『四月のメダカ、観測者の寂寥(せきりょう)と桜色のパースペクティブ』
春の陽気が街を包むころ、決まって思い出す記憶がある。
すり減ったスニーカーで歩いた、銀杏並木の喧騒。自分の歩幅が分からなくなり、置いてけぼりを食らったような焦燥感に苛まれた、あの四月。
海峡を越えてたどり着いた東京という街で、私たちは大人と子供の境界線を、ひどく不器用に綱渡りしていた。
これは、変わりゆく季節の中で「変わらないもの」を見つけようと足掻いた、少しだけ不格好で、切ない春の日の記録だ。
第一章:銀杏並木と、新入生という名の合わせ鏡
四月。
東京大学本郷キャンパスは、一年で最も騒がしく、そして最も残酷な季節を迎える。
「新歓(新入生歓迎)」という名の、サークル勧誘の嵐だ。
赤門から安田講堂へと続く銀杏並木は、立て看板と、色とりどりのジャンパーを着た上級生たちで埋め尽くされている。
情報の濁流の中を、おどおどと歩く真新しいスーツ姿の群れ。新入生たちだ。
「……見事なもんやね」
私は、使い込まれた革鞄を胸に抱きかかえるようにして、人波の端っこを歩いていた。
大学院へ進学するという腹は、もう括った。小夜香ちゃんとの約束、葛城さんの言葉、そして自分自身の「まだこの歴史の地層を掘り続けたい」という欲求。
進路が確定したことで、私の心には一種の凪が訪れていたはずだった。
「佐藤、ビラ踏んどるぞ」
横を歩く岩井淳が、無機質な声で指摘した。彼もまた、大学院の物理学専攻へ進むための準備に入っている。
足元を見ると、テニスサークルのパステルカラーのビラが、私のすり減ったスニーカーの下で泥に塗れていた。
「あ、ごめん」
「まあええわ。エントロピーは常に増大する。ゴミが散らかるのも宇宙の真理や」
「あんた、新歓のビラを宇宙の真理で片付けるのやめり」
すれ違う新入生たちを見る。
いかにも「洋服の青山」で親と一緒に買いました、という真面目なスーツ。キョロキョロと周囲を窺う、怯えたような、それでいて希望に燃える目。
「……俯瞰して見ると、田舎もんってバレバレやね」
私がポツリと呟くと、淳も鼻で笑った。
「ああ、あの辺りとか完全に西日本のアトモスフィアを纏っとるわ」
「分かる。あの子の鞄の持ち方、なんか博多駅でおどおどしとった時のうちらにそっくり」
三年前。私たちも間違いなく「あっち側」だった。
関門海峡を越えて、この巨大な知の迷宮に放り出された田舎者。
あの頃の自分が、合わせ鏡のように彼らの姿に重なる。
「……なんか、少し切なくなるね」
「感傷に浸る暇があったら、院試の過去問解け。俺らはもう、羊の皮を被った老犬や」
淳の身も蓋もない言葉に苦笑しながら、私は図書館の重い扉を開けた。
席に座り、専門書を開く。
その時だった。ポケットの中で、スマートフォンが「ブルッ」と短く震えた。
LINEの通知。送り主は、藤島蓮。
『今日、建築学科のオリエンテーションでした! 凄かったです。周り、めっちゃオシャレで賢そうな人ばっかりで、ちょっと圧倒されてます(笑)』
その文面を見た瞬間。
私の脳の隅っこ——右の耳の奥のあたりにある、小さな水たまりのような場所で。
一匹のちっちゃなメダカが、ツンッ、と脳の壁を突っついた。
第二章:脳内で飼い始めた一匹のメダカ
四月になり、蓮くんは早稲田大学の建築学科という、新しい世界へ足を踏み入れた。
卒業式の日の、あのファーストキス(思い出すだけで顔から火が出る)。
その後、私たちは「付き合っている」という明確な契約を結んではいないものの、明らかに「そういう空気」になっていた。
そして「四月にデートしてください」という彼の予約は、ついに今週末、実行に移される。
順風満帆。春爛漫。
恋愛偏差値ゼロだった佐藤静香の人生に、ついにピンク色の花が咲き乱れる……はずだった。
だが、現実はそう甘くない。
彼からのLINEが来るたびに、私の脳内のメダカは、忙しなく泳ぎ回り、壁をツンツンと突くようになった。
『今日はサークルの新歓コンパに顔出してきました。建築デザイン系のサークルなんですけど、先輩たちがみんなプロみたいでカッコよくて!』
『同級生の女の子が、ル・コルビュジエの建築群を巡るツアーを企画してくれて、今度みんなで行くことになりました』
……ツンッ。
……ツンツンッ。
メダカが突くたびに、私の心に黒いインクが一滴ずつ垂らされていく。
(……早稲田の、デザイン系サークルの、女の子)
東大の歴史文化学科の、ジャージで半額シールを追いかけている女とは、細胞レベルで構成物質が違う生き物だろう。
圧倒的敗北感。
私が彼にとって「特別な存在」になれたのは、彼が「受験生」という狭い世界に閉じ込められていたからだ。
今、彼は無限の広がりを持つ海に放たれた。
キラキラとした新しい出会いが、古臭い革鞄を持った田舎者の私のことなんて、あっという間に過去の遺物に押し流してしまうのではないか。
「忘れさせるのなんて、簡単なことやろうな……」
彼が私を嫌いになるわけじゃない。ただ、もっと魅力的な光に目を奪われて、自然とフェードアウトしていく。
その光景がリアルに想像できてしまって、苦しい。
『今週末のデート、神楽坂でどうですか? 静香さんが好きそうな、古い路地裏とかもあるらしいんで』
画面の向こうの彼は、相変わらず無邪気で優しい。
でも、その優しさすら、今は「新しい世界を知った大人の余裕」に見えてしまう。
乙女心というやつは、なんて面倒くさいんだろう。
第三章:赤門ラーメンと、観測不能な寂寥
翌日の昼休み。
本郷の中央食堂で、私は絶望的な顔をして「赤門ラーメン」の麺をすすっていた。
辛いものを胃にぶち込まないと、自我が保てない気がしたのだ。
向かいの席では、淳が大盛りのカレーを無心で掻き込んでいる。
「……はぁ」
私が今日十回目になる深溜息をつくと、淳がスプーンを止めた。
「おい、静香。さっきからお前が吐き出しよる二酸化炭素のせいで、食堂の気温が〇・一度下がった気がするぞ」
「……物理的な嫌味はやめり。こっちは真剣に悩んどるんよ」
「ほう。卒論か? 院試か?」
「どっちも違う。……もっと、こう、人間的な、ドロドロしたやつ」
淳は眼鏡を押し上げ、私の顔をじっと見た。
「……さては、例の『合格した生徒』の件か」
ギクッとした。
この男、色恋沙汰には鈍感なはずなのに、私に関することだけは無駄に勘が鋭い。
私は周りに人がいないことを確認し、箸でどんぶりをツンツンと突きながら白状した。
「……あの子、早稲田に入って、毎日楽しそうなんよ。新しい女の子の友達とか、サークルとか」
「健全なキャンパスライフやないか」
「そうなんやけど! ……なんか、置いていかれるような気がして。いや、私の方が年上やし、先輩なんやけどさ。あっちの世界の方がキラキラしとって……」
私は、頭の中でメダカが暴れていること、自分が彼にとって「過去の珍しい石ころ」になってしまうのではないかという不安を、一気に語った。
「私からキスまでしといて、今さら『自信がない』とか、ほんとバカみたいやけど……」
「……は?」
淳の動きが、完全に停止した。
持っていたコップが、テーブルにカツンと置かれる。
「お前……今、なんちゅうた?」
「え?」
「キス、したんか。……お前が、あの高校生(元)に」
静香はハッとした。
(しまった。キスしたことは、誰にも言ってなかったのに……!)
「あ、いや! その、場の勢いというか、卒業のお祝いで、おでこにチュッみたいな……」
「嘘をつけ。お前の動揺係数からして、そんな可愛いもんやないやろ」
淳の視線が、私の顔を射抜く。
いつもの、理屈っぽい呆れ顔ではない。
目が見開かれ、そして、どこか遠くを見るような、複雑な色を帯びていた。
淳の胸中には、静かな衝撃が走っていた。
(こいつが……恋、しとったんか)
関門トンネルの暗闇で、一言も喋らずに単語帳を睨みつけていた女。
半額シールをめぐって、スーパーのおばちゃんと格闘していた女。
そんな「機能性一点張り」の戦友が、誰かに恋焦がれ、自分から唇を奪い、そして今、年下の男に嫉妬してウジウジと悩んでいる。
淳の脳裏に、不意に去年の夏の花火大会の記憶が蘇った。
靴擦れを起こした静香をおんぶした、あの夜。
背中に感じた彼女の体温。首筋に触れた髪の感触。シャンプーと、汗の混じった、確かな「女の子」の匂い。
あの時、淳の心の中に微かに芽生えた、「もしかして、俺とこいつの軌道は、いつか交わるんじゃないか」という予感。
失恋で傷ついていた淳にとって、静香という存在は、絶対に変わらない「基底状態」だと思っていた。
だが、違った。
彼女は、俺の知らない場所で、俺の知らない顔を見せ、俺の知らない男と、新しい世界を構築し始めていたのだ。
「……そうか」
淳は、小さく息を吐いた。
胸の奥に広がる、チクリとした痛み。
それは間違いなく「寂しさ」だった。
俺たちの「動く自習室」は、もう俺だけのものじゃなくなる。こいつは、俺の隣から卒業していくんだ。
「淳……? 引いた? やっぱ、引いたよね」
静香がおそるおそる顔を覗き込んでくる。
その不安そうな目を見て、淳はふっと笑った。寂しさを、分厚い鉄板の下に封じ込めて。
「引いてないわ。ただ、お前みたいなゴリラでも、乙女の回路が実装されとったことに、生物学的な驚きを感じとるだけや」
「ゴリラって誰がよ!」
淳は、自分の使い古したリュックをポンと叩いた。
「静香。お前、アインシュタインの『相対性理論』は知っとるな」
「……は? また物理?」
「いいから聞け。運動している物体の時間の進み方は、静止している観測者から見ると遅れる。つまり、お互いが『自分の時間の方が正しい』と思っとるわけや」
淳は、静香の目の前に水の入ったコップを置いた。
「今、あいつは『新入生』というロケットに乗って、凄まじい速度で新しい環境を飛び回りよる。だから、お前の目から見ると、あいつがどんどん遠くへ行って、自分だけが取り残されとるように錯覚する」
「……錯覚?」
「そうや。相対的なもんや。あいつから見たら、東大で院進を決めて、自分の研究をどっしり構えてやろうとしとるお前の方が、圧倒的に『先』を行っとるように見えるはずやぞ」
静香は、コップの水面を見つめた。
「それにやな」
淳は、少しだけ声を優しくした。
「環境が変わって、新しい言葉を覚えても、人間の『質量』っていう本質はそう簡単に変わらん。……俺は、お前がどれだけ泥臭くて、意地っ張りで、でも芯の通った女か、六年間ずっと見とったから知っとる」
淳は、まっすぐに静香を見た。
「お前があいつのどこに惚れたんか知らん。でも、お前のその『本質』が数週間で消えてなくなるようなペラペラな男なら、最初からお前の相手にはふさわしくない。それだけのことや」
冷徹な、しかし紛れもない「戦友」としての最大のエールだった。
「……あんたさ、たまに腹立つくらい的確なこと言うよね」
静香の目から、ウロコが落ちたような光が戻った。
「俺は常に宇宙の真理を代弁しとるだけや。田舎の越境通学組のクセに、早稲田の女子に嫉妬するとか、身の程を知れ」
「うるさいわね! 嫉妬くらいするわ、乙女なんやから!」
「はいはい。乙女は赤門ラーメンにニンニク追加したりせんのよ」
淳と他愛のない口喧嘩をしているうちに、静香の脳内のメダカは少しだけおとなしくなった。
向こうは向こう。私は私。
私は佐藤静香のやり方で、彼とのデートに向き合えばいいのだ。
淳は、カレーの皿を片付けながら、心の中で小さく呟いた。
(行けよ、静香。お前の選んだ道なら、俺は全力で観測してやる)
ほんの少しの苦さを、食後のコーヒーで流し込みながら。
第四章:機能性と乙女心のデッドヒート
土曜日の朝。
デート当日。
アパートの姿見の前で、私は「佐藤静香のやり方」に限界を感じていた。
「……服が、ない」
ベッドの上に散乱しているのは、私のクローゼットの全財産だ。
グレーのパーカー。チェックのネルシャツ。機能性抜群のチノパン。
早稲田の建築ボーイの隣に、農作業の手伝いから抜け出してきたような女が並ぶ。想像しただけで、神楽坂の石畳が割れそうだ。
私は慌ててスマホを手に取り、ゼミの友人で美の象徴であるエリに助けを求めた。
『SOS! デートに着ていく服がない!』
「静香ちゃん! ついに今日だっけ!?」
電話越しのエリの指示は的確だった。
「前に私が無理やり貸した『水色のシフォンワンピース』、まだ持ってる? トレンチコートを羽織れば、甘さが中和されてちょうどいい『大人のお姉さん』になるから! 靴は黒のパンプス! 鞄はいつもの革鞄は封印して、小さなトートバッグ!」
エリの熱血指導を受け、私は武装を整えた。
鏡の前に立つ。
そこには、「真面目なガリ勉東大生」の面影は薄れ、どこかソワソワした、一人の「恋する女の子」がいた。
「……よし。なんとかなる、はず」
深呼吸をして、部屋を出る。
脳内のメダカは、まだ「大丈夫? 変じゃない?」とヒレをパタパタさせている。
でも、もう後戻りはできない。私は、決戦の地・神楽坂へと向かう総武線に乗り込んだ。
第五章:神楽坂のランデブー、不揃いな歩幅
神楽坂駅、矢来口。
待ち合わせの十分前。
「静香さん」
背後から呼ばれて、振り向くと、そこには藤島蓮がいた。
白いバンドカラーのシャツに、薄手のネイビーのジャケット。
高校の制服という「枠」が外れたことで、彼が本来持っていた大人びた雰囲気が、何倍にも増幅されていた。
(カッコいい……)
同時に、私の脳内メダカが猛烈に暴れ出した。
(ほら見ろ! 完全に洗練された東京の大学生やないか! 釣り合わんて!)
「ごめんなさい、待たせましたか?」
「う、ううん。……なんか、雰囲気変わったね」
「そうですか? 静香さんこそ……」
蓮くんの視線が、水色のワンピースへと注がれる。
「すごく、綺麗です。いつもと違うから、最初気づかなかった」
顔がカッと熱くなる。
私たちは歩き出した。神楽坂のメインストリートは、和と洋が混在する洗練された街だ。
並んで歩く。彼の歩幅が大きく、気がつくと少しだけ前を歩かれてしまう。
「……あ、ごめんなさい。俺、歩くの早かったですね」
蓮くんが立ち止まり、私の手元を見た。
「先生……いや、静香さん。今日の鞄、いつものじゃないんですね」
「あ、うん。ちょっとデートには重いかなと思って」
「そうですか。……あの鞄、俺、好きだったんですけどね」
蓮くんは少し寂しそうに笑った。
その言葉に、私は胸がチクッとした。
カフェに着き、窓際の席に向かい合って座る。
「大学、どう?」
私が聞くと、蓮くんの顔がパッと輝いた。
「めちゃくちゃ面白いです! 製図の授業も始まったし、建築史の講義も刺激的で。あ、そうそう、こないだサークルの先輩たちと……」
彼の口から次々と出てくる「新しい世界」の言葉たち。
私は「へえ、すごいね」と相槌を打つ。
でも、笑顔の下で、私のメダカは完全に泣き出していた。
(やっぱり、彼にとっては毎日が輝いとるんや。それに比べて、私の毎日は地味な古文書との睨み合い……)
「……静香さん?」
蓮くんが、ピタリと話をやめた。
「今日、なんか元気ないですか? 無理して笑ってるみたいに見えます」
図星だった。この子には、隠し事ができない。
私は、膝の上のトートバッグをぎゅっと握りしめた。
「……ごめん」
意を決して顔を上げた。もう、強がるのはやめよう。
「蓮くんの話聞いてたらさ、新しい世界でキラキラしとって、どんどん前に進んでいってて。……それに比べて、今日の私、服も鞄も無理して背伸びしとるし、歩幅も合わんし。なんか……釣り合わんのやないかって、勝手に凹んどったんよ」
みっともない。年上のくせに、嫉妬深くて、自信がない。
第六章:変わらない定数、桜色のメダカ
沈黙が落ちた。
だが、テーブル越しに伸びてきた彼の手が、私の震える手を、そっと包み込んだ。
「……静香さん」
顔を上げると、蓮くんは愛おしそうな、それでいて少し困ったような顔をして笑っていた。
「俺が、どうして今日ずっと自分の話ばっかりしてたか、分かりますか?」
「え?」
「俺も、必死だったんです。静香さんに『俺、大学でこんなに頑張ってるよ』って、背伸びしてアピールしたかったから」
蓮くんは、私の手を優しく握り直した。
「静香さんは、今日すごく綺麗で、大人の女の人に見えて。俺、待ち合わせの時に心臓止まるかと思ったくらい緊張してて。……だから、一生懸命しゃべって、釣り合おうとしてたんです」
「蓮くん……」
「俺の方こそ、静香さんが遠くに行っちゃう気がして怖かったんです。東大の大学院に行くって決めて、どんどんすごい研究者になっていく。俺なんて、まだ製図の鉛筆の削り方で怒られてるレベルなのに」
私たちは、お互いに「錯覚」をしていたのだ。
淳の言った通りだった。
違うロケットに乗って飛び出した二人が、お互いのスピードに勝手に焦って、自分だけが取り残されていると思い込んでいた。
「俺の世界が新しくてキラキラしてるように見えるなら、それは、静香さんが俺に『勉強の面白さ』を教えてくれたからです」
蓮くんの瞳が、少しだけ潤んでいるように見えた。
「だから、俺の中で静香さんは、ずっと『特別』なままです。周りにどんなにオシャレな女の子がいようと、俺が一番カッコいいと思ってるのは、ボロボロの革鞄を抱えて、難しい顔で歴史の本を読んでる、佐藤静香さんなんです」
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳内で暴れ回っていたメダカが、ピタリと動きを止めた。
そして、冷たい水たまりだと思っていた場所が、ぽわんと温かくなり、桜色の光で満たされていくのを感じた。
あぁ、なんだ。
この人は、私の「本質(質量)」を、ちゃんと分かってくれている。
「……バカ。そんなこと言われたら、泣きそうになるやん」
私は彼の手を軽く握り返した。
「泣いてもいいですよ。俺が隠しますから」
「年下のくせに、生意気」
私たちは、顔を見合わせて笑った。
「……次からは、いつもの革鞄で来ます」
「はい。俺も、無理して背伸びするのはやめます」
「でも、このワンピースは……似合っとる?」
「最高に可愛いです。帰りたくなくなるくらい」
カフェを出て、私たちは再び神楽坂の石畳を歩き出した。
今度は、彼の歩幅が少し小さくなり、私の歩幅とぴったり合っていた。
手を繋ぐ。彼の少しひんやりとした手と、私の温かい手。
「静香さん。ゴールデンウィークに、建築の課題で下町を歩かなきゃいけないんですけど。……案内、お願いできませんか?」
「ん? 建築の課題で下町めぐり?ふふっ。しょうがないね。本郷界隈なら、葛城さん仕込みのディープな案内をしてあげる」
「それもあるんですけど。……本郷じゃなくて、下関に行ってみたいんです」
不意の提案に、私は目を丸くした。
「えっ? 下関?」
「はい。静香さんが育った街、見てみたくて。古い銀行とか、洋館とか、歴史的な建築も多いって聞きましたし」
私のルーツを見たいと言ってくれる、彼のその真っ直ぐな気持ちが嬉しくて、私は胸の奥がキュンと鳴るのを隠すように、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「下関かぁ……。ふふっ、何もないところやけど、海も近くていい街よ。面白い場所、いっぱい案内しちゃる……と言いたいところなんやけどね」
「あれ? 違うんですか?」
「私の青春の九割は、下関の土地の上やなくて、関門海峡の海底トンネルと、北九州までの電車の中にあったけぇね。地元のディープなところ、意外と知らんのよ」
「あはは、そうでしたね。単語帳と戦うのに忙しかったから」
蓮くんが、愛おしそうに目を細める。
「そうよ。だから……一緒に歴史や建築を楽しもう。私の知らん故郷の景色を、蓮くんの『建築家の卵』としての新しい視点で教えてよ」
「はい。最高の旅行プラン、立てますね」
空を見上げると、桜の花びらが一片、風に乗って舞い落ちてきた。
四月の憂鬱は、もうどこにもない。
新しい季節は、二人で一緒に、ゆっくりと作っていけばいい。
私の脳内のメダカは、今度は不安で壁を突くのではなく、心地よい春の水面を、嬉しそうに跳ね回っていた。
誰かの歩幅に合わせようと背伸びをして、勝手に傷ついていた日々。
今振り返ればひどく滑稽で、それでもあの時は、脳内を泳ぐ一匹のメダカの行方が世界のすべてだった。隣で静かに観測を続けてくれた、不器用な戦友の寂寥に気づくことすらできないまま。
桜が散り、青葉が芽吹くように、私たちは何かを少しずつ失いながら大人になっていく。あの神楽坂の石畳に置いてきた青い痛みが、どうか皆さまの心の中で優しく昇華されますように。




