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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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 紫暗が離れ家から出ている間、極彩は短剣を眺めていた。曇りはない。人を刺した。だが流れ出たのは血ではなかった。それでも肉感はまだ覚えている。紅を貫いた白く美しい刀身。一面の銀世界を映したような。真冬に入る熱い湯のような。

 山吹の部屋には行かず、不言(いわぬ)通りへ向かった。牛車(ぎっしゃ)にも不言(いわぬ)通りと伝えたが途中で長春小通りへと変更した。質屋や骨董品店は幾度か通った空気感から長春小通りのほうがしっくりきていた。細長い布袋に入れた短剣を膝に乗せ、暫く元の持ち主のことを考えていた。何が最善なのか、明確なものがなかった。最善最悪善し悪しがあるのかすらも。何を考えてこの短剣を贈ったのか。縹は選択をした、約束は果たしたと言った。ならばこの短剣は意義を果たせたのか。

牛車が揺れ、車窓から不言(いわぬ)通りの日常が耳に届き、それから少しして目的の停留場へ着く。よく晴れていた。不言(いわぬ)通りの延長的な軽食や甘味、奇妙な色味の食材を用いた飲食店街から離れ、 雑貨屋や日用品、衣料品店などが多い区画へ入り、そこからまた外れの質屋、骨董品店、不動産屋が並ぶ路地へ入る。掃除が行き届き、看板も磨かれ上品な印象がある場所だった。不言(いわぬ)通りに影響され長春小通りにまで伸びてきている景観を崩す奇抜な飲食店とはまた違う、落ち着いて質素な喫茶店も目に入った。建物と建物の間から大きく拓く天気は清々しかったが気分は曇った。もう一度だけ短剣を見て、近くの質屋に入る。買い取りを希望し、手袋を嵌めた鑑定士へと短剣を渡す。真っ白い柄と鞘を見ると接客用の緩い微笑から驚きへと表情が変わっていく。訝しんだ眼差しと必死で隠そうとする微笑を短剣と極彩との間で器用に使い分ける。

「友人からの形見です」

 朽葉を友人と括れるのかは分からない。珊瑚と城の小山を下った時にふと脳裏を過った光景でいえば友人といえたかも知れないが、あれが何なのかが思い出せずにいる。感嘆の声を漏らしながら鑑定士は短剣を睨む。告げられた金額は想像を上回った。相場が分からないが不言(いわぬ)通りの繁華街の数区画は買い占められるとのことだった。それくらいの金があれば杉染台の生き残りたちは助かるのだろうか。

「売ります」

 鑑定士は目を丸くし、困った顔をした。2時間後に短剣を持ってまた来るように伝えられる。

 することもなく以前群青に教えられた淡香(うすこう)寺に寄った。階段を囲む紫陽花は殆どが枯れていた。強い日差しが照り付け、眩しさに腕を翳す。流水の芸術的な造形物は足水に使えるように形を変えられ(ひのき)の槽へ水が送られる仕組みになっていた。周辺も簾天井が設けられている。吊り下げられた風鈴がどっちつかずに揺れた。日差しは強いがまだ湿度は高くなく不快感はない。極彩は簾天井の下に敷かれた段のある畳へ座り、花弁の浮かぶ水へ足を入れた。水面は日差しできらきらと照っていたが、ひんやりとしている。花弁が揺れ、引いては寄せる。両足で水を蹴って、軽快な音が立つ。少しの間は必死に水面を蹴って足に纏わりつく花弁を眺めてはしゃいだが、すぐに飽きる。穏やかになっていく水から目を離し、遠くに広がる街並みを見た。洗朱地区は死角になっているため展望出来ない。視界の脇に入った出店はまだ開いていなかった。初めて食べた甘味の味を思い出す。あの日は、今こうして生きていられると思っていなかった。全て果たせている頃だと思っていた。弱い風が吹いて、高い音を残していく。暑くなる季節がすぐ傍まで来ている。怪我人には厳しくなるだろう。病人にも。叔父と偽った共謀者の姿が思い浮かび、足首に残った一枚の花弁を水に戻す。明るい波の影が歪な輪を描いて槽の中を泳ぐ。

 西瓜(すいか)、いかがですか。

 目の前に差し出された水々しく光る黄色の果肉。赤いものしか見たことがなかった。珊瑚へ切った彌猴桃(びこうとう)もそうだったが、風月国の果物は色が違うのだろうかと思った。いただきます。一切れ手にする。日に負けず照り眩しい。季節的にはまだ早い気がしたが、口内に響く音と広がる甘さは十分に熟れていた。

「美味しいです」

 西瓜を持って来た者を見上げた。透けた生地の黒い衣も身に着け、頭を布で巻き、余った長布を首から垂らしている。一目で淡香(うすこう)寺の宗教家だと分かった。四季国にもいた。河教(せんきょう)という思想・信仰の体系。寺を持つほどの学を修め、戒律を守る者を、河教(せんきょう)では開祖の末子または末弟、近頃では末妹をも意味する「河始季(せんしき)」と呼んでいた。極彩はそういったことにあまり熱心ではなかったため深い教義は知らないでいた。勧誘だろうか。何度か受けたことがある。

 もうひとつ、いかがですか。

 長く染み付いた観念が覆るとは思わなかった。覆り、何か…、河教(せんきょう)が拝み崇める(いかだ)に宿る霊魂に縋り、盲目的になり、救いを見出せるのならそれもひとつの現状の打開策になるかも知れないとすら思えた。仇に固執することも冷め、縹の病のことも諦め、杉染台の人々を忘れ、河教(せんきょう)の戒律と救済にのみ縛られ生きていくことが答えとして選び取れたら。

「いただきます」

 勧誘を求め、西瓜に手を伸ばす。

 暑いのでお気を付けてくださいね。塩もありますから。

 宗教家は西瓜を乗せた盆の横にある塩瓶を振る。立ち去ろうとしたため、思わず呼び止めてしまった。

「勧誘しないんですか」

 宗教家は苦笑した。日に焼けながらも張りのある肌は「河始季(せんしき)」の座を得られるにはまだ若さを伺わせる。

 ワタクシのやることなすこと全てが勧誘目的なワケ、ないじゃなないですかぁ。

 垂れがちな切れ長い目が細められる。砕けた語調。反対に極彩は目を見開いた。

 今日は日差しが強いので、訪れた方に西瓜でも配ろうと思っていたんですよ。他意はありません。

 柔らかく笑う。「河始季(せんしき)」が宗教家として活動する間は着用することが義務付けられているらしい「戒衣(かいえ)」は、布地は薄いが足首までの丈があり黒いため見ているだけで暑苦しかった。

「今なら…宗教に逃げ込むのも…」

 困ったなぁ。他ならとにかく河教(うち)は逃げ込むところじゃあありませんからねぇ。

 宗教家は極彩の隣に間を空けて座った。宗教家は畳の上に上がって足を崩す。礼儀正しく厳格で格式高く窮屈な印象が崩れ去る。

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