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―師匠なんて大っ嫌い!
師と会えなくなったのは、まだ別れは突然にやってくるものだと知らない時だった。別れの兆しは見せなかった。別れの言葉も言いはしなかった。
―師匠の顔なんて、もう見たくない!
何があったのか思い出せないでいる。当たり前な日常だったから。本当に師の顔を見られなくなるなどまるで思っていなかった。表情を変えない無口な師が、眉を下げて何度もすまない、と言った。何故忘れていたのだろう。不言通りで見かけるまでずっと消えていたくせ。息苦しくなる。胸の痛み。身体が熱い。喉が捻り潰されそうだ。離れ家の布団よりも背中が固い。枕も固い。膝が軋む。腕が動かない。師に謝る。過去に。黒くぬめった沼に沈んでいく。沈んで、そして膝を着く。目の前に、ぐったりとした小さな身体。手首を伝う肉を抉っている抵抗感と質量感。握った剣先にかかった重量。浮き上がるように起き上がり、頭部を掴まれる。幼い顔が近付いて、灰白を睨む。
―ヨクモ刺シタナ
担架に乗って運ばれていく少年の姿。渦巻きの仮面。四季国の面影を刺してしまった。手首が痛い。だが動かない。心臓を潰される。息をしているのかさえ怪しい。置いて来てしまった。忘れろ。情を捨てろ。ここでそれが出来てどうする。逃れるための自問自答。
「大丈夫じゃねーじゃん」
冷え込む。熱が引いていく。掛け布団を剥がされ、珊瑚の呆れた声で目が覚める。珊瑚に買い与えられ傷に貼られた医療品が視界の中心で白く霞んでいる。
「さ、んごさま…」
息を整える。磨り減らされるような胸の圧迫感が和らいでいく。ごめん、と謝るより先に珊瑚が口を開く。
「今日1日色々あったもんな」
「…っ、起こしちゃった?」
別に、と珊瑚は答える。
「俺も寝られなかっただけ」
水持って来るから飲んだら寝ろよと珊瑚は部屋から出て行った。珊瑚もまた他人とはいえ、目の前で人が血の海に沈んでいく光景を見ている。長兄を介錯した男が次兄によって間接的に人を殺める姿を。それだけではない。久々に会えただろう家族を襲撃されたのだ。そして灰白自身が、そうしようとした。濡れた頬を拭う。中身は伴っているくせ中身のない墓で全て出し尽くしたつもりでいた。静かな足取りで珊瑚が戻ってきた。渡された冷えた水を半分ほど飲む。珊瑚はそれを確認して布団に入った。
「ありがとう」
「早く寝ろ。気になって俺も寝られなくなる」
「じゃあ眠れるまで、何か話しててもいい…?」
珊瑚は寝返りをうって灰白に背を向ける。好きにしたら、と言った。
「って言っても、そう話すこと、ないな」
「…言えばいいじゃん。悲しいんだ、痛いんだって。つれぇなら。怖ぇなら」
雨の音の中で聞こえる。カーテンだけが弱く光って見えた。暗い背中。布団が擦れる音。鳥の動く音。
「珊瑚様だって、頭痛いって言ってくれないじゃん」
「俺は…別に痛くねーもん」
「そっか。痛く、ないか」
隣か、さらにその隣で足音が聞こえる。長屋で暮らしていた時よりずっと閑静だ。またあの長屋で暮らそうかとふと思った。そしてすぐ否定した。この手で刺し、挙句に置いてきた同居人の影に怯えることになる。
「あんたは痛くないの」
「痛そうに見えた?」
見えた。拗ねた即答。
「痛いって言ったって、何も変わらないでしょ。…つらくなるだけじゃん、そういうつもり、なかったのに。気付いちゃうじゃん、わたし、今痛いんだ、悲しいんだ…って」
口にした途端、瓦解する。全て出し尽くしたはずだ。
「ばっかじゃねーの」
珊瑚は上体を起こした。
「群青もあんたも言いたいこと、言えばいいだろ。何を我慢してんだ。意地張りやがって。どいつもこいつも」
「…っ都合、いいな、…珊瑚さま…」
唇を噛む。何か返さなくてはと隠しきれない嗚咽が堰を切る。眉間から鼻梁に当てられた木綿に涙が吸い込まれていく。
「悲しいなら、痛いなら言えば言いだろうが。きっと何も変わらない。現実は。気持ちも何も変わらない、きっとな」
でも。珊瑚の言葉が滲み、潰れていく。
「自分自身にも悲しいことも痛いことも、分かってもらえなかったら、そうしたらほんとに孤立しちまう。麻痺して、いきなり、消えんだ」
何言ってっか、分かんねーけど。
「珊瑚様、わたしは…」
悲しい。口にするのは簡単だった。だが言えないでいた。ありがとう。これだけしか言えないでいた。ばかなやつ。鼻を啜る音で掻き消される。
「でもさっき食べた肉まん、美味しかった」
うん、としゃくる声がした。
「胡麻団子、甘くて…いつかまた食べたいな」
また買ってやると、浅い呼吸。
「あと、中に金魚入ってる、透明の甘いやつ…あれも」
ゼリーな、分かったと。震えを誤魔化された言葉。
「もう眠いや。まだいっぱい…」
考えているうちに、一瞬意識を失う。食い物の話だけかよ、と小さく笑う声が聞こえて、灰白は温かく溶けていく。
珊瑚は欠伸をしながら洗濯物を仕分けている。柘榴と名乗った店主が灰白の毛先を巻いたまま固定し、異臭を放つ液体を塗りたくった。
「それ、何」
室内を漂う、鼻を炙るような匂いに眉根を寄せ珊瑚は訊ねる。
「変身するおまじないよ」
「なんで急に」
「急じゃないわよ。昨日白梅ちゃんに時間空けといてって言ったもの」
ね?と肩を叩かれ灰白は苦笑いを浮かべる。珊瑚は宿の雑用を手伝わされていたが、どれもこれも上手くいかないらしく柘榴に怒られていた。暫く悪臭というには得体の知れない匂いのきつい液体を塗られたまま放置されていたが洗い流される。座っていた背凭れが後ろに倒れ、可動式の洗面台に頭を預け、洗われていく。宿と髪結いを経営しているのだとそういえば話していたかも知れない。珊瑚はというと大量の手拭いが上手く畳めず困っていた。何度か髪を洗われ揉み込むように拭かれ、温風を吹きかけられる。細く柔らかい指ではなく、太く固い指で。乾いた毛先は大きく波打ち、柘榴は満足げに何度も毛先がくるくると巻いて縮まる様を楽しみ、うんうん、と頷いている。
「これで顔回りに密度が出て、傷が少しは目立たなくなるんじゃないかしら」
琥珀ちゃん、どう?と問われた珊瑚が顔を上げる。出かけていた欠伸が止まり、鏡越しに目が合った。
「…知るかよ」
「琥珀ちゃぁん、そんなんじゃいつか後悔するわよ~」
「はぁ?」
珊瑚と柘榴が何か言い合い、そして珊瑚が折れる。
「じゃあ行ってきなさい、デートでしょ!今日はうちも、もう閉めるから」
鏡の中の柘榴は一瞬表情を失った。背を叩かれ、灰白は珊瑚に課せられた難題を手伝っていく。城で日常的にやっていたことだ。「アテクシのエゴに付き合ってくれてありがとう」と柘榴は宿代を珊瑚から渡され、灰白の髪の加工代を請求しなかった。戸惑ったが、琥珀ちゃんを使えるようにしておいて、と片目を閉じ茶目っ気を見せる。外はすでに雨が上がっていた。宿を出ると確かめたいことがあると珊瑚は言った。
弁柄通りを抜け、長春小通りで買った握り飯を木蘭寺という場所で食べた。本堂まで伸びる竹林の庭園が美しいことで有名らしい。城の竹林と違い、石畳が敷かれ、竹垣が設置されていた。竹の葉の色が瑞々しく地に透けていた。竹で造られた四阿で少し休み、また長春小通りに出てから不言通りを歩いていく。夜に特に活気付く通りだが人通りはそれなりにあった。不言通りをずっと抜け、灰白は足を止めた。このまま進むと洗朱通りが近くなる。遠くなった珊瑚が振り返る。疲れたか。口がそう動いた。首を振る。珊瑚はどこへ行こうとしているのか。焦げた匂いが鼻に届く。酸味と渋みを帯びた風。火事でもあったのか。洗朱通りに着くまで、珊瑚と灰白の距離は埋まらなかった。珊瑚の足が段々と速まっていく。増していく、焦げ臭さ。髪に塗られた液体よりも知った異臭。曲がれば猥雑な洗朱通りとを繋ぐ小道、というところで珊瑚は歩みを止めた。白い手が不意に鳥籠を放し、地に叩き付けられる。耳障りな音が立つ。肩に乗る鳥がまた落ち着かない様子を見せた。追い付いた背。固まった視線を追う。黒煙が弱く立ち昇っている。燻るように。黒く焦げた地面。不安定に積み重なった建物が消えている。崩れかけた廃屋もない。代わりに真っ黒になった木材や、混凝土の瓦礫などが散乱していた。不言通りがまるで張りぼてのようだった。珊瑚は無言のまま鳥籠を拾い上げる。灰白は洗朱通りではなく別の地区に出たのだと思った。珊瑚は進んで行く。
洗朱地区は焼き払われていた。




