006 二人きり
「……はぁ。わかった、もういい。叔母さんが帰ってこないんじゃ、一人にするわけにもいかないしな」
俺が観念してそう告げると、箱入さんの空色の瞳がパッと輝いた。
「では、ここに……お側にいてもよろしいのでしょうか?」
「ああ。ただし、九時になればうちの母さんも帰ってくる。それまではここで預かってやるよ」
九時になれば、母さんが帰宅してこの異様な状況をなんとかしてくれるはずだ。それまでの辛抱だ。俺は自分にそう言い聞かせ、彼女にリビングで待機するよう促した。
「食事は……さっきのコンビニのがあるだろ。ここで済ませていけ」
「はい! ありがとうございます、浅香さん」
彼女は嬉しそうに、大切そうに提げていたコンビニの袋をテーブルに置いた。
お嬢様がコンビニ飯を食べる。しかも、俺の家のリビングでだ。
このシュールな光景をあいつらが見たら、間違いなく明日の朝には学内ニュースのトップを飾るだろう。
俺は彼女が買ってきた例の「おにぎり」を袋から取り出し、開け方が分からず四戦苦闘している彼女の横で、丁寧に外装を剥いてやった。
「ほら、こうやるんだ。海苔をパリパリに保つための工夫なんだよ」
「まぁ……! これほど精巧な機構が隠されていたとは……」
ただのパッケージだ。
なのに、感動しながらおにぎりを一口齧り、「お米が……お米が光り輝いています!」と空色の瞳を潤ませる彼女。
その隣で俺は、買わせたパックのレモンティーにストローを刺してやり、自前の夕食の残りを適当に口に運んだ。
家中に、本来ここにあるはずのない甘い花の香りと、お嬢様の感嘆の声が響く。
外では相変わらず虫たちが大合奏を続けているが、彼女は俺のすぐ隣に座っている安心感からか、もう窓の外を怯えて見ることはなかった。
(……静かすぎるよりはマシか)
そう思ったのも束の間。
「浅香さん。あの……もしよろしければなのですが。少しだけ、貴方の身の上話を伺ってもよろしいでしょうか? 陽菜様から、貴方のことは伺っていたのですが……」
陽菜姉のやつ、一体何を吹き込んだんだ。
「……朝比奈先生が、俺のことを? どうせろくでもないことだろ」
嫌な予感しかしない。あの従姉が、自分の従弟を美少女に紹介する際に、まともな情報を渡すはずがないのだ。
「そんなことはございません! 陽菜様は仰っていました。『燈真は昔から、困っている人や放っておけないものを見ると、文句を言いながらも最後まで面倒を見てしまう、とっても優しい"お人好し"なのよ』と」
(……あいつ、余計なことを)
「それはただの、あいつの主観だ。俺はただ、面倒をこれ以上大きくしたくないから、最小限の被害で済むように動いてるだけだよ。お人好しなんてのと正反対だ」
俺は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
昔、迷子を交番まで送り届けた時も、雨に濡れた捨て猫を拾った時も(結局その猫は陽菜姉の家で飼われることになったが)、俺は常に「最善の解決策」を選んだに過ぎない。
「でも、今日もそうです。椅子も、教科書も、帰り道も、コンビニも……。そして、今こうして怯える私を家に入れてくださっていることも。陽菜様の仰った通り、浅香さんは言葉とは裏腹に、とても……その、あたたかい方です」
箱入さんはそう言って、空色の瞳を伏せ、少しだけ耳を赤くして微笑んだ。
その無防備で真っ直ぐな称賛が、何よりも甘く、居心地の悪さを加速させる。
「……買い被りすぎだ。ただの効率主義だよ」
俺は突き放すように言い、誤魔化すように残り少なくなった茶を飲み干した。
陽菜姉のやつ、俺の性格を「お人好し」と定義することで、箱入さんの中にある俺のハードルを上げやがった。これでは、これから起きるであろう面倒事を断りづらくなる一方じゃないか。
「ふふ、そういうところも『お人好し』らしいと仰っていました」
確信犯的な陽菜姉の笑顔が脳裏に浮かび、俺は拳を握りしめた。
◆
時刻は九時。
この甘い香りに満ちた一時の終焉を告げる音が、玄関の方から響いた。
「ただいまー。燈真、遅くなってごめん……って、あらあら?」
リビングに現れた母さんは、俺の隣に座る「場違いなほどの美少女」を視界に入れた瞬間、手に持っていたトートバッグを落としかけんばかりに目を見開いた。
「母さん、お帰り。……いや、その顔はやめろ。変な誤解をされるのが一番面倒なんだ。これにはちゃんとした理由がある」
俺は反射的に立ち上がり、先手を打って弁明を試みる。だが、母さんは驚きを瞬時に「面白がり」へと変換させ、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ちゃんとした理由、ねえ……。一体どんな理由があったら、こんなに可愛いお嬢様を夜に家に連れ込むことになるのかしら? 燈真、お母さん、そんな風に育てた覚えはないわよ?」
「だから、育て方の問題じゃない。隣の九条さんの家の親戚の子で、叔母さんが不在で困ってたから……」
俺の必死の説明を、隣に座っていた箱入さんが丁寧な一礼で遮った。
「初めまして、浅香様。箱入歌凛と申します。本日は、浅香さんの……燈真さんの慈悲深いお心遣いに甘えてしまい、お騒がせしております」
慈悲深い。その過剰な表現に、俺は思わず顔を覆いたくなった。
母さんは一瞬、その「本物」の気品に圧倒されたようだったが、すぐに表情を輝かせた。
「……まぁ! 慈悲深いだなんて、この子が? 歌凛ちゃん、この子、本当はただの『お人好し』なだけなのよ。昔からそうなの。文句を言いながらも、困っている子を放っておけない質で――」
「母さんまで、あいつと同じことを言うな!」
陽菜姉といい母さんといい、俺の周囲の女性陣はどうしてこうも俺を「定義」したがるのか。
結局、母さんが戻ってきたことで状況は一気に「家庭的」な雰囲気へと塗り替えられ、俺の必死の弁明は、和やかな女子会の波に飲み込まれて消えていった。
九時になれば平穏が戻ると思っていたが、どうやら見通しが甘かったらしい。
俺の平穏な生活は、終わったのではない。より深い泥沼へと足を踏み入れただけなのだった。




