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群青の邸宅は長春小通り寄りの弁柄地区の果てにあった。蔵造りで統一された大通りから外れると、何軒かは蔵造りだったがよくある家屋になっていた。柵のような門が誰に操作されるでもなく上へと動く。庭は広く、白い玉砂利が敷かれ、石畳が邸宅入口まで案内する。周りを見渡していると腕を組まれる。石畳を挟んだ邸宅の隣には立派な住宅に思えた納屋がある。その前には大理石のような資材でできた白く巨大な溜池があった。使われていないようで浮遊物が目立つ。
「酷いもんです。民の血税でこんな広い家に住めるんですから。貸家ですけど」
呂律が回っていなかった。へらへらと軟派な笑みを続け玄関扉へ引かれていく。邸宅の前には芭蕉の木が植えられていた。何かを止まって眺めることもさせず玄関へ連れ込まれる。使用人が群青を出迎えた。そして極彩の姿に瞠目する。
「酔っているようなので…、わたしはこここで、」
「帰らないでください。今日は…今日だけは……一緒に」
使用人の前にもかかわらず群青は極彩を胸に引き寄せる。肩越しに見た使用人は苦笑している。中へ案内しますと言われ極彩は群青を放そうとしたが1人で歩ける状態ではなくなっていたため腕を首の後ろへ回させる。
軋む弦楽器の音で何度か朧ろげに目が覚めたのは覚えている。それ以外、弁柄地区の夜は静かな夜だった。小鳥が鳴いて意識が覚醒する。見慣れない天井には瑞鳥が描かれている。芭蕉の木が小さく揺れ、畳に薄い陰がはしゃいでいる。朝日を顔面に浴びて胡弓を抱き締めながら畳の上で寝ている群青の眉間に皺が寄る。
昨晩、客間に案内されると群青もついてきて、部屋に入るやいなや窓際の壁に凭れて寝てしまった。使用人は極彩には布団を敷いたが群青には薄い掛け布を投げるだけだった。酔って帰ってくるなんて珍しいですよ、帰ってくるのも珍しいですが。使用人は群青が寝てしまったことを詫び、夕飯を用意した。それから湯浴みをし、寝るとなったところまでは覚えている。おそらくその後に深夜に迫っていることも厭わず弦楽器を持ちだしたようだ。
暫く群青を眺めていた。酒の匂いだけで極彩も酔っていたのか昨晩のことがまるで夢のようで現実味がない。群青の瞼が動いて、長い睫毛に覆われた目が開く。右腕を守りながら身を起こし、幾度か力強く瞬く。頭を左右に振り、上体を起こした寝間着姿の極彩を認めて口がぱくぱくと開閉する。
「お邪魔してるから」
「極―って…」
額を押さえて、痛みに表情を歪める。
「宿酔い?すごく酒臭かったけど」
俯いたままの群青に使用人が置いていった水差しを渡す。すみません、と小さく呟いて受け取ろうとした手から引き戻し、空の湯飲みに注いで湯呑を渡した。
「かたじけなく存じます…それに極彩様は山吹様の…」
水を飲みながら群青は目を泳がせる。極彩は問い詰めるつもりはないと言わんばかりに身体ごと背ける。毛先が触れた首が痒くなり、手を伸ばすと痛みが走る。群青の顔が真っ赤になった。
「大変情けない姿をお見せいたしました…記憶が曖昧で申し訳ないのですが、何か妙なことを口走ったりはしていませんでしたか」
「何か妙なことを口走った記憶はあるの」
「いいえ…その、いいえ…」
沈黙が流れ、鳥が中途半端に囀った。視線が畳の目数を数えだすように動いて、極彩は溜息を吐く。
「あのお店の娘じゃなくてごめんね」
「え…」
群青は口に運ぼうとしていた湯呑を下ろす。極彩を見たまま制止する。
「安心して。人の色恋沙汰を吹聴したりはしないから」
群青はそれから無言だった。極彩は礼を言って客間を出る。使用人は居間にいた。昨晩洗濯に預けた衣類を返される。天気や気温に関わらず一夜で乾かす機械が城にもあった。洗面所を借りて着替えると、布団が片付けられないこと、群青が起きていること、一宿一飯の礼を言って城へと戻る。帰路の途中に見た色街は昨晩の光景とはうって変わって夢だったのではないかと思うほど閑散としていた。藤の花の飾りを揺らす彼女と歩いた彼女の亡郷と重なった。荒れ具合や整備は全く違ったが、次に消されるとするならこの土地なのではと疑い、揶揄してしまうほど。夜空を借り、妖しい照明と奇怪な看板に炙り出されなければ今にも焼き払われ吹き飛ばされる猥雑なくせ儚い既視感があった。
結局、性を売ることは向いていなかった。短剣を売るしかなくなった。あの短剣で風月王を仕留めることは出来なかったが恩のある者を刺した。売ろう。決めては揺れる。風月王を討つのは何もあの短剣でなければならないわけではない。
門番の渋い顔から逃れるように俯いて無言で門を潜る。離れ家には紫暗がいた。
「朝餉は食べました?」
布団が敷かれていた。紫暗の何事もなかった、何にも気付かなかったという態度が柔らかく胸を締め付ける。何をしていたのかと責められない分、自身が自身を責める。紅に守られ、縹に匿われ、身を売ることは選ばなかったではないか。そして今は形式的とはいえ山吹の婚約者ということになっている。食う物、着る物、住む場所には困らない。それどころか世話係までいる。金には困っていない。だが大金が必要だった。
「食べてないですよね。今持って来ます」
紫暗は小さく笑って立ち上がる。
「要らない」
「ちゃんと食べないと気落ちしますよ。残したら自分が食べますから」
紫暗は育ちざかりなのか小さく細い体躯からは想像がつかないほどよく食べた。仕事の合間に甘い物を食べたりしているところを見たことがある。頷くと紫暗は厨房へ向かった。
冷えた麦飯に醤油をかけた薯蕷藷。出汁が香る挽肉と雪花菜の炒り物。程よく狐色の焦げ目がついた焼き鮭には柑橘の輪切りが添えられている。白味噌の汁物は麩とわかめが浮かぶ。
「布団はどうします?今から寝ますか」
雪花菜の炒り物を食べていると紫暗が布団の前に立って訊ねた。焼き鮭は容易に箸が入り、身が割れた。
「上げてもらえるかな。寝て来たから」
深い意味は無かったが紫暗はたじろいだ。だが何も言わない。引き攣った笑みを浮かべて布団を抱える。離れ家の玄関から回り、窓の外の布団干し竿へ布団を掛けた。芝が青々と光り、布団の生地が眩しい。戻ってきた紫暗が気まずそうに極彩から視線を外す。妙な響きを持ってしまったことに気付いて説明を加える。
「群青殿のところだよ」
紫暗は円く大きな瞳をぱちぱちさせ、さらに歪んだ笑顔になる。
「群青殿と…」
「酔っ払ってたから」
紫暗は口角を上げたまま、強張った顔でこくりこくりと痙攣したように頷いた。固い笑い声を上げて紫暗は口を開きながらもすぐに言葉を発さなかった。
「な、なるほど。でもすぐ、帰ってきてくれてよかったです」
「出来るだけここには帰ってくるようにする」
味噌汁は群青宅の夕飯で出されたものと同じ味がした。




