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では少しお話でもしましょうか。
宗教家は、翡翠・ジェイダイト・川蝉と名乗った。一度で覚えられずに吃ると、宗教家は丁寧に説明した。親から与えられた名が「翡翠」だと言った。河教には一定の修行を終えると「餞名」という新しい呼称が与えられるらしかった。それがこの宗教家の場合は「ジェイダイト」に当たるのだそうだ。「川蝉」は浪号といい、河教者が死後に呼ばれる名らしかった。死後、河教者は永久に続く河を筏に乗って流れていくらしい。生きた者が名を呼んでしまうと、次の「生」を授かる漂流から呼び戻されてしまうという。そのための名らしい。
極彩は身を守るために、偽った身分を隠すためにまた別の名を使った。柘榴には全て見通されていたようだが
混乱するでしょうから、ジェイダイトと呼んでください。
「ジェイダイト…河始季…」
ジェイダイトは笑った。
もしかして河教のこと結構知ってますぅ?
極彩は首を振る。規模がどの程度かは知らないが四季国の世話係にも河教信者は多くいた。
ちなみに屋号は輝石です。どうでもいいんですけどねぇ。ところでここにはよく来るんですか?
「2回目です。今日はちょっと用があって、待つことになったのでここに寄って…」
時間潰しにここへ寄って、今なら勧誘受けるというのも…そうですねぇ…随分と酔狂な方ですねぇ。
「宗教家になれば、何か救えるんじゃないかって…でもそれはきっと、自分が考えるのをやめて、でもどうにもならないことは多分、どうにもならなくて…」
そうですねぇ…そうかも知れませんねぇ…勧誘する信者の曲解があなたに誤解を与えているなら、それはワタクシたち河始季の怠慢です。
穏やかに肯定される。自分が遠回しに河教を侮ったことに気付き、俯いた。
救った気になるだけですし、そもそも何かを救うだなんてそんな世救い人妄想みたいなことは教義にありませんからねぇ。寺任されてるワタクシが言っていいことなのか、ちょっと分かりませんケド。
顔を上げる。失言を気にする様子もない。宗教家へ抱いていた、偏執的で盲信的な印象がこの者からは感じられなかった。
河教の戒を説いても腹は満たせませんよ。余計腹が減るだけです。読戎しても喉の渇きは潤せません。むしろ余計喉は渇く。
「信じてもどうにもならないってことですか」
軽やかに笑う。「そう聞こえるかも知れませんねぇ」と言った後、「でもそう言っていますからねぇ」と続けた。
今、医学も科学も進歩しました。風月国の発展が喜ばしい…ですがまだ曖昧です。いいえ、違いますねぇ、曖昧というのが答えです。幸せとは何か、格差とは何か…生まれとは何か…きっと理屈で説明することは可能でしょう。でも求めた答えた違った者もいるわけです。もっと具体的に言えば…主観的な幸せの解明、探究の違いです。逆を言えば、不安や不幸への回避かも知れませんねぇ。一時のまやかしだとしても。
極彩は弱く水を蹴る。波紋。また同じ花弁が足首に残る。水に浸し、離れさせる。他の花弁が避けるように散っていく。
これも少し曖昧でしたか。目標といえば分かりますかねぇ。人に与えられた、あまりにも漠然とした時間を、確固たる人から何の命令もないまま生きるわけです。まぁ、信じられなければすでにお嬢さんの胸の内にあるひとつの信仰心に基づいての否定ということにもなり得ますが。
「勧誘ってそういうものなの?」
目に見えないものに敗北するんですよ。形ないものに。触れられないものに。
宗教家は皿にひとつ残った西瓜を手にする。
金が欲しい、地位が欲しい、力が欲しい、愛が欲しい、それも確かに人の生き方に伴う欲で、河教に救いを求めるのなら、彼等も河教が肯定した上で導く相手です。ですが時折ワタクシたちが意図していなかった方向に行くことがあるんですよ。信仰は人を殺しますからねぇ、きちんと知ってもらう必要がある。
隣で西瓜が噛まれる音がする。軽快で潤いのある音。
「わたしには向かないかも知れません」
河教に於いて意味があるのは、信じることではありません。次の「生」に向け、より良い筏に乗るため現世で善行を積め、不特定対数の異性と関係を持つな、生命を粗末にするなというのは建前です。ワタクシが建前と断定したところで、この教えにいる以上、実のところは分かりませんが。
宗教家は皮だけになった西瓜を皿に乗せた。風鈴が鳴る。鳥の群れが空に消え、野良猫が遠くを横切った。
絶対的な答えは死しかありません。どうにもならないことはそれでも山ほどあります。ただどうにもならないという状況の中にも選択肢はあるはずです。
「そろそろ行きます、ありがとうございました、ごちそうさまです」
宗教家の言葉に何故だか悔しくなった。どうにもならないことはどうにもならない。刺された師を前にどうしたらよかったのか。小さな手を振り払って、知り合いなのだと駆け寄ればよかったのか。命が助かったとしても元のように暮らせそうにはない傷病者。この手で安らかに死なせてやればよいのか。それが選択か。今からでも選択できる。だがそうするにはやはり金が要る。今日、明日、明後日食い逸れない金額では足らない。短剣を握り質屋へ向かう。
質屋の鑑定士は上機嫌に極彩を迎える。店頭に積まれた札束の山々に胃が引っ繰り返りそうだった。杉染台が助かる、と思った直後にこれだけあるなら四季国の一部くらいならどうにかできるのではないかと脳裏を過って、朝餉と西瓜が鉛に変わったのかと感じるほど腹の奥が疼いた。
短剣を確認し袋ごと渡す。鑑定士が愉快げに口の端を吊り上げると、店の前から鋭い金属の音がした。忘れもしない、目の前で剣林に貫かれ投げ出された四肢。その光景と一括りになった音。首を軋ませ背後を見る。警備兵が店の出入口を剣で両側から塞ぎ、その前に立つ見慣れたローブの見知らぬ者。おそらく城の官吏だ。極彩様、任意同行をお願いいたします。群青と同じくらいであるから極彩とも同じくらいの年に思えた。鑑定士の顔色がわずかに変わったのを一瞥し、極彩は短剣を奪い取る。
「分かりました」
若い官吏は安堵したようだった。警備兵に剣を下げるよう合図し、質屋の前に停められた馬車へ促される。対面に座った官吏が苦々しく極彩を見ては目を逸らし、極彩を見ては目を逸らす。短剣を抱く極彩の両隣には警備兵が座っていた。駆け足の車内は終始無言だった。袋越しに短剣へ頬を寄せる。持ち主の顔をもう思い出せなかった。




