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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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「嫌になったからね、仕事。お酒飲めないし、女性とは遊べないし、朝早く起きてこんな夜中まで長時間労働」

 縹の声が幾分高くなる。あっけらかんとそう言った。

「朽葉様との喧嘩別かれだとお聞きしたんですが」

 縹は黙ったまま近くに置いてあった茶請けの入った皿を出す。複雑そうな顔をしていた。答えないかはぐらかされものだと灰白は思っていた。

「意見が合わなかった。彼とは」

「意見…ですか」

「喧嘩別かれというほどでもないよ。三公子かな、君にそう言ったのは」

 上手くいかない色恋みたいな表現はやめてくれ、と苦々しく笑う。そして縹は大量の紙束をテーブルの上に置いて、ハサミとゴミ箱を近くに寄せた。作業しながらで悪いね言って、以前大浴場の前でやっていた不要書類の破棄の作業をはじめる。

「どこまで三公子がお話しになったかは分からないけれど、一度辞任の勧告を受けて、それを呑む形で辞任したから三公子は喧嘩別かれだとお思いになったのかも知れないな」

「辞任…勧告って、」

 意外だったかい、と縹は差して気にも留めていないようだった。大したことではないのか。

「意外ですよ。縹さんはあまり自分のこと話さないじゃないですか」

「つまらないからだよ。君も見ただろう。飲んだくれた酒浸りの無職が自分語りなど虚しくなるだけだ」

 不要書類を切り刻みながら照れたように笑う。崩れかけた建物で退廃的で荒んだ生活をしていた縹が今、夜更けまで働いている。軟派で胡散臭く酒臭かった青年が今では唯一頼れる共謀者だ。

「そうですか?わたしは縹さんのこと、知りたいですけど」

「やるね、君」

 縹はハサミを置いて茶を飲む。灰白には、何をやるのかよく分からなかった。

「まぁボクのことはいいんだよ。洗朱地区のことはいずれどうにかしなければと思っていたからね。朽葉様の手紙にもそのことについて書いてあった」

「朽葉様の手紙に…」

「とりあえずはやるべきことを済ませたいけれど」

 金属が軋み、紙の繊維が裁たれ、紙片がゴミ箱に当たる音と、縹の落ち着いた声に意識が一瞬遠のいた。茶を飲む。火傷するほどではなかったが喉越しがまだ熱い。

「その時は君も協力してくれるね」

 命の確約は出来ないと言われたことをよく覚えている。

「もちろんです」

 明るく答えた。直後ソファの背凭れに身体を預ける。分厚く張られた革とその下の弾力がさらに眠気を快く受け止める。縹が、大丈夫かと問う。はい、と遅れて返事をし、身を起こす。その後も一言二言話をした覚えはあるが、内容を覚えていない。おそらく空返事か、乱雑な相槌か、簡単な応答だろう。いつの間にか寝落ちてしまっていた。静かな執務室にいる。背凭れに身を任せたまま状態が滑り、横になっていた。朝日が窓を遮る書籍の山々から漏れ、差し込むが対面のソファとその奥の本棚を照らしている。そしてその窓の方から寝息が聞こえる。縹か群青だ。眠気も残らず、身体は軽い。起き上がって、積み上げられた書類の山から奥を覗く。青紫の布が見えた。そして吊り上げらた腕。窓と窓の間の壁に頭と肩を預け、静かに眠っていた。正面に回る。作業机には紙が散らばり、その上を筆記具が転がっていた。窓から外を見ながら真横にある少し俯き気味な群青の寝顔を見た。長い睫毛が反っている。まだ少年だ。同じ年の頃だろうが、まだ身も大人にはなりきれていない。成長途中だ。作業机の上の、筆記具に逃げられた白い手。指先には滑り止めが嵌められている。仕事で首を斬り、耳を斬る。溶けて消えるような笑みを見せ、しかし仕事となれば。

 執務室の扉が開き縹が入ってくる。そして静かに扉を閉めた。光沢のある派手なローブが強く網膜を刺激する。おはようございます。群青を起こさないよう、小さく挨拶する。縹は欠伸を噛み殺しながら何度か頷いた。

「寝違えてないかい」

「はい」

「ここで寝たのでは身体が休まらないだろう」

 むしろ深く眠れたと思った。引き摺った眠気がない。姿勢は悪かったが、頭はすっきりしている。

「縹さんはちゃんと休みましたか」

 縹は眠そうに瞬きを繰り返して、誤魔化しの薄い笑みを貼り付け、棚から書類を集めはじめる。

「寝直しなさいな。まだ時間も早い。山吹様は今日も花緑青殿と合同稽古だからね」

 必要か書類を棚から集め終え、群青の眠る作業机に向かう。

「仕事中だったのに、ほんと…ごめんなさい」

「それは昨晩聞いたよ。こちらも何もしてやれずすまなかったね」

 忙しそうに紙束を作業机に置くと、群青が眠っている真向かいに腰を屈め、転がった筆記具を借りて何か記している。そしてまた執務室から出て行った。長居も悪い。離れ家へ戻ろうと執務室を出た。途中の廊下で紙束を処理し終えた縹とすれ違う。

「君のおかげで群青くんの肩の力が少し抜けたみたいで助かるよ」

「……そうでしたか?」

「…彼も殺す?」

 本意はここにある。まさかそのように見えたとは思わなかった。迷ったのは事実だった。師の耳を斬り落とし、朽葉の首を斬り落とした。彼自身に罪はない。仕事だ。だが仕事であと何人死なせるのだろう。洗朱の痩せた子どもを殺したのは誰だ。果てのない空虚な妄想のつもりだった。殺すのかと縹は簡単に訊ねた。眠る彼を殺める術は幾らかあった。それを教えたのは昨日会った男だ。殺害だけなら簡単だ。だが実際は後先に面倒なことがいくつもある。

「何を…言ってるんですか」

「職務中に居眠りなどしたことなかったからね。思えば今までが張り詰めすぎだった…とはいえ不健康な生活には変わりがないけれど」

「不健康なのは群青殿だけじゃないでしょう。縹さんもあまり、不摂生は…それから物騒な妄想も」

 参ったね。小さくそう聞こえた。それから肩をぽんと叩かれる。縹は執務室へ戻って行った。ローブの裾が翻り、城の洗濯係がよく使っている洗剤の香りを風に絡ませる。

 離れ家に戻る途中の外通路で珊瑚が竹林に入っていくのが見えた。鳥籠を持って。失った兄を感じられる場所に1人でいたいのだろう。灰白は見ていないことにして離れ家へ戻る。群青からの指示がなければ今日も下回りの手伝いだ。気遣われたりなどはしたが、共に城に住まう者だからと積極的に雑用をこなした。それでわずかに赦されようと思ってしまう。多少なりとも負い目から逃れられるような。稚拙なやり方かも知れないと思いながら。

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