その2 少年騎士の目撃談
ここ数日間、リジャールとその同僚達は忙しく動き回っていた。
一ヶ月ほど前から、新市街では謎の火事が相次いでいる。
最初の数件は失火と考えられていたが、あまりに頻繁に起きるために、これは放火ではないかという声が市民の間から上がりはじめた。
それで、衛兵隊の探索方が動き始めたのである。
まずは火事場に行って検分をし、付近の者に聞き込みを行う。動機は不明ながら放火をしそうな者が市内にいないか、広く情報を集める。
そうして調査を始めた矢先に起きたのが、昨夜の殺人事件であった。
殺されたのは一人暮らしの老人で、寝ているところを鈍器のようなもので頭を叩き潰されたらしく、その遺体は見るも無惨な有様だったという。
その知らせを聞いたリジャールは、火事の調査を同僚達に任せて、殺人事件の目撃者だというアルフォンスに話を聞きに来たのである。
騎士の身なりをしているアルフォンスは、自己紹介の時にも自由騎士だと名乗った。
自由騎士とは、貴族の家に生まれ騎士としての叙勲を受けながら、どこの国家にも君主にも仕えていない者たちの総称である。
彼らがそうなる理由は様々だが、アルフォンスの場合は行方不明となった姉を探すために、主君に暇を申し出たのだという。
その姉だという女性の身なりをリジャールも聞かれたが、残念ながら彼には心当たりがなかった。
昨夜も、アルフォンスは姉の情報を得るために新市街の酒場に赴いたのだという。
あくまでも情報収集のためであるから酒は一滴も飲まず、水に果汁を混ぜたものを注文していた。だから酔っ払って幻を見たわけではないと、彼は強調した。
酒場では有用な情報を得られず、失意のうちに宿に戻る途上の夜道で、アルフォンスは気になる臭いを嗅いだ。
それは、戦場で嗅ぎ慣れた臭いであった。
血の臭いと、死臭である。
警戒しながら辺りを探る彼の目に、一軒の家が目に入った。窓の鎧戸の一部が壊れ、臭いはそこから漂ってきているように感じた。
窓に近づけば近づくほど死臭は強くなり、彼は屋内で何か異変が起きていることを確信した。
いつでも抜き放てるように剣の柄に手をかけながら、アルフォンスは鎧戸の破れ目から慎重に家の中の様子を窺った。
簡素な部屋だが、誰かの寝室のようだった。
覗きまがいの行為をする罪悪感は、中の光景を一目見た瞬間に吹き飛んでいた。
アルフォンスから見て左手の壁際にある寝台の上に誰かが倒れていた。
寝ているわけではないことはすぐに分かった。その頭は潰され、鮮血に塗れていたからだ。
鎧戸の隙間からは部屋全体を見渡すことができなかったが、アルフォンスの戦士としての感覚は、部屋の中に誰かが──あるいは何かがいることを察知していた。息づかいが聞こえるように思ったのだ。
──人殺しです! 誰か、衛兵隊に通報を!
そう叫んでから、アルフォンスは剣の柄で鎧戸を破りにかかった。
「でも、結果的にはこれが失敗でした──」
後から思えば、何も言わずに鎧戸を破って中に飛び込むべきだったのだ。
アルフォンスの叫び声は当然、殺人現場の家の中にいる者にも聞こえていた。
彼の声を聞いた瞬間、その者は即座に逃亡を図ったのである。
ようやく鎧戸を破壊し終え、部屋の中に飛び込んだアルフォンスが見たのは、部屋の戸口に向かう下手人の後ろ姿だった。
窮屈そうに身をかがめながら戸口をくぐるその姿は、明らかに人間ではなかった。
「後ろ姿だけですが、あれは確かにオーガだったと思います」
アルフォンスはリジャールにそう言った。
「オーガとは何度か戦ったことがありますので、見間違えるはずはありません」
断言したあと、アルフォンスは続きを話し始めた。
「部屋の中に飛び込んだ私は、そのままオーガに斬りかかろうとしました」
既に剣は抜き放っていたから、部屋の中に入ってオーガの後ろ姿を確認した瞬間にはもう、彼の足は床を蹴って攻撃動作を開始していた。
「その私の目の前で、扉が大きな音を立てて閉まりました」
時間稼ぎのつもりだろう。オーガは部屋を出た瞬間に勢いよく扉を閉めたのだ。
幸い、扉に顔を打ちつけるような無様は晒さずにすんだ。閉まった扉の直前で、アルフォンスは剣を振り上げたまま急停止することができたのだ。
だが、扉の建て付けが悪かったことが災いした。
「その扉を開けて廊下に出るまで、数秒か──あるいはもう少しかかったかも知れません」
出た先は、左右に分かれる廊下になっていた。
暗闇の中で目をこらして見回すと、まず右手の突き当たりに扉らしきものが見えた。そこに行く途中の壁にも、隣室と思われる扉がある。
これらは、どちらも閉まっているように見えた。
廊下の左手には、やはり突き当たりに他とは異なる、少し重厚な扉があった。その下にはマットが敷かれており、玄関なのだろうとアルフォンスは推測した。こちらの扉も閉まっていたという。
オーガの姿はどこにも見えなかった。
「廊下のどちらかに逃げたとき、やはり扉を閉めていったのだろうと思いました。私は一瞬迷いましたが、まずは玄関の方を見に行くことにしました」
そちらの扉は、他とは少し造りが異なっている。だからアルフォンスはそちらが屋外に続く玄関なのだろうと思った。
オーガにそこまでの判断力があるのかは分からないが、もしもそちらが野外だと気づいたのならば、やはり屋内に隠れるのではなく、外へ逃げる方を選ぶだろうと考えたのだ。
背後の廊下の長さはそれほどでもなく、もしも別の扉が開かれれば、音と気配ですぐに分かる。そこから振り返って迎撃態勢を取ることは何とか可能だろう。
そう判断して、アルフォンスは左手の突き当たりの扉を開いた。
思った通り、やはりそこは玄関扉で、吹き込んだ夜風が彼の金色の髪をなびかせた。
家の外には、早くも彼の叫び声を聞いた野次馬が数人、集まってきていた。
誰かがここから出てこなかったかと聞いてみたが、野次馬達はみな一様に首を振った。
オーガは野次馬が出てくる前に闇夜に溶け込んだのか、それともまだ部屋の中に残っているのか──。
後者の可能性も考えたアルフォンスだが、もしもオーガが屋外に出てしまったのだとしたら、夜の街の中を危険な魔物が徘徊していることになる。まだこの辺りに潜んでいるのだとしたら、集まった野次馬が襲われることだってありうる。
そこでアルフォンスは屋内の探索はせず、戸外で家を見張り続けることにした。もしも夜道でオーガに出くわした誰かの悲鳴が聞こえたら、すぐにそちらに駆けつけるつもりである。
彼はまず、集まってきている野次馬に危険な魔物がいる可能性を伝え、それぞれの家の中に戻るように伝えた。その上で事件のあった家の玄関扉を閉じ、戸口に近い路上に火をつけた松明を置いたのだという。
その言葉に、リジャールの耳がピクリと反応した。
ここのところの火事騒ぎを知っているのだろう。アルフォンスが苦笑しながら弁明する。
「街中で松明を使うことには抵抗がありましたが、そのときは他に方法が思いつかなかったのです──」
玄関の前に松明を置いたあと、アルフォンスは家の前の道と彼が飛び込んだ窓に面した道との交差点まで行き、そこでもう一本の松明に火をともした。
野次馬の一人に少しの間だけ玄関を見ていてもらい──誰かが出てきたら、大声で自分を呼ぶように言って、アルフォンスは窓の下の路上にも急いで火のついた松明を置いてきた。
それから玄関前に戻って、彼が目を離していた間に誰も出てきていないことを野次馬に確認した後、玄関と窓の両方が見渡せる道の交差点に陣取って、衛兵がやってくるまでずっと両者を見張り続けたという。
松明の炎のおかげで、玄関か窓のどちらかからオーガが出てくれば、すぐに分かっただろうとアルフォンスは言った。
「しかし結局、オーガは出てきませんでした。きっと皆さんが集まる前に家の外に出て、どこかに逃げてしまったのでしょう。誰も襲われなかったのは僥倖でした」
そう言って、アルフォンスは話をしめくくった。
その後の顛末は、リジャールは駆けつけた衛兵から聞いて知っている。
彼らはアルフォンスから話を聞いた後、すぐに屋内に入って中を調べることはせず、結局朝まで外から現場を見張り続けた。応援の者が駆けつけてきてから、アルフォンスの見つけた死体を回収したという。
そのとき、部屋の中には誰もいなかったということだ。
どうしてすぐに中には入らなかったのかと聞くリジャールに、衛兵達は一様に口を濁したが、アルフォンスの話を聞いてリジャールはその理由に見当がついた。
きっと、まだ屋内にいるかも知れないオーガを怖れたのであろう。
しかし後からよくよく思い返してみれば、こんな街中にオーガなどいるはずもない。自分たちの判断の誤りを恥じた彼らは、オーガのことも、通報を受けてすぐに中には入らなかった理由もリジャールには話さなかったのである。
アルフォンスに礼を言って別れたリジャールは、その足で現場となった家屋に向かった。
市街のその辺りは、主に庶民の暮らす居住区だ。
壁に囲まれ、土地に限りがあるローラン新市街は、この五十年間で人工的かつ計画的に建物の建造が行われている。家を先に建て、そこに主に旧市街から住民が移ってくるのだ。
現場となった建物は、単身かあるいは少人数の家族向けのアパートメントのようになっていた。石造りの平屋の建物の正面に、いくつかの玄関扉が並んでいる。
被害者の部屋は一番端の扉だった。玄関前を通り過ぎて角を曲がれば、アルフォンスの飛び込んだ窓がある。
リジャールはその窓も通り過ぎ、次の角も曲がって建物の裏手へと回った。
被害者の部屋は角部屋だから、路地に接して窓がある。しかし、他の部屋はどうなのだろうと思ったのだ。
壁を挟んだ両隣に別の部屋があるわけだから、そこには窓を作ることができない。であれば、建物の裏側に窓を作るのではないかと思ったのだ。間取りが同じなら、被害者の部屋にも同じ場所に窓が存在するはずである。
案の定、アパートメントの裏側にはいくつもの窓が並んでいた。
被害者の住居にも、もう一つの窓が存在したことになるが、アルフォンスはそのことを知らなかった。つまり、この窓からならば彼に気づかれずに外に出ることができる。
だが──。
喉の奥で小さく唸りながら、リジャールはその窓を見つめた。
盗賊よけなのだろう。窓には鉄格子が嵌まっていた。格子が破壊された様子もない。
リジャールは窓に近づいて鉄格子の一本を掴んでみた。力任せに引っ張ったり揺らしたりしてみるが、鉄の棒はびくともしない。しっかりと壁に嵌まっている。
他の格子も同じように確認してみたが、どれも外れる様子はなかった。オーガは勿論、小柄な人間であってもここから出入りすることはできないだろう。
となるとやはり、アルフォンスが見張っていた間、誰もこの家からは出てこなかったのだ。
そのことを確認したリジャールは、再び角を曲がって玄関に戻った。
すると玄関先に一台の大八車が置かれているのが目に入った。先程はなかったから、リジャールが裏手にいる間にやって来たのだろう。
車の傍には二人の男が立っていた。行商人のような身なりの中肉中背の男と、重厚な鎧を身につけた大柄な男。
リジャールは二人に近づき、声をかけた。
「衛兵隊の者ですが、ここに住んでいた方のお知り合いですかい?」
「そうだが……。ラジンさんが亡くなったというのは本当か?」
鎧を纏った男が聞き返してきた。
ラジンというのが、昨夜殺された老人の名前だ。顔は潰されていたが、服装や体型から近所の者が身元を確認してくれた。
うなずいたリジャールを見て、男は悲しそうな顔をした後、目を閉じて手を組み、祈りの言葉を唱えはじめた。
男は、首に英雄神・オウルのロザリオを掛けていた。
──するとこの男は、神官戦士なのか。
リジャールはそう思いながら、男が祈り終わるのをじっと待ち続けた。