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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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「生きてる?」

 額をぺしんと手の甲で叩かれ、鋭く響く痛みに傷の存在を思い出す。我に返って視界に入った黒い鳥が喋っているのかと一瞬錯覚した。

「珊…瑚様?」

 質素な薄布と雑な髪の普段の見慣れた格好。記憶の内にある堅苦しい衣装や冠は幻か。遠い昔のことのように思えた。灰白は竹に背を預け空にかかる竹の葉を見つめていた。何も考えず、何も思わず。どれくらいの時間が経ったのかも分からない。

「城、あんたがいないって大騒ぎだけど、ダイジョーブ?」

 珊瑚は何でもなさそうにそう言い、石の前に座る。白く細い手が石の前に置かれた髪飾りを一度手に取ってまた戻す。

「戻らないの」

 珊瑚は背を向けたまま問う。灰白は土の入り込んだ、装飾された爪と掌を見つめていた。うん、と短い返事は嗄れている。ふぅん、と興味の無さそうな態度が今は心地良かった。

「血くらい拭けよ、汚いな」

「…汚しちゃってた?ごめんね」

 揺れる竹の葉を見上げながら嗄れた声を整えようともせずに口先だけで謝った。語尾が掠れ、空に吸い取られていく。

「くだらねぇ」

「…うん」

 黒い鳥が珊瑚の肩を跳ねた。忙しなく首を傾げ、珊瑚の髪を突つく。その様相が滑稽で頬が引き攣った。乾いた血が皮膚を引っ張る。

「なぁ」

「なに」

「大丈夫か」

「…大丈夫だよ」

 何が大丈夫で、何が大丈夫でないのかは分からなかった。まだ身体は動き、感覚はある。思考は働き、声は出る。音は聞こえ、光は見える。何が大丈夫でないというのだろう。眼球だけを動かして珊瑚の小さな背を見つめる。

「大丈夫じゃないだろ」

「そうかな」

 大丈夫か否かを考える気がそもそもなかった。掠れた声で適当な範囲の無難な返事を口が勝手に選んでいく。珊瑚はいつまでここにいるのだろう。日が長い時期になりかけているとはいえ、すでに夕方だ。天候も移ろいやすい。

「なんでここに来たワケ」

「…なんでかな」

 少し腹が減った。身体は薄情だ。腰布が乱暴に外されゆとりのできた舞衣装の下で小さく鳴っている。師を見殺し、紅を刺しても。

「なぁ」

「なに」

 雨の匂いがする風。珊瑚を早く城内に入れなければと思って、そして己の立場を思い出し自嘲する。

「あんたは、生きてるよな」

 聞き取りづらいほど小さな声で呟かれる。灰白は顔も首も動かさないまま珊瑚を一瞥し、また竹の葉の奥の空を見つめた。染まりかけた雲。竹の匂い。土の香り。背に当たる細く固い幹。これが生きているはずだ。流れていく雲の形が空に溶け、変わっていく。生きているか否かと問われると生きているはずだ。生きている。今は。

「大兄上の時もそうだった。大兄上の時も…」

 珊瑚が項垂れた。珊瑚の兄は群青に首を斬られたと聞いていた。介錯のようだが、それでも。群青の虚ろな目と、剣の光り。光景として残っているだけでよく覚えていない。

「あんたにまで死なれたら…」

 珊瑚の肩から小鳥が下りる。赤みの強くなった空。薄紅に染まる雲。竹林の中にできた濃い影。

「群青には気を付けろ」

 起き上がる気力が湧かず、このまま夜になってしまうことに焦りも感じなかった。誰かが心配している。だが他人事だ。

「どっか、行こうか」

 珊瑚が突然そう切り出し、灰白はわずかに首を起こす。冷静な頭が、三公子を勝手に連れ出すのはまずいと抗っている。珊瑚にもそれなりの処罰はあるだろう。

「どっかって、どこ」

 分かっていて、しかし聞く気などなかった。珊瑚の言葉の意味を理解した時から傾いていた。

「ここじゃない、どこか」

 もう少し季節が進めばまだ明るい時間帯だが今の季節ではすでに薄暗い。

「…いいかもね」

 珊瑚が振り返って、拗ねるような顔をした。訊いたのは珊瑚であるはずだが灰白の答えに驚いたようだ。返事の代わりに口の端を上げる。

「あのさ…、…本当に知り合いだったの」

 そのまま首を戻さず灰白をじっと見て、躊躇いがちに珊瑚は口を開く。知り合い。知り合いだったのか。顔を知っている。声を知っている。知らない言葉遣いだったが為人(ひととなり)は知っているつもりだった。彼は師か。師であることを肯定した。だが知らない表情をして、知らない言葉を散りばめて、知っている師とは違っていた。

「群青に…訊かれてたから…本当に知り合いだったなら、あれは…キツいだろ」

 灰白は首を垂らした。躊躇しながら珊瑚は言葉を続ける。知り合いじゃなくても(むご)いと。

「知り合いに、似てた」

「似てた…」

「そう、似てた」

 乾いた笑い声が漏れた。似た人。師だ。あの刺客は師で、洗朱通りで会った人も師。紛うことなき月白だった。珊瑚の眉根が寄せられる。

「珊瑚様?」

 師は死んだ。生きているはずがない。血の海になっていた。白磁は、月白は死んだのだ。

「何て言ったらいいか分かんねーけど」

 珊瑚は言葉を詰まらせて、俯く。

「いいよ…ありがとう。ありがとうね」

 目を閉じる。月白は死んだ。だが紅は。

「ごめん。やること思い出しちゃった。先行くね」

 紅は生きているかも知れない。懲罰房へ向かう。珊瑚は何か言いかけたが結局何も言わなかった。外通路から城内へ入ると兵や下回りの者たちに呼び止められる。汚れ、乱れた舞衣装や髪に何かあったのかと問われ、心配され、視線を浴びる。大丈夫、何もない、すぐに医務室に行くと並べ、その場を切り抜ける。紫暗が独居房に送られた時に通い慣れた場所。人通りの多い廊下に出て灰白の姿を見て群青を呼べ、縹を呼べと叫ばれる。

 独居房と懲罰房へ繋がる地下階段の前に官吏が立っている。群青だ。両脇に警備だけでない兵を連れている。人手不足が解消されたため、警備も厚くなっている。群青に気を付けろと珊瑚に言われたばかりだった。

「こちらにお出でになると思っておりました」

 首元に折り返しのついた前開きの襯衣(しんい)。普段身に着けている青紫の上着ではなく渋い色に黒の衿のローブ。右腕を吊る、血飛沫を浴びた跡のない白い布。固い表情をしている。

「…知り合いかもしれないから?」

 声はまだ嗄れていた。隠す気もない。だが白状する気もない。懲罰房、もしくは独居房に紅がいるはずだ。生きているのなら。

「不本意ながら」

 群青のわずかな表情の機微が分かるようになってしまった。灰白は両手首を合わせ、前に突き出す。群青が眉根を寄せ、一度顔を背けた。兵に指示を出し、脇にいた兵は灰白の両腕を縛りはじめる。縄ではなく、三尺帯のような布で固く拘束された。群青を前に両脇に兵。廊下には下回りが右往左往し、人手不足だった日々が嘘のようだった。極彩様、極彩様。見知った者たちが声を掛ける。頬を引き上げ、無言のまま歩く。

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