第三話 怪しさなんて、簡単に計れるものじゃない
「た、たすけてください……、いや、ほんまに……、いや、まじで……。もう母親の財布から、五百円玉ぱくらいから……。人から借りたゲームを、そのまま借りパクしないから……。バイトに遅れないから……。研究するからああああああああああ!!」
新垣カオルの、叫びとならないかすれ声が、僅かに個室のトイレに響く……。
彼が思い切りよく便座に腰掛け、全人類が仰天するほど綺麗に嵌って早一時間。
彼の助けを呼ぶ声がしてから早三〇分。
そして、彼の言葉に応じて返答をしてくれた人の人数……零。
ああ、無常。
これが、社会の厳しさ。
そう、世界か……。
――っておおい!!
おかしい。明らかにおかしい。いくらなんでもおかしい。
どう考えてもおかしい!!
カオルは、便座に嵌ったまま、うなだれた。
彼は死力を尽くしたといえるだろ。
己の恥部を見られることを覚悟で叫び、誰からも、なんの返答もないまま、それでも叫び続けた。
おそらく、彼ほどこの現状で頑張れる人間はいない。
それほどまでの孤独が、ここでは彼を襲っていたのだ。
ああもう、なきそうや。
新垣カオルは、あり得ない、と何かに抵抗するかのように首を無意味に振る。
もう身体からは水分が抜けきったのか、汗もでない。
というよりも、逆に脱水症状にでもなったかのように、意識が朦朧として来ていた。
もしかして、俺はここで死ぬのか?
そんな言葉が彼の頭の中をよぎる。
――いやいやいや、こんなところで死ぬとか、それこそどんな罰やねん!!
俺にはまだまだやりたいことがあんねんて!
ちゃんと社会に出て、社会貢献とか、
好きな人ができて、恋人ができて、仲むつまじく旅行とか行ったりとか、相手の親に挨拶に行って、父親に殴られるとか、でもそれでも認めてもらって、なんとか結婚することができて、それからなんやかんやあってから子どもができて、四苦八苦しながらも、頑張って育てて、今度は孫ができたりなんかしちゃったりして、かと思ったら、今度はひ孫ができたりして?
みたいなさあ!
そういう人生だったはずやねんて!!
それやのになに?
便器に挟まった末に……死亡です……。
って言われる親の気持ちよ!
ってか、このまま死んだら俺の死因ってなにになんの?
もしかして孤独死みたいな?
と、一通り、心の中で嘆きを放ってから、新垣カオルは再度うなだれた。
もう、力が残っていない。
確実に死ぬ。
そんな気持ちを抱えているとき、彼はふとあることに気がついた。
ドアを開けることってできたよな?
ということにだ。
そう、彼はドアの鍵を開けることができるわけである。
それはつまり、少し頑張ればドアに触れることができる、というわけだ。
ドアに触れれば、なにができるのか?
もちろん、ドアを開けれるではないか!
そうや。
そうやんか!!
カオルは、このままドアを開けて、そこから直接叫べば、流石に誰かは自分に気を向けてくれるに違いない。
と、思う。
いくらなんでも、ドアを開けっぱなしにして便座に嵌っている男を見れば、少しくらい温情を掛けてやりたいと思うのが、人の心というもののはずだ。
もしも、そんなことすらないとすれば、この世はもう終わっているといっていいだろう。
よし、思いつけば行動あるのみ!
ということで、新垣カオルは、手を伸ばした。
まずは、ドアの鍵を外す。
そして、ドアを内側に開こう――としたとき……。
ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!!!
という音と共に、世界が揺れた。
「う、うおおおお??」
という間抜けな声漏らしながら、新垣カオルもその揺れを体感する。
彼は咄嗟に頭を守った。
しかし、彼を襲う揺れに、そんな陳腐な防御が利かない。
揺れは次第にさらに大きくなり、彼の視界が定まらないくらいの大きさに膨れ上がった。
言うなれば、頭を思い切り揺らされているようなものである。
それが全身になっているという違いが、現状だった。
口を開けば、舌を噛んでしまう。
と思ったカオルは、歯を食いしばった。
このときの彼の行動は、正しかった。
揺れは、それからしばらく収まらなかった。
だが、しばらくしてから、なんとか落ち着く。
カオルもそれを確認してから、顔をあげた。
だが、彼の視界に映るのは先ほどとは違う景色である。
――あれ?
と一瞬思ってから、ああ、と納得をする。
どうやら、自分は横に倒れてしまっているらしい。
だからこそ、目の前にドアがないのだ。
よっこいしょ、という感じで彼は起き上がる。
辺りを見ると、トイレの天井部分は、コンクリートが剥がれたのだろう。
何かボロボロの岩のようなものがむき出しとなっていた。
――ん? 俺立てたな……。
彼は急いで自らのお尻を見た。
すると、そこには綺麗ないつも通りの、いや、もしかするとこれまでのどんな自分のお尻よりも綺麗かもしれないお尻があった。
さっきの揺れで抜けたんか。
さらに、お尻には汚物の一欠けらもついてはいない。
揺れに揺らされ、転がっているうちに、取れたのか、なんというか、これは棚から牡丹餅だな。と、カオルは笑みを漏らす。
「つっても、こりゃ大丈夫かな?」
確かに、自分の死の危険は免れたのかもしれない。
だが、今の現状はさらに酷いというものといってもいいかもしれない。
彼は現状を見て、すぐに確信した。
これは地震だ。
とうとう全日本で危惧されていたものが起きたのだ。
こりゃ、ドアの向こうはさらに大変になっているかもしれないな。
と、彼は思った。
そして、喉のツバを一度飲み込む。
「とりあえず、出るか……」
どういうわけか、ドアは綺麗に閉まったままである。
この先に進むことに一瞬の恐怖を抱きながらも、彼はドアの鍵部分を持ち、それを引いた。
「うっ!」
新垣カオルは、一瞬の眩しさに目を眇めた。それだけでは光を遮られないので、今度は手で視界を防ぐ。
なんだ、もしかして火でも出てるか?
と思いながら、しばらくしてから、漸く光にもなれてきたので、ゆっくりと目を開けた。
――……。
口をあんぐりと開けながら、新垣カオルはゆっくりと二三歩、前に踏み出た。
上を見て、下を見て、左を見て右を見て……。
それを、二三度繰り返す。
「どこや……ここ……?」
そこに広がるのは、見たことのない景色。
というか、トイレの先にある景色にしては、あまりにも壮大するぎ景色であった。
新垣カオルは、再度目を眇めた。
しかし、今度のそれは光によるものではなく、彼に対して風が吹いたからだった。
独特のにおいのする風と、身体を通り抜けていくその感触。
それは紛れもなく、新垣カオルにここが現実世界であるということを、理解させるものだった。
しかし、なんというか開放感だけは、現実以上な気がした。
「きゃあっ!!」
短い悲鳴が、聞こえる。
なんだ?
と思い、新垣カオルは悲鳴の聞こえたほうを向いた。
すると、そこには無垢な少女が一人。日本では見ることができない赤髪に、瞳の下にはそばかすが目立つ少女である。
その少女は、目を見開いている。それから感じることができるのは、驚きというよりも、驚愕と表現する感情だ。
無垢な少女をそこまでびっくりさせるものが、果たしてどこにあるのだろうか?
と思っていると、その少女の視線の方向に、彼は漸く気がつく。
「ん?」
視線の先、これまた日本では見ることのない赤眼の瞳に映っているのであろうあるイチモツ……。
それは紛うことなき、自分のそれであった。
……ああ、うん、確かに……。
この現状に対して、漸く納得である。
カオルは、先ほどまでトイレの個室にいたのだ。しかも、そこにて便座に嵌るという珍事を演出していた。
そして、地震と思われる現象に遭遇したと思われたところ、奇跡的にそれから抜けた。
つまり……下半身はスッポンポンであるという解が、自然と導き出されるわけである。
うん、納得だ。
ああ、風が透き通るぜ……、って、
言ってる場合じゃねえええええええええええええええええええ!!!!
新垣は、己の中で盛大に叫び散らかした。
ここで、それを声に出さなかっただけ、彼にはまだ人間としての理性が残っていたということなのだろう。
とりあえず、新垣は足を閉じる。
自分が回りからどう思われようとも、現状としてはこれ以上瑣末なものを見せるわけにはいかない。
彼はさらに急いで後ろを振り返る。
どさくさに紛れてこんなところに下半身スッポンポンで出てきてしまったものの、自分が出てきた場所には、それを隠すためのもの、つまりパンツでもズボンでも残っているはずである。
とりあえず、それを急いで履けば万事解決。
しかし、彼のその望みは、強制わいせつ罪という罪を急いで隠蔽しようとする試みは、綺麗に目の前の光景によって砕け散ってしまった。
なぜならそこにあるのは、少女の髪の毛とほぼ同様の色をした、赤い土壁のみだったからだ。
は??
おかしい、
どう考えてもおかしい。
俺は、さっき、ここにあるはずの場所から出てきたはず。
まさか、壁から出てきたとでも言うのか?
と、新垣の頭は混乱し始める。
それも仕方のないことである。
ただでさえ、あらゆることに対して理解できないことが多いというのに、自分がどうやってここまできたのか、ということが謎になってしまっては、本当に意味がわからないではないか。
新垣は、しばらくの間壁を睨みつけていた。
ここでの彼の失態は、おそらくここで壁に対して意識が向いてしまったことなのだろう。
なにせ、彼はその間、綺麗な仁王立ちだった。
つまり、またイチモツが宙ぶらりんになっていたわけである。
そして、それを、無垢な少女は顔を手で多いながらも、指の隙間から見ている。という奇妙な図が出来上がってしまっていたのだ。
そのとき、
「おおい、ラピスぅー。どうかしたかあ?」
おそらく、少女の名前を呼んでいるのであろう男の声が聞こえてきた。
流石の新垣も、現状のやばさに、気がつく。
しかし、彼がそれに気がつくのは遅かった。
少女の名前を呼ぶ男が、新垣の視界の端に現れる。
屈強な肉体に、服の隙間から垣間見ることができるタトゥー。
ああ、こりゃ覚悟を決めないといけないな。
新垣は、とりあえず笑みを見せるにことにした。
そして一言。
「僕は決して怪しいものではありませんよ」




