第3章2
光の中。
優希は、浮遊していた。
いや、「浮遊」という言葉すら正確ではない。
上も下も、右も左もない。
時間の感覚すらない。
「ここは......」
声を出したつもりだが、音は聞こえなかった。
周りは、白い光。
いや、白ですらない。
全ての色であり、同時に無色。
「これが......特異点の内部......」
優希は、自分の手を見た。
手は、そこにある。
でも、同時に透けているような気もする。
「空間が......歪んでいる......」
その時。
光の中に、何かが見えた。
人影?
いや、違う。
それは――
「データ......?」
無数の数式が、空間を漂っていた。
物理方程式、数学的記号、そして――見たこともない記号。
「これは......」
優希は、手を伸ばした。
数式に触れると、それが優希の脳内に流れ込んできた。
**「特異点は、時空の歪みによって生じる」**
**「77億の生命エネルギーが、一点に収束した時――」**
**「逆位相の特異点が生まれる」**
「逆位相......」
優希は、理解し始めた。
「日本は、安定化の特異点。そして、ロシアは――不安定化の特異点」
**「バランスが崩れれば、全てが消える」**
数式が、優希に語りかける。
「バランス......どうやって?」
**「二つの特異点を、同期させろ」**
「同期......」
優希は、考えた。
どうやって?
その時――
光が、激しく揺れた。
「うわっ!?」
優希の体が、引っ張られる。
何かが、優希を外に引き戻そうとしている。
「待って! まだ、全部わかってない――」
**「時間がない」**
数式が、最後のメッセージを送ってきた。
**「七十二時間以内に、同期しなければ――」**
**「地球全体が、消える」**
「なんだって!?」
優希は、叫んだ。
だが、光はもう答えなかった。
---
**現実世界。**
「佐藤先生! 佐藤先生!」
声が聞こえる。
誰かが、優希の体を揺すっている。
「......う......」
優希は、ゆっくりと目を開けた。
「気がついた!」
健吾の顔が、目の前にあった。
「健吾さん......」
「バカ野郎! 死んだかと思ったぞ!」
健吾は、涙目だった。
優希は、体を起こした。
周りを見る。
雪原。
そして――光の柱は、消えていた。
「光は......?」
「消えた」
リーが、答えた。
「あなたが光に飲み込まれた直後、光の柱が突然縮小して、消えました」
「消えた......」
優希は、立ち上がった。
体は、無傷だった。
「何が起きたんですか?」
パクが、尋ねた。
「光の中で、何を見たんですか?」
優希は、三人を見た。
そして――
「全部、わかりました」
優希は、拳を握った。
「特異点の正体。そして――僕たちがやらなければいけないこと」
---
**十一月十七日。東京・首相官邸。**
優希たちがロシアから帰国すると、会議室には多くの人が集まっていた。
石橋副長官、美咲、そして――桜井晋三。
桜井の顔は、怒りに満ちていた。
「佐藤優希」
桜井は、低い声で言った。
「君は、私の命令を無視した」
「......はい」
「非公式に、ロシアへ行った」
「はい」
「その理由を、説明してもらおうか」
優希は、桜井を見た。
「必要だったからです」
「必要?」
「はい」優希は頷いた。「そして、僕は重要な情報を手に入れました」
優希は、ホワイトボードに図を描き始めた。
「特異点の正体が、わかりました」
会議室が、静まり返った。
「消失の時、77億人の生命エネルギーが一点に収束しました。その結果、二つの特異点が生まれた」
優希は、二つの円を描いた。
「一つは、日本。安定化の特異点」
「もう一つは、ロシア。不安定化の特異点」
「この二つは、対になっています。陰と陽のように」
優希は、二つの円を線で結んだ。
「そして、今――バランスが崩れています」
「ロシアの特異点が暴走し、拡大している。このままでは――」
優希は、地球の絵を描いた。
「七十二時間以内に、地球全体が消滅します」
「なんだと!?」
桜井が、立ち上がった。
「そんなバカな!」
「本当です」
優希は、データを見せた。
「これは、光の中で得た情報です。数式、物理法則、全てが一致しています」
石橋が、資料を見た。
「......確かに、理論的には矛盾していません」
「では、どうすればいいんだ?」
桜井が、尋ねた。
「二つの特異点を、同期させます」
優希は、図を指した。
「日本の安定化エネルギーを、ロシアの不安定化エネルギーと打ち消し合わせる」
「どうやって?」
「僕が、現地へ行きます」
優希は、宣言した。
「ロシアの特異点の中心地に、特殊な装置を設置します。それで、日本とロシアの特異点を繋ぎ、同期させる」
「待て」
桜井が、口を挟んだ。
「それは、危険すぎる。君が死んだら――」
「僕が行かなければ、全員が死にます」
優希は、桜井を見た。
「七十二時間以内に、作戦を実行しなければなりません」
沈黙。
桜井は、腕を組んで考えた。
「......わかった」
桜井は、ゆっくりと言った。
「作戦を許可する。ただし、条件がある」
「条件?」
「自衛隊の護衛をつける。そして――」
桜井は、優希を見た。
「日本人技術者のみで、チームを編成しろ」
「なぜですか?」
「国民感情だ」
桜井は、資料を見せた。
「君がロシアへ非公式に行ったこと、既に報道されている。そして、在日外国人と共に行動していたことも」
資料には、SNSの投稿が並んでいる。
『#佐藤は日本を裏切った』
『#なぜ外国人と』
『#日本人を優先しろ』
「国民は、不安なんだ」
桜井は、優希を見た。
「だから、今回は日本人だけで行け。それが、国民を安心させる」
「でも――」
「それが、条件だ」
桜井は、腕を組んだ。
「受け入れなければ、作戦は中止する」
優希は、拳を握った。
「......わかりました」
「よろしい」
桜井は、席に座った。
「では、作戦の詳細を詰めろ。出発は、明日朝六時だ」
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**同日、午後六時。会議室の外。**
会議が終わり、優希は廊下を歩いていた。
「佐藤先生」
後ろから、声がした。
振り返ると、リーが立っていた。
「リーさん......」
「今回の作戦、私は参加できないんですね」
リーの声には、悲しみが滲んでいた。
「......すみません」
優希は、頭を下げた。
「僕の力不足です。桜井大臣を説得できなくて」
「いえ」
リーは首を振った。
「あなたのせいじゃない。これが、現実です」
リーは、窓の外を見た。
「私たち在日外国人は、まだ完全には受け入れられていない。それが、現実なんです」
「でも――」
「いいんです」
リーは、優希を見た。
「あなたは、やるべきことをやってください。地球を、救ってください」
「......はい」
二人は、しばらく黙っていた。
そして――
「佐藤先生」
リーが、口を開いた。
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう?」
「もし――もし、あなたが成功したら」
リーは、優希の目を見た。
「私たちのことを、忘れないでください」
「忘れるわけ、ないじゃないですか」
優希は、微笑んだ。
「リーさんは、僕の大切な仲間です。パクさんも、アフマドさんも、ワンさんも、みんな」
「......ありがとうございます」
リーは、深く頭を下げた。
「では、行ってらっしゃい。そして――」
リーは、顔を上げた。
「必ず、帰ってきてください」
「......はい。必ず」
---
**同日、午後十時。優希のマンション。**
優希は、荷物をまとめていた。
明日、出発する。
ロシアへ。
特異点の中心地へ。
「大丈夫かな......」
優希は、窓の外を見た。
東京の夜景。
美しい景色。
でも、七十二時間後には――この景色も、消えるかもしれない。
「絶対に、成功させなきゃ」
優希は、拳を握った。
その時、ドアチャイムが鳴った。
「はい」
ドアを開けると、美咲が立っていた。
「早川さん......」
「こんばんは。お邪魔してもいいですか?」
「どうぞ」
美咲は、中に入ってきた。
リビングに座る。
「明日、出発ですね」
「はい」
「準備は、できていますか?」
「......正直、不安です」
優希は、ソファに座った。
「光の中で見た情報は、確かに本物だと思います。でも――」
「でも?」
「本当に、同期できるのか。本当に、地球を救えるのか」
優希は、手を見た。
「自信が、ないんです」
美咲は、しばらく黙っていた。
そして――
「佐藤先生」
「はい」
「私、あなたのこと、最初は信用していませんでした」
「......え?」
「だって、科学者が突然リーダーになるなんて、普通じゃない」
美咲は、微笑んだ。
「政治もわからない、人心掌握も下手、専門用語ばかり使う」
「......厳しいですね」
「でも」
美咲は、優希を見た。
「あなたには、他の人にないものがある」
「何ですか?」
「誠実さです」
美咲は、真剣な目で言った。
「あなたは、嘘をつかない。誤魔化さない。自分の弱さも、正直に認める」
「それは......長所なんでしょうか」
「長所です」
美咲は頷いた。
「だから、人はあなたについていく。リーさんも、パクさんも、健吾さんも、みんな」
「そして――」
美咲は、立ち上がった。
「私も、あなたを信じています」
美咲は、優希に手を差し伸べた。
「だから、自信を持ってください。あなたなら、できます」
優希は、その手を見た。
そして――握った。
「......ありがとうございます」
「どういたしまして」
美咲は、笑った。
「それと、一つ」
「はい?」
「必ず、生きて帰ってきてください」
美咲の目には、涙が浮かんでいた。
「あなたが死んだら――私、許しませんから」
優希は、目頭が熱くなった。
「......はい。約束します」
---
**十一月十八日、午前六時。羽田空港。**
自衛隊の大型輸送機が、待機していた。
優希の周りには、十人の日本人技術者。
全員、優秀なエンジニアだ。
「佐藤先生」
田村健太が、近づいてきた。
「チーム全員、準備完了です」
「ありがとうございます、田村さん」
「今回の作戦、絶対に成功させましょう」
「はい」
その時、健吾が駆けてきた。
「優希!」
「健吾さん」
「これ、持ってけ」
健吾は、小さな機械を渡した。
「通信機の改良版だ。どんな状況でも、日本と通信できる」
「ありがとうございます」
「それと」
健吾は、優希の肩を叩いた。
「無理すんなよ。死ぬなよ」
「......はい」
優希は、笑った。
「絶対、生きて帰ります」
「おう」
優希は、輸送機に乗り込んだ。
エンジンが始動する。
窓から、健吾や美咲、リー、パクの姿が見える。
みんな、手を振っている。
優希も、手を振った。
そして――
輸送機は、ロシアへ向けて飛び立った。
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**同時刻。首相官邸。**
桜井晋三は、一人で窓の外を見ていた。
空に浮かぶ、輸送機。
「行ったか......」
桜井は、呟いた。
そして――不敵に笑った。
「さて、佐藤優希。お前が成功するか、失敗するか」
桜井は、机の引き出しを開けた。
中には、一枚の書類。
『緊急事態宣言(草案)』
「どちらにしても――」
桜井は、その書類を握りしめた。
「この混乱の中で、私が全権を掌握する」
桜井の目には、野心の炎が燃えていた。




