない。大切な人を守りたいというアランの覚悟を、ガンツは尊重するべきだと思ったからだ。
「絶対、死ぬなよ」
アランは何も言わなかった。ガンツがアンとクランクを抱えて走り、最後に何かを言いたげだったルイが背を向けたのを見届けると、アランは勇者に向かって雄叫びとともに駆け出した。
一閃。無慈悲な斬撃がアランの叫びを掻き消しても、ガンツたちは決して振り返らなかった。




