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兵法とは平和の法なり  作者: MIROKU
寛永編
21/40

第二十一回



 夜、政は源のうどん屋にいた。店内は行灯の明かりで照らされている。すでに店じまいだ。

「それでなあ、奥方様が美人でよう」

「ほう、そりゃいいこった」

「庭に池を造ってほしいって事だが、こりゃ大仕事だぜ」

「おい政、いい顔してるじゃねえか」

「当たり前よ、大仕事が待ってんだ、これで燃えなきゃ男じゃねえ」

「何言ってやがる、こっちは毎日が大仕事だ」

「……なんだかよう、俺たちも若に似てきたな」

 源と政は店の残り物で楽しく酒を飲んだ。

 二人共に江戸城御庭番だ。しばらく前は、源はうどんの屋台を引いて江戸市中を見回り、政は浪人に仕事を斡旋する商人に扮していた。

 今は江戸に集まった全国各地の大名を見張る役に就いている。幕閣では気力のない浪人よりも、江戸に参勤交代でやってきた大名の動静に目を光らせていた。

 なにぶん前例のない事だ。何が起きるかわからない。だが江戸に大名を集める事によって、全国に派遣されていた隠密の数は激減した。大名が江戸に集まった事により、その動静を探るのが容易になったからだ。

 七郎も元は全国を巡る公儀隠密だったが、参勤交代が始まると共に、江戸に呼び戻されている。

「あとは嫁さんだなー」

「空から女の子でも降ってこねえかなー」

 酒に酔った源と政の馬鹿話は続く。



 更にしばらくして、江戸は深夜となった。

 深い闇が江戸全体を覆っている。星明かりだけでは歩くのも難しい武家屋敷の並ぶ通りを、静かに進むのは黒装束の男であった。

 ――夜は好きだ、昼間とは違う自分になれる……

 腰に大小二本の刀を差しながら音も立てずに進むのは、いつぞやの夜に魔性と遭遇した般若面である。

 ――昼間の俺は、まるで風に吹かれる塵芥のようだ……

 般若面は面の奥で考える。

 江戸の夜に現れる兵法の達人と噂される般若面も、その内面には耐え難き飢えと渇きに似た鬱憤を抱えていた。

 並の人間ならば鬱憤を晴らすために何かするところを、この般若面は自分の使命に殉ずる事で、心の曇りを晴らしていた。

 兵法においては、いつでも死ねるという思いあればこそ般若面は満たされる。

 あとは酒と煙草、そして女がいれば般若面は充分だ。

 ――いや、まだまだだな。

 般若面は足を止めて面の奥で苦笑する。彼にはまだやる事がある。

 父と先師から受け継いだ技、その体現。

 この一事のみを以てしても、数十年で成し遂げる事ができるかどうか。

 兵法とは平和の法なり。

 強ければ良いわけではない。

 人より優れれば良いわけではない。

 般若面が守るのは江戸の人々の平和だ。

 守る事ができなければ、たとえ天下無双に成り得ても、偽善に等しいと般若面は考えている。

 敵は、この世の悪意全てだ。

 新たな敵は、人の悪意より生じた魔性だ。

 魔性を討てず、また討たずして、兵法とは平和の法なりなどと論じる事はできぬ。

 皮肉にも彼の思いは、江戸を守って死んだ時にこそ満たされる。

 生き延びている限り般若面が真の満足を得る事はない。

「……む」

 般若面は足を止めた。夜風が冷えてきたような気がしたのだ。

 闇の中で般若面は気を研ぎ澄ます。面の奥で隻眼は半眼に閉じられて、彼の精神は天地宇宙との調和を果たしていた。

 そして――

 般若面は視線の先に目指すべき敵の姿を発見した。

 武家屋敷の屋根の上に立つ妖艶な人影。

 それは一糸まとわぬ白い裸体を惜しげもなくさらし、背には透き通る透明な羽根を、頭部には蠢く触角を備えた人ならざる者である。

「月光蝶……」

 七郎は咄嗟に魔性の女を、そう呼んだ。

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