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ブルーベリー・キスの後遺症と、解けない恋のパラメーター

春の匂いがする風に吹かれると、どうしてこんなにも胸が落ち着かなくなるのでしょうか。

これは、難解な歴史の史料や複雑な数式よりもずっと厄介な、「恋」というバグに直面してしまった、とある理屈っぽい女子大生の奮闘記です。

背伸びして自分から奪ってしまった、あの日、あの渡り廊下での甘くて柔らかな感触。

論理ロジックではどうしても割り切れない、体温がほんの少しだけ上がったような、もどかしい一週間。

あなたも一緒に、この甘酸っぱい「微熱」に感染してみませんか?

第一章:唇に残る、一週間の微熱


三月の中旬。東京の空は、冬のコートをクリーニングに出すべきか迷わせるような、曖昧な色をしていた。


本郷のキャンパス。赤門の脇にあるベンチで、私、佐藤静香は死にかけていた。

死因は、酸欠ではない。

一週間前の「あの出来事」による、慢性的な心拍数の上昇と、自意識の暴走だ。


「……あー、もう」


手元にあるのは、明治期の外交文書のコピー。

普段なら、伊藤博文の筆跡に萌え、陸奥宗光の駆け引きに唸るところだ。

だが今、私の網膜には、まったく別の映像が焼き付いている。


――西日の差す渡り廊下。

――閉じた瞳の、長い睫毛まつげ

――そして、触れた瞬間の、あの柔らかい感触。


「……ぎゃあぁぁぁ」


私は文書を顔に押し当て、ベンチの上で海老反りになった。

変質者ではない。ただの恋する乙女の末路だ。

あの日。蓮くんの高校の卒業式。

私はあろうことか、自分からキスをした。

「お祝いよ」なんて、カッコつけた台詞を吐いて。

年上のお姉さんぶって。余裕のあるふりをして。

だが、ここで重大な事実を告白しなければならない。

あれは、私にとってもファーストキスだったのだ。


二十一歳。東大文学部三年。


関門海峡を越えて上京し、学問とバイトと半額シールに青春を捧げてきた女、佐藤静香。

恋愛偏差値は測定不能データなし

そんな私が、一回りも二回りも恋愛経験がありそうな(勝手な偏見だが)イケメン高校生に、自分から唇を奪いに行ったのだ。


「……身の程知らずにも程があるやろ……」


今になって、羞恥心が津波のように押し寄せてくる。

あの時の感触が、一週間経っても消えない。

唇に、甘酸っぱいブルーベリーのジャムを塗られたまま放置されているような気分だ。

舐めても拭っても、その甘さと酸味が消えてくれない。


蓮くんからは、あの日以来、連絡がない。

『四月になったらデートしてください』という予約はある。

でも、今のこの沈黙は、彼もまた動揺しているからなのか、それとも「年上のくせにガツガツしすぎ」と引かれているのか。

思考がネガティブなスパイラルに陥り、私の脳内CPUは完全にフリーズしていた。


第二章:ゼミ室の探知機


「……佐藤さん。佐藤さん?」


「は、はいっ!」


真島ゼミの研究室。

教授の声に、私は椅子から飛び上がりそうになった。


「君、さっきから上の空だが。私の『大正デモクラシーの限界』についての講義が、そんなに退屈かね?」


「い、いえ! 滅相もございません! 民本主義の矛盾、痛感しております!」


必死に誤魔化したが、教授は怪訝けげんな顔をして黒板に向き直った。

ふと横を見ると、隣の席のエリが、シャーペンを回しながら私をジロジロ見ている。

エリ。

あの越後湯沢のスキー合宿で、同じ部屋で夜を明かした唯一の女友達。

彼女の目は、歴史学者の目ではなく、完全に「獲物を見つけた狩人」の目だった。


(……バレとる)


講義が終わるや否や、エリが私の脇腹をツンと突いた。


「静香ちゃん。顔に『私は恋の逃亡者です』って書いてあるよ」


「なっ……! 書いてないわ!」


「書いてある。しかも、かなり重症のやつ」

エリはカバンを片手に、ニヤリと笑った。


「今日、空いてるでしょ? 夜ご飯行こ。場所は末広町」


「え、末広町? なんでまたそんな渋いとこ」

「いいから。美味しいハンバーグのお店見つけたの。そこで『自供』してもらうからね」


拒否権はなかった。

今の私には、このパンパンに膨れ上がった風船のような心を、誰かに割ってもらいたいという願望もあったのだ。


第三章:末広町の懺悔室


末広町。秋葉原と上野の間に挟まれた、少しエアポケットのような街。

大通りの喧騒から一本入った路地裏にある、レトロな洋食屋『キッチン・スエヒロ』。

オレンジ色の照明と、チェックのテーブルクロスが、昭和の香りを漂わせている。


「……で? 何があったの?」


デミグラスソースのかかったハンバーグを切り分けながら、エリが単刀直入に切り出した。

私は観念して、水を一口飲んだ。


「……したんよ」


「何を?」


「……き、キス」


ガチャン。

エリのフォークが皿に落ちた。


「えっ!? 嘘!? あの年下くんと!?」


「声がでかい! シーッ!」


私は慌てて周囲を見渡した。幸い、客はサラリーマンのおじさん一人だけだ。


「え、待って待って。卒業式の日に? 向こうから?」


エリの目がキラキラ輝いている。

私は首を横に振った。


「……私から」


時が止まった。

エリは口を開けたまま固まり、そしてゆっくりと、その顔が崩壊するように笑顔になった。


「やだ……! 静香ちゃん、やるじゃん! 肉食! 女豹!」


「違うわ! 成り行きというか、魔が差したというか……!」


私は、あの日の渡り廊下での出来事を、事細かに説明した。

西日。制服のボタン。彼の告白。そして、私の暴走。


「……でね、エリちゃん。笑わんで聞いてほしいんやけど」


私は、一番言いにくいことを口にした。


「あれ……私の、ファーストキスやったんよ」


エリは一瞬きょとんとして、それからテーブルに突っ伏した。

肩が震えている。


「……可愛い。可愛すぎる。無理」


エリが顔を上げると、涙目になっていた。


「何そのギャップ。普段、明治時代の資料読んで『民衆の蜂起が〜』とか言ってる東大生が、震えながら年下の男の子にファーストキス捧げるとか……萌え死ぬわ」


「こっちは死活問題なんよ! 一週間経っても、唇が熱いんよ! 恥ずかしくて教科書も読めん!」


私が頭を抱えると、エリは優しく私の背中をさすった。


「いいなぁ。それが『青春』ってやつだよ、静香ちゃん。ブルーベリーみたいな味した?」


「……味なんか分からんわ。緊張で味覚麻痺しとったし。ただ……柔らかかった」


私がボソッと言うと、二人は顔を見合わせて「きゃーっ!」と声を殺して悶えた。

店主のオヤジさんが、「学生さんは元気だねぇ」と苦笑いしながらお冷を注ぎに来てくれた。


第四章:迷宮のカフェと、困った店長


ハンバーグを食べ終え、店を出たのは八時過ぎだった。

夜風が少し冷たいけれど、エリに全てを吐き出したおかげで、胸のつかえが取れた気がした。


「ねえ、コーヒー飲んで帰ろっか」


エリが提案した。


「賛成。口の中が甘すぎて、ブラックが必要」


私たちは、大通り沿いにある一軒のカフェに入った。


『カフェ・ロジック』


少し無機質なコンクリート打ちっ放しの内装に、たくさんの本が並べられている、今風の店だ。


「いらっしゃいませ……」


出迎えたのは、エプロン姿の若い男性店員だった。

しかし、その表情は「いらっしゃいませ」というよりは「助けてください」と言っているようだった。

目の下にくまがあり、髪はボサボサ。

カウンターの上には、レシートの山と、手書きのメモが散乱している。


「……やってますか?」


私が尋ねると、彼は力なく頷いた。


「はい。やってます。……ただ、提供に少しお時間がかかるかもしれません。今、ワンオペで……しかも、これのせいで……」


彼は、手元のノートパソコンを恨めしそうに睨んだ。

私たちはコーヒーを注文し、近くの席に座った。

客は私たち以外に一組だけ。

しかし、店員さんはコーヒーを淹れる手もままならない様子で、何度もパソコンの画面を見ては頭を抱えている。


「……気になるね」


エリが小声で言った。

「うん。あのパソコン画面、エクセルやな。しかも、かなり複雑な表計算」


静香の「お節介センサー」と「解析癖」が反応した。

私は立ち上がり、カウンターへ近づいた。


「あの……何かお困りですか?」


店員さんはビクッとして顔を上げた。


「え、あ、いえ……その……」


彼は迷った末に、せきを切ったように話し出した。


「実は、来月のシフトが組めないんです」


彼はこの店の店長だった。


「バイトが五人いるんですけど、みんな希望がバラバラで……。A君は火曜と木曜しかダメ、Bさんは朝だけ、C君は稼ぎたいけど土日は不可……。さらに、ランチタイムは最低三人必要で、原価計算もしなきゃいけなくて……」


彼は泣きそうな顔で画面を見せた。

そこには、パズルのピースが埋まらないシフト表があった。


「もう三時間もやってるんです。あっちを立てればこっちが立たずで……。僕、数学とか苦手で……」


私は画面を覗き込んだ。

確かに複雑だ。変数が多すぎる。

これは単なるシフト作成ではない。「制約充足問題(Constraint Satisfaction Problem)」だ。


「……エリちゃん」


私は振り返った。

エリはすでに、鞄からノートとペンを取り出していた。


「やる?」


「やろう。私ら、文系だけど東大生やもんね。論理パズルは好物よ」


第五章:東大脳、起動


「貸してください」


私は店長さんからシフト表の条件メモを受け取った。


「え、でもお客さんにそんな……」


「いいから。美味しいコーヒー飲みたいんで、これ解決させてください」


私はノートを広げた。

スイッチが入る。

恋に浮かれていた乙女モードから、偏差値を武器に戦う「東大モード」へ。


「まず、条件整理するよ。変数はスタッフ五人(A,B,C,D,E)と店長。時間帯は①モーニング、②ランチ、③ティー、④ディナーの四区分」


私がペンを走らせる。


「A君の制約条件は『火・木のみ』かつ『④は不可』。これは固定パラメーターとして先に埋める」


「Bさんは『扶養控除内』だから、週の労働時間に上限があるわね。時給1100円として、月8万8千円以下。つまり週20時間以内」


エリが素早く計算機を叩く。

店長さんは、ポカンとして私たちを見ている。


「あ、あの……すごい速さで……」


「ここがネックね」


私はペン先で一点を指した。


「水曜のランチ。C君とDさんが同時に不可になってる。ここを埋めるには、E君を投入するしかないけど、E君は前日遅番だから、労働基準法的にインターバルが足りない」


「詰んだ……」


店長さんが絶望的な声を上げた。


「いや、詰んでない」


私はニヤリと笑った。


「ここで『ゲーム理論』を応用するんよ」


「ゲーム理論?」


「そう。スタッフ全員の利害を調整するナッシュ均衡点を探す。……店長、このC君って子、土日不可って言ってるけど、理由は?」


「えっと、サークルの練習があるとかで……」


「サークルなら、雨の日は休みになる可能性が高い。あるいは、時給アップというインセンティブを与えれば動く可能性がある」


私は店長に指示した。


「C君に今すぐLINEして。『水曜ランチに入ってくれたら、まかないにデザートつけます』って交渉して」


「えっ、そんなことで?」


「動くわよ。男子学生なんて、胃袋掴めばチョロいもんや」


(自分の経験則ではないが、タケダたちを見ていれば分かる)


数分後。


『マジっすか? じゃあ行きます』とC君から返信があった。


「よし、C君確保! これで水曜の穴は埋まった」


エリがガッツポーズをする。


「あとは、このBさんと店長のシフトを入れ替えれば……ほら、コストも予算内に収まる!」


私はノートに書いた図を指差した。

複雑に絡み合っていた線が、一本の綺麗な解法へと繋がっていく。

数学的な美しさすら感じる、完璧なシフト表。


「……で、できた」


店長さんは、震える手でノートを受け取った。


「す、すごいです……! あんなに悩んでたのに、たった十五分で……! あなたたち、何者なんですか!?」


私とエリは顔を見合わせた。


「ただの、通りすがりの歴史オタクと経済オタクです」


「コーヒー、美味しかったです。ごちそうさま」


私たちは、お代はいらないと言う店長にお金を置いて、颯爽さっそうと店を出た。


第六章:夜風の成分


「あー! スッキリした!」


外に出ると、エリが大きく伸びをした。


「久しぶりに頭使ったわー。やっぱり、難問が解ける快感ってあるよね」


「ほんとやね。恋の悩みは全然解けんのに、シフト表なら解けるなんて皮肉やわ」


私も笑った。

一週間、ずっとウジウジ悩んでいた。

ファーストキスをしてしまった恥ずかしさ。

蓮くんとの関係性。

答えの出ない問いに、押しつぶされそうになっていた。

でも、今分かったことがある。

私は、やっぱり「考えること」が好きだ。

複雑な状況を整理し、論理を組み立て、答えを導き出す。

その「知の力」は、受験のためだけにあるんじゃない。

困っている誰かを助けたり、友達と笑い合ったりするための、素敵なツールなんだ。

「ねえ、静香ちゃん」

エリが夜空を見上げて言った。


「蓮くんとのこともさ、そんなに難しく考えなくていいんじゃない?」


「え?」


「シフト表と同じだよ。今は『条件』が複雑に見えるかもしれないけど、整理してみたら案外シンプルかもよ。『好き』っていう固定パラメーターさえあれば、あとはどうとでもなる」


「……『好き』が固定パラメーター、か」


私はその言葉を反芻はんすうした。

物理学者の淳なら「定数」と言うだろうか。

でも、エリの言葉の方が、今の私にはしっくりくる。

私には、蓮くんが好きだという気持ちがある。

彼も、私を好きだと言ってくれた。

それが揺るがないなら、先生とか生徒とか、年上とか年下とか、そういう「変数」は、これから二人で調整していけばいいのだ。

美味しいまかない(デート)というインセンティブを使いながら。


「ありがとう、エリちゃん。……なんか、勇気出た」


「どういたしまして。その代わり、次のデートの報告書は、A4用紙三枚以内で提出すること。期限は厳守よ」


「うっ……善処します」


二人は末広町の交差点で笑い合った。

信号が青に変わる。

春の夜風が、私のトレンチコートの裾を揺らす。

唇に残っていたブルーベリーの味は、いつの間にか、爽やかなミントの香りに変わっていた。

恥ずかしさはまだあるけれど、それはもう「重荷」ではない。

これから始まる新しい季節への、甘いスパイスだ。


「よし、帰って勉強しよ!」


「私も! 卒論のテーマ、ちょっと見えてきたかも」


私たちは、それぞれの帰路についた。

東大女子の夜は長い。

恋も、勉強も、人助けも。

全部全力でやらなきゃ、気が済まないのだから。


(でも、次に蓮くんに会ったら、今度こそ向こうからキスしてもらおう)


そんな乙女な計算をこっそりノートの隅に書き留めながら、私は足取り軽く駅への階段を降りていった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

他人のシフト表の最適解は鮮やかに導き出せても、自分の恋の数式となると途端にポンコツになってしまう。そんな静香の、不器用で愛おしい日常の一コマをお届けしました。

「好き」という、たった一つの揺るぎないパラメーター。

それさえ胸の真ん中に置いておけば、年齢差も、立場も、これから二人でいくらでも調整していけるはずです。

次に会う約束の四月。ノートの隅にこっそり書き留めた彼女の「乙女な計算」は、果たして彼に通用するのでしょうか。それともまた、彼のペースに甘く巻き込まれてしまうのか……。

ページを閉じた後も、読者の皆様の唇に、爽やかなミントとほんの少しのブルーベリーの余韻が残っていれば幸せです。

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