第二話 人は誰だって波乱万丈
目の前に広がるのは、モクモクと明らかに環境破壊の一旦を担うであろう黒煙の数々。
その周りには、おそらくダクトなどの役割で使われているのであろうむき出しとなったパイプがあり、それは、見るからに薄汚れた建物の周りを這っていた。
また、その下には今にも崩れそうな建物や、レンガ造りの建物、はたまた木造の、どうやってバランスを保っているのだろう、という建物が見下ろすことができる。
今まで暮らしてきて、見ることのない景色たち……。
新垣カオルは、それを己の言葉で、手すりにしてはあまりにも頼りない鉄パイプを握りながら発する。
「どこや……ここ……」
◇◆
腹痛に襲われたのは、午前7時半ごろであった。
なんというか、昨日からもしかすると腹痛に襲われるかもしれない、という予感はしていたのだ。
なにせ、最近便秘気味だな、なんて思っていた頃だったわけで、そんな中、昨夜には友達と焼肉の食べ放題なんてものに行って、時間一杯肉を頬張ったりしたわけだから、こういう結果になるのは、必然ではあったのかもしれない。
と、新垣カオルは、便座に座りながら思っていた。
場所は、自宅……ではなく、O坂駅構内のトイレである。
カオルは、朝六時に起き、なんというか気分がよかったので、O坂に出て喫茶店にでも行って、優雅にコーヒーを飲もうと思い立った。
だが、O坂駅に到着した途端、彼は胃を捻られているかのような痛みを、腹部に感じる。
それから、
あ、これはやばいやつだ。
と思った彼は、急いでトイレに駆け込んだ。
しかし、流石は人口密度が彼の地元に比べ二倍以上のO坂だ。
確率的に、腹痛に悩まされている人間が多い。
そして、彼がO坂駅に着いた時刻は、言うなれば、通勤通学ラッシュの時刻である。
要するに、ストレスフルな毎日を送っている多くの人間が、同じ状況になるわけだ。
というわけで、彼がトイレに着いた頃には、すでにすべての個室トイレが埋まっており、さらに、次を待つ顔面蒼白の列が伸びていた。
それを見て、新垣カオルは、一瞬、いや個室のトイレに入り、自分が漏らしていないことと、ちゃんとパンツを下ろし便座に座るまでに漏らさなかったことを確認するまで、――
人生が終わった。
――と感じた。
というか、もしかすると世界が滅亡するのかも、と思った。
今回の腹痛は普通の痛みではなかった。
なんというか、全身に襲ってくる衝撃とでも表現すれば良いのか、腹だけではなく、身体全身が痛くなったのだ。
それはもう、吐き気すら催すもので、よく個室トイレに入るまで堪えることができたな、と自分を褒めたいほどだった。
だが、トイレさえ入れば安心。
先ほどまでどうして皆、トイレに入ってからこうも長いんだ!
と思っていたことなど棚に置いて、ゆっくりと排泄物を垂れ流す。
その瞬間だけは、トイレの個室が桃源郷だと思えた。
一〇分は経っただろうか……。
そろそろ足の付け根の血管が圧迫されているが故に、足にしびれを感じ始めた頃、新垣は気がついた。
……あれ、なんか力が入らない。
そう、新垣はどういうわけか、その状態から動くことができない状態になっていたのだ。
彼は首をかしげる。
「なんでやろ」
このときの、新垣の頭の中にあるのは一つだった。
まだ、尻を拭いていない。
要するに、彼は現在、身体の一部が汚物塗れになっているわけである。
そして、その中で、立つことができないでいた。
「え、もしかしてこれって……」
そこで、彼は漸く現状の己の問題がどこから発生しているのか、気がついた。
――ケツが便座に挟まっている。
なんということでしょう。
どうしてこんなことになったのでしょう。
――理由は簡単――
新垣の前に入っていた人が、どういうわけか、便座を上げていた。
おそらく、最後に何かしらすることがあったのだろう。
もしかすると、座ってトイレ(小さいほう)をすることができない日本男児だったのかもしれない。
はたまた、律儀にすべてを掃除する潔癖の方だったのかも。
具体的にそのどちらだったのかは、まあどうでもよく。結論としては、それに新垣は気がつかなかった。
気がつくには、あまりにも、彼に余裕がなかった。
なにせ、漏れる寸前だったのだから……。
確かに、跳ね返りがすごいな、とは思っていたけど、なんだ、そういうことだったのかぁ、と一回、納得を挟んでから、新垣カオルは、
「はああああああああああああああああああああああ!!!!????」
と、叫ばずにはいられなかった。
周りに対する迷惑とか、恥じらいなんてものは、一瞬のうちにどこかに消し飛んでしまっていた。
大体からしておかしと思っていたのだ。
便座にしては妙に冷たいな、とか、なんかいつもより低いな、とか、今にして思えば決定的だったのは背もたれがあるんだ、と認識したことである。
新垣は思う。
数一〇分前の自分に対して、そこは気がつけよ! と。
それは、背もたれではなく便座だよ! と。
彼は、わかりやすく頭を抱える。
別に誰に見られているわけでもないのだ。どうしたっていいじゃないか。
「はあ……」
一度、大きく息を吐いた後、彼はとりあえず己のやることを認識した。
ゼミの欠席のメッセージを送ろう。
それが、彼が最初に己がすることに選んだ行為であった。
普通に考えれば、もっと他にすることがあるだろう。とツッコミを入れたくなる行動である。
おそらく、自分が客観的に今の状況を見ていたら、そう突っ込んでいたはずだ。
これでも一応関西人の端くれ、それくらいの反応速度はあるつもりである。
しかし、こういうものは当人にとって、案外大事なことなのだ。
なんというか、できることから先にやろう。という思考が働く。
おそらく、己を落ち着けるための行為だったのだろう。
とりあえず、もうこんな目にあったのだから、これから大学に行くなんてことはやりたくない。
もうそんなテンションではない。
だから、早い段階から連絡をしておこう。
新垣カオルはその思考が一番疲れず、なおかつ行為としてやりやすかったというわけである。
――やすきに流れるのが人の性なのさ……。
「よし、とりあえず完了」
メッセージを送り終えたということを、意識するために、彼は言う。
さてと、
とりあえず、己のみで現状できることはした。
後は、人を頼るしかない。
つまり、この現状を打破するにはもう人に助けを求めるしかない、ということである。
簡単に言うなら、大声で、
――誰か! 助けてください!!
ということを言うということだ。
幸い、ドアの鍵部分には手が届く距離だ。
自分の助けを求める声を聞いた心優しい誰かが、ドアの前まで来てくれれば、鍵を開けて現状をみせ、そこで相手が逃げさえしなければ、助けてもらうことができる。
正直いって、かなり恥ずかしい。
こんな姿を誰かに見られるなんて、末代、いや、己の来世やこれまでの前世すべてにおける恥である。
そもそも、下はすっぽんぽんなのだ。
その時点で、もうすでに異常性が臨界点に達しているはずだ。
それなのに、今の自分の状態は、便座にお尻が嵌っているわけである。
これはもう、大惨事……。
「あ、」
そこで、新垣カオルはあることに気がつく。
俺のケツって、今汚物まみれやん……。
そう、これは感触からして確実なる真実と言うなの事実。
つまり、これから考えられる最上の結果がこうだ。
新垣カオルは大声で助けを求める。
おそらく最初は誰もが訝しいと思い、相手にしないだろう。
だが、ここは一応先進国の中でも、和というものがあり、人助けをする人の割合が多いはずの日本国だ。大和国だ。
しばらくすれば、誰かは相手をしてくれるだろう。幸い、人はたくさん居るはずである。
そして、その人物が来れば、ドアを開け、相手を招き入れる。
招き入れるという表現が、なんとも卑猥さを伴っていることは、とりあえず無視をして、その人物に、または複数人に助けてもらう。
で、
綺麗にすっぽり抜けた尻から発せられる汚物の臭いに顔を顰められる。
これが、現状たどり着く最上の結末。
――やってられんわああああああああ!!!!
新垣カオルは、再度頭を抱えた。
流石に、厳しすぎませんかね神様。
と、適当に神とかいう存在に、居るかも知らぬ存在に嘆いてみる。
一体、俺が何をしたというんだ、これまで自分なりに必死に生きてきたじゃないか。
そりゃ、大学の単位は落とすし、奨学金に手をちょっと付けたことくらいあったけど、一応全部、自分で解決してきたじゃないか!!
「はあ……」
深いため息。
もう考えても仕方ない。
そう、
あれが最上なのだ。
もしも、これで人の手を借りても助けてもらえなかったどうなるか。
それこそ簡単な話。
消防に連絡をされて――救助――される。
そうなればもう、生きていくことなどできない。
多分、ニュースになって、地元の人間にばれて、親からは白い目で見られて、大学で笑いものにされて、卒業まで後少しというところで指を指されて生きる人生に音速で突入だ。
そんな正確は嫌だ。嫌だけど、仕方がない。
そう、仕方がない。仕方がないじゃないか!!
息を一気に吸い込む。
そして一度止める。
おそらく、其の行為は、最後の彼のためらいだったのだろう。
他にもっとやり方はあるんじゃないか?
もっと、己でがんばるべきなんじゃないか?
本当に、これでいいのか?
などなど、色々なことが頭をよぎったに違いない。
しかし、もう考えても仕方がないのだ。
なにせ、もう嵌ってから二〇分が経とうとしている。
もう下半身に感覚がなくなってきている。
というか、もう、なんか接続部分が、変な色に変色し始めている!!
新垣カオルは、口を開ける。
「誰かああああああああ!!!! 助けてくださあああああああああああああああああいいいいいぃいいいいいぃ!!!!!!!!!!」
おそらく、彼はこのとき、人生で最も大きな声を出し、そしてこれからもこれほどまでに誰かに助けを求めることなどしないはずである。
それほどまでに必死な叫び。
だったのだが……。