93
城内にも夏風邪は広まっていた。弱った身体に外の空気を運ぶことを恐れ、極彩は縹の部屋には寄らなくなった。いつ容態が急変した報せが入るのかと怯えて過ごした。翡翠から借りたままでいた襟巻は洗濯した後に畳んで一言記した紙と共に離れ家に置いておくと翌日には金平糖数個に変わっていた。生活が離れ家から地下牢に変わり、紅に肩掛を作るつもりで手芸用品を持ち込んだ。紫暗が持ち込んだ茣蓙の上に座り込み、少しずつ気を許しはじめている紅に凭れられながら編棒で毛糸を繰った。色は黄に移ろっていく鮮やかな赤で構想した。祭りで見た金魚に近い色合いだった。形を成していく肩掛を紅に合わせて長さを確認している時に地下牢の通路に足音が響いた。間隔が短い。緊張に手が止まった。病床に伏す叔父のことだったら。紅の前で取り乱さないでいられるのか。固まった極彩を、生ったばかり桜桃を彷彿させる不思議な色を湛えた瞳が傾いた。
「ごくさい…!」
身を投げ込むように死角から現れ、柵に飛び付いたのは山吹だった。慌てた様子で柵を叩く。入れるか、出てこいとも言わんばかりで他に下回りは連れていないようだった。
「山吹様」
警戒する紅を宥める。鉄格子の扉を開き終わる前に前方を塞いだ山吹に力加減を知らない握力で手首を引かれる。
「さんご…さんご…ごくさい、きんぎょ」
紅を一瞥すると幼い顔で極彩を見上げていた。珊瑚とは暫くの間会っていない。牢の奥に戻ろうとする極彩を山吹は許さなかった。
「ごくさい……さんご…やまぶき、くもり…」
両手で極彩の腕を掴んで放す様子はない。手首を握り潰すつもりかと思うほどに力は増していく。
「紅、少しだけ待っててね。すぐ戻ってくるから」
幼い顔が牢を引き摺り出されていく女の背を追っていた。権力者の弟は、香に誤魔化されていない兄弟の匂いがした。髪質や美しい後頭部の形、後姿がよく似ていた。
急かされ上がった城内は眩しかったが珊瑚の部屋に着く頃には慣れていた。扉前に少し多いくらいの見張り番がいた。藤黄の理念でいえば、三公子に何かがあれば処されるのだろう。山吹は扉の両脇と対面の壁に並ぶ見張り番たちに構うこともなく、許可も取らずに入っていく。地下牢よりも暗い室内に光が射し込んだ。空咳が聞こえる。入ってすぐに見えるテーブルとその上の鳥籠も光を浴びた。
「山吹…」
浅い咳を繰り返し、嗄れた声が聞こえた。聞き慣れてしまった咳嗽とは異なる咳だと何となく分かった。天井で軽快な音がして部屋が明かりが灯る。
「…と、あんたか」
極彩は一直線に珊瑚が座る寝台へと向かった。目だけで彼を見下ろす。珊瑚は喉を押さえて顔を背け軽い咳をし、それから真っ白い顔で冷たい眼差しを受け入れた。2人の視線は合ったままだが言葉を発することはない。腕にしがみついたままの山吹は忙しなく動く。
「ごくさい…」
沈黙と静寂に耐えきれなくなったらしく、遠慮がちな細い声が響き、控えめに珊瑚との間に身を割り込ませた。
「薬はお飲みになりましたか」
先に喋ったのは極彩だった。兄弟の誰にも似ていない吊り気味の目がばつが悪げに逸らされる。
「必要ない。ずっとこんなところに閉じ込められたら、身体くらい壊す」
「外に出て…」
言葉を切った。落ち着かなくなった。一呼吸置く。
「外に出て、一体何をなさることがあるんです」
山吹とも天藍とも朽葉とも違う猫のような目が伏せられる。山吹が極彩を睨むように捉える。
「山吹様もご存知だったんですか」
「…やまぶき…やまぶき、しろ。やまぶき……」
「いいよ、山吹。知ってるかもしれないって思ってたし」
身体の成長に知能が追いつかなかった少年は極彩の知らない年相応の貌を一瞬だけ浮かべた。両膝を抱え項垂れた姿と山吹が腕を放し寝台の前に崩れ落ちる姿を話を促すこともなくただ黙って見下ろしていた。飽いて室内を見回した。気のせいでしかない血生臭さを嗅ぎ取る。静かに佇む鳥籠に目が留まる。飼い主によく懐いていた飛べない小鳥は見当たらない。
「さん…ご」
遅れて細い指が極彩の見ていた鳥籠を差した。
「あの囚人は小さいけど、鳥と比べたら、全然」
山吹は寝台の珊瑚に抱き付き、首を振った。目を見開いて極彩を凝らす。
「山吹、俺は山吹が思うようないい弟じゃないよ」
空咳をしながら珊瑚は山吹を突き放そうとする。だが力加減を知っている腕が沈んだ少年を包む。
「大兄上は生き返らなかった」
「同じ姿をしてたのに?」
首肯を仲の良い兄は阻んだ。だが遅かった。
「紅のことも使おうとした」
「さんご…?」
疑いを浮かべた山吹を今度は極彩がじっと見ていた。
「大兄上に会いたかった…分かってもらいたいとは思ってねぇよ。どうしても大兄上に…」
「大きな代償を無駄にしても?」
珊瑚が飛び上がった。頬の少し前で白く薄い掌が宙を掻く。山吹が叫び、2人分の体重に寝台か、それか床が軋んだ。真っ白な肉体が竹林に浮いていた。晩夏に見てしまう夢幻。
「晩夏だから、化けて出てきたのかと思った」
この兄弟の今の長兄の呟きを引き取った。
「大兄上に、会いたいんだよ…?どうしたらいい…?どうしたら…」
「さんご……、さんご…」
嘆く弟を兄はさらに力強く抱擁した。肉親の死を知らない。肉親がいないのだ。顔も声も知らない。存在すら意識したことがなかった。惜しんだこともない。肉親でない者たちならば沢山失った。だがこの兄弟と交わらない。彼の希求を計れない。彼の難題を解せない。弟の悲嘆に共鳴してしまう幼い兄のことも。だが紅を失いたくない。紅を奪おうとしてまで故人を切望したこの少年にひとつ共に抱けるものがあるとすれば、失いたくない、失いたくなかったの一点だけなのかも知れない。2人を置いて紅の元に戻る気でいたが珊瑚の部屋から出ると廊下には多いくらいの見張り番の他に刑務官と兵を幾人か連れた藤黄が立っていた。
「極彩殿」
簡素に揖礼し、侍らせている刑務官と兵に合図する。極彩とすれ違いに入室していく様を眺めた。
「三公子の処罰が決まりました」
「そうですか」
珊瑚は静かだったが、山吹は喚き叫んでいた。暴れているらしき音がする。思うところがあるのか将又、耳障りなだけなのか皺の消えない眉間が高く盛り上がっていく。
「今後は三公子とお関わりになるのは控えなさるようお頼み申し上げる」
「考えておきます」
藤黄の脇を通り抜ける。雰囲気だけでなく年齢を思わせない体格の良さで広い廊下で端に避けていても塞がれているような圧迫感があった。空咳が頻りに聞こえるから地下牢へ帰る。紅は茣蓙の上に転がり散らかった毛糸の山の中に頭を預けて眠っていた。寝台にある薄布を掛け、寝息に耳を傾けながら肩掛を編んでいく。そのうち紫暗がやってきて、天藍のもとへ異動することになったと告げにきた。竹笛の慟哭が地下にまで届いた。




