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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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 扉が開いて、藤黄がわずかな隙間から上体を割り込ませる。

先に反応したのは珊瑚だった。頭痛に顔を顰めながら不安な表情をして極彩の腕にしがみつく。

「先程の話って、なんだよ」

 藤黄は珊瑚へ向けて拱手すると扉の奥に消える。思わせぶりなことだけを残して。珊瑚の生意気さを失った目が極彩を見つめて放さなかった。好奇心というには、言わないでほしいとすら思っていそうなどっちつかずに惑っている。

「珊瑚様もご存知のことですから」

「俺が何を知ってるっていうんだよ」

「天藍様とのことです」

 腕を掴む手の力が弱まり、抜こうとするとまた強くしがみつく。突然の大きな音に仰天した猫が飼い主の腕を駆け上がっていくようだった。

「…結婚の話…?承諾、したのか?」

 極彩殿!と扉越しに圧はあるが曇った声で呼ばれる。珊瑚は腕を放さなかった。否定して、婚約の意思は無いことを告げる。

「それでは行きます。食事を届けさせます」

「いいよ、要らない」

「そうおっしゃらず、お召し上がりください」

 掴んだまま放さない手を柔らかく握り込み、解いていく。

「極彩」

「何か召し上がりたいものがおありですか」

 首を振られる。だが何か言いたいことがあるらしかった。

「もし俺でも、断る?」

「何をです?」

 極彩殿。今度は呆れた声で呼ばれ、答えも聞かずに部屋から出る。直後に見えた藤黄の後姿が振り返る。眉が寄り、皺が引き攣っている。

「何を考えておいでか」

「珊瑚様にお届けする食事のことを」

 鼻梁に皺を寄せ、鼻を鳴らす。

「年頃の女性(にょしょう)が若い男の私室に安易に入るなど…」

「ですが珊瑚様は、」

「貴嬢が若の気に召していなければ好きになさればよろしい。それに若の弟御。ただでさえ良いとは言い難い兄弟仲を引き裂くおつもりか…あの方もすでにご立派な男子。もう少し己が身のことを考えられよ」

 腕を組み、目を瞑り、深く息を吐いている。怒りを通り越して呆れているような響きを持っていた。極彩ははい、はいと相槌をうつ。珊瑚は気難しい弟といった気分だった。四季国にもいた、世話係たちの弟や息子が城に顔を見せることもあった。市井の少年たちともよく遊んだ。それと大差ないつもりで。

「我輩は貴嬢のために申しているのではありませぬ。若は大変な気苦労を重ねていらせられる。余計な悩みを増やしなさるな…でないなら、我輩が貴嬢を1日中見張らねばならなくなる。最早厭わぬ」

「分かりました。気を付けます。ですがこれは天藍様のためではありませんので、誤解なさらぬよう」

 揖礼し、藤黄の前から去る。厨房に寄ると蕎麦を珊瑚の部屋に届けるよう頼んだ。外通路から赤く染まっていく空を少し見上げると、離れ家に戻る。



 夜になっても紫暗が現れず、極彩は自ら布団を敷き、照明は落とさないまま下半身だけを埋めていた。強い眠気に襲われ、紫暗は他に用があるかすでに寝ているのだと思うことにして横になる。意識はすぐに沈み、深夜に起こされるまでのほんの少しの時間で半日寝ていたような充足感があった。布団越しに肩を揺すられたはずだったが、室内には誰もいなかった。立ち上がって玄関まで見渡したが人の気配もない。気のせいか、夢の延長か。布団に戻りまた眠ろうとしたが枕元に置かれた紙に気付く。はっきりした濃さの丸みを帯びた文字で地下牢に来てくださいと記され、紫暗の名が添えてある。極彩は寝間着のまま離れ家を飛び出す。地下牢に呼び出されるというのが良い報せには思えなかった。柵の奥に座り込む傷だらけの紫暗の姿はまだはっきりと脳裏に描ける。外通路までは疾走したが城内に入ると人目につかぬよう努めた。地下牢に対する印象が自然とそうさせた。慎重になりながら地下牢へと近付いていく。夜番の下回りたちが極彩に静かに礼をし、極彩も静かに応えはしたが素っ気なかった。地下牢前の警備の者たちに固い礼をして地下牢へと入った。照明の設備がない地下は真っ暗だったが長い廊下の先に明かりが灯っていた。

「紫暗?」

 水滴の音がする。黴臭く、季節に合わず寒い。不安になり小さく呼んだ。

「ここに」

 忘れかけていて、忘れない日。紫暗の返答はその日と同じようにしっかりしていた。足音がうるさいほど高く響くことも厭わず、牢の前の燈まで走った。寝起きであることも忘れるほどに頭は冴えた。

「紫暗、大丈夫?」

「はい。夜の支度が出来ずすみません」

「…っ!」

 光の届かない石壁の影から紫暗ではない者の声が混じる。だが言葉になりきれず、吐息ばかりの音だった。

「そんなことは別に…」

 極彩の言葉は誰なのだろうという迷いに失せていく。紫暗の戸惑った顔からその背後にある暗がりを見る。

「入ってください」

 開錠された柵扉の奥へ促される。紫暗の持っている明かりが真っ暗な石壁へ向けられた。目元を眇めた少年が上体を起こして寝台に乗っていた。暗赤色の髪と傷だらけの顔。大きく開かれた衣の胸元には包帯が巻かれている。紅だった。極彩は頭の中が真っ白になり、寝台の前に這うように進むと、膝を着いた。

「…?」

 紅は極彩を見てから、紫暗へ視線を映した。紫暗の眉が寄る。極彩は小さな身体に触れようとした。躊躇いも気遣いもなかった。しかし伸ばした腕は払われる。乱雑に切られた毛先へもう一度手を伸ばす。しかし、叩き落とされる。

「紅…だよね…?」

「今日の夕方に意識を取り戻したのですが…舌を切られているので話すことはできません」

 極彩は怯えて嫌がる紅の顔を両側から容赦なく掴んだ。抵抗されるも構わず、罅割れた唇に指を突き入れる。湿った口腔を掻き回す。歯をなぞって、指を伸ばす。喉奥に届かないくらいにまで探ったが舌と思しきものは無かった。舌の付け根を恐る恐る辿った途中で噛まれ、指を引き抜く。

「…っ」

 荒い吐息に混じり、喉を震わせる。風の叫びのようだった。極彩を睨み、歯を剥き出しにする。醸す雰囲気がまるで変わったが、傷痕も髪色も目付きも紅に間違いなかった。暴れると大きく開いた衣が肩から落ちる。

「紅…」

 右腕も無くなっていた。寒気がした。暴れる紅を抱き締める。左腕が極彩の胸や腹や肩を殴打する。両腕から放せなかった。後頭部を撫でる。紅だが、紅ではないのか。刺した相手だ。その自覚はあるくせ、やめられなかった。

「…!」

 生きていたのだ。生きていた。小さな身体を抱き締めその感触を確かめずにはいられなかった。殺したのではなかった。生きていた。はっきりした感情は浮かばないでいた。ただ、突き刺した相手、この城に来るまでともに過ごした相手が生きていたということだけを感じていたかった。

「紫暗、どうして…?」

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