第十二回
「寝てろ」
般若面は地面に大の字で気絶している順三郎に向かって言った。
「なかなかの一刀だ、俺は負けても悔いがなかったな…… さて、お前さんは」
次いで般若面は蜘蛛女の姿を見上げた。背からは蜘蛛に似た長大な脚を八本生やしているが、その丸みを帯びた艶めかしい肢体に般若面は胸を高鳴らせた。やはり女は苦手だ。いや女の色気が苦手なのだ。
「どうするね? できれば日の光の下で会いたいもんだが」
般若面の声は落ち着いている。冷静だ。今しがた生死の境を越えたばかりだというのに。
彼はこのような荒事に慣れているのだ。死の覚悟を数え切れぬほど繰り返してきた。
そして生死の境で全身全霊を振り絞ってきた。
般若面にとって人生とは、最高の一瞬の中に在った。
幾度もの死の覚悟、全身全霊の一手。
それに満足してきた般若面は、いつ死んでも後悔はない。
最高の一手、そしてまた新たな最高の一手を追い求めていく……
般若面は永遠の挑戦を繰り返しているのだ。
「何を言ってんだい、全く男は馬鹿ばっかりだよ」
呆れた様子で蜘蛛女は蜘蛛の巣の表面を移動した。偶然なのか、蜘蛛女は般若面に背を見せている。
ツンと澄ました蜘蛛女の仕草が般若面には心地よい。
「あたしはね、夜の散策を誰にも邪魔されたくないだけさ」
「ほう、なるほど。気持ちはわかるぞ」
「そりゃあそうさ、一人の方が気楽だね……」
そう言った蜘蛛女と、夜空に浮かぶ巨大な蜘蛛の巣は同時に消失した。
後に残された般若面は半ば呆然と夜空を見上げていた。が、面の奥で彼は不敵な笑みを浮かべていた。
「ふふっ、面白い…… もう少し生きてみるか…… しからば御免」
般若面は夜道を駆け出した。彼の胸には明日への闘志が燃えていた。
蜘蛛女は人間を遊びで殺すような存在ではなかった。彼の予想通り、蜘蛛女は夜の散策を楽しんでいるだけなのだ。事実、彼女の目撃情報はあれど人が殺された事実はない。
般若面にはそれで充分だ。つまらぬ世の中に、何か光明が見えたような気がした。
そして般若面とは対照的に順三郎は絶望の底を見た。彼が信じていたものは幻想に過ぎなかった。
その順三郎はしばらく地面で気を失っていた。
目覚めた時、彼の本当の人生が始まった。




