第二十二回
「会いたかったぞ」
般若面は腰の刀柄へ右手を伸ばした。
自身が倒すべき敵、その筆頭がこの魔性である。
魔性が何処にいるのか見当もつかぬ。向こうから現れてくれればありがたい。
般若面はすらりと刀身を抜き放つ。刃に月光が反射して淡く輝いた。般若面の愛刀、三池典太は魔物をも断つと伝えられている。
後世では国宝に数えられる名刀がいかにして般若面の手に伝わったか。
いや、それよりも魔を斬る剣が般若面の手にあるという事が重要だ。
江戸の平和のために死のうとしている般若面は、魔性と戦う運命にあった。
だからこそ三池典太は般若面の元にやってきたのだ。この世に偶然はない、あるのは必然だけだ。
「降りてこい」
般若面は屋根の上の月光蝶へ、正眼に構えた三池典太の切っ先を突きつけた。
その様が可笑しいのか、月光蝶は屋根の上で口元を抑えて笑ったようだった。
〈急かす男は女に嫌われようぞ〉
女の声が般若面の脳内に、いや心の中に響いてきた。般若面は驚愕した。
〈己が得物を女に突きつけ、何を居丈高に言うのやら〉
月光蝶の言葉の意味が般若面にはわからぬでもなかった。連想したのは男女の秘め事であった。
「うむ……」
般若面は面の奥でうなった。なるほど、般若面の月光蝶に対する態度は、妻に対する亭主関白な振る舞いそのものと言えよう。
「非礼を詫びよう」
般若面は三池典太を後手に提げ、屋根の上の月光蝶へ軽く頭を下げた。命がけの勝負の最中にこのような振る舞いに出るとは。
般若面のこのような性格は父から嫌われる一因であった。
「いざ勝負」
しかし般若面は一瞬で態度を変えた。
右手に三池典太を下段に提げて、月光蝶を静かに見上げたのだ。なるほど、先程と今ではまるで違う。
先は傲岸不遜、今は謙虚な挑戦者。
兵法者にも貴賎が、いや魂の在り方がある。
兵法者は思い邪なきを以て本となす――
般若面の清廉潔白な闘志こそ、彼の父は愛するのだ。
〈なかなか面白い男だが…… ほれ〉
月光蝶は視線を移した。般若面もつられて視線を移す。
武家屋敷の並ぶ通りを、よろめきながら人影が歩いてくる。月光に照らされたのは一人の浪人だ。
その浪人は、数日前に茶屋の前で武士と口論していた者ではないか。
「むう?」
般若面は面の奥でうめきながら、左手で己が胸元をさすった。
そして般若面の視線の先では、よろめく浪人に異常が起きていた。背中の肉を内側から突き破って、昆虫に似た長大な脚が無数に生えてきたのだ。
「なんだと」
般若面は全身を冷や汗に濡らした。浪人は人ならざる者に変化していく。
変化の途中、浪人は何度も奇声を上げたが、それは人ならざる魔性への変身に対する抵抗、人間の尊厳であったかもしれない。
が、浪人は人ならざる者に変身した。数日前に七郎なる無頼漢に斬りつけた後、奇妙な技によって大地に落とされた浪人は、もういなかった。
代わって大地には、複数の昆虫のような脚を背から生やした獄界の鬼がいた。
両目は真紅に輝き、般若面へ向ける眼差しには憎悪が満ちていた。
〈人が心のままに生きるとは、このような事よ〉
またしても月光蝶の声が般若面の心に響く。何の事か、般若面には今ひとつ理解できかねた。
が、人が心のままに、欲望のままに生きる姿は醜いであろうと般若面は思った。般若面は人生の最期くらい華を咲かせたい。
黒装束を濡らす程、全身に冷や汗をかいた般若面へ鬼が突き進む。
背中から生えた無数の脚が般若面を襲わんとする。
「ぬん」
般若面は鬼の突進を横っ飛びに避けて、三池典太を真っ向から打ちこんだ。
バアン!と音がして、三池典太の刃が弾き返された。鬼の背から生えた無数の脚が、三池典太の刃を払ったのだ。
「なんだと」
般若面はうめきながらも、鬼の突進を再び横っ飛びに避けた。まるで猛牛を相手にしているような心地がした。




