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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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 花緑青は何度も出稽古で通っているのか慣れているようだった。そして花緑青のことを何も知らないことに気付いた。ここに来るまでの当たり障りの無い会話では断片的なことしか分からなかった。干し柿が好きだとか、求肥が好きだとか、どこの店の簪を贔屓にしているとか。他には、もしかすると縹に恋心を抱いているのではないかと思った程度だ。初めて会った時の印象や興味が他のことに気を取られ薄かった。失礼な態度を取ったかも知れない。

「この辺りにはよく来るの?」

 廃れた街並みを見渡しながら灰白は問う。縹が住んでいたところよりも退廃的だ。

「稽古があれば…見ての通りですが荒れていますから。退廃地区に女子供だけで近付くのは憚られます」

 ですから極彩様が一緒に来てくださって良かった。甘酸っぱい香りがする。踵が高い靴を履いて同じくらいの目線のため、花緑青のほうがそう差はないが背丈は低いようだ。

「わたしも1人だったら怖いよ」

 灰白は強張った笑みを浮かべる。日が沈む頃合いになると洗朱通りには照明のある建物や外灯もないため濃い陰を落とす。

「極彩様は洗朱地区のことはどの程度ご存知ですの?」

「全然知らないんだ」

 1回来たことがあるだけだ。だがその時はあまり洗朱通りの奥ではなかった。この地区ほど荒廃していなかったように思う。

「この土地は…風月国になる前の国の者たちで栄えた土地なんです」

 花緑青の静かな声が、洗朱の空気のせいかどこか薄気味悪い。灰白は、風月国の前の国というところに引っ掛かった。まだ新しい国なのか。花緑青は神妙な面持ちで灰白を見た。大きな渦の紋様で表情はきちんと把握出来ない。

「花鳥国といいます。洗朱地区の外で話すと、不敬罪になりますから、洗朱地区の中でしかこの話は…してはなりません」

緑青(ろくしょう)殿?」

 温和だった雰囲気が突然張り詰めたものへと変わる。

「今の風月国の王によって花鳥国は滅亡しました。花鳥国の(がわ)についた者たちが権利も制度も与えられず…ここに暮らしています。治安が悪いのは確かですが、もともとは…」

 崩れかけた建物の、何も嵌められてはいない窓枠から2人を見つめる幼い双眸。痩せ細り土や埃で汚れた顔。襤褸雑巾のような衣服。

 花緑青は止めていた言葉を一呼吸置いてから続ける。

「もともとは不言(いわぬ)通りの人々と何ら変わらない人たちだと、わたくしは思っております。でも食うに困るから…仕事にも就けず、医者に診せることも出来なければ払う金もございません。ただ本当にここに住まうものの心が、本当に根から悪いのか、貧困が悪くさせているのか…それはわたくしのような芸妓ごときでは分からないことでございます」

 気付けば立ち止まっていた足がまた歩を進める。

「朽葉様はこの地区の支援に尽力したくださいました。だから…」

 小石を踏む音が響くほど辺りは静かだった。靴の軋む音もする。固く乾いた土を踏む足音はうるさいほどだ。乾燥した空気に唇がちりちりとした。不言(いわぬ)通りは湿度が高いほどだった。

「風月王のことは憎いです。でも朽葉様は、ここを好きでいてくださいました。救おうとしてくださいました」

 饐えた匂いと、土と埃の匂いの中に瑞々しい香りが混じる。

緑青(ろくしょう)殿は…、」

 花緑青は灰白を見て自嘲的な笑みを浮かべる。灰白は言葉を止めた。心持ちは、制止させられた。

「極彩様だけにお教えいたしますわ。そうです。洗朱生まれの芸妓となると…人として扱ってもらえるのかも怪しいですから」

 花緑青の鈴の音のような綺麗な声は優しいが冷たかった。

「軽蔑なさいますか。出身を偽ること。己の経歴を偽るということは、己を偽ることだとわたくしは思ってしまいます。でも生き延びるためなら…簡単に曲げられることです」

 大きな溝を感じた。花緑青との大きな溝を。城で見せていた柔らかく穏やかな、陽だまりに咲く小花のような雰囲気がまるで空虚なもののように思えた。それは花緑青が言ったような、出自を詐称したから生じた(ひず)みではない。

「親が洗朱の生まれというだけで、面白半分に…孤児になる者も少なくありません」

 花緑青が頭を動かす。何か見つめている。視線を追った。擦り切れた(むしろ)に横たわった、白骨なのか生きているのかも分からないほど痩せ細った子ども。

「朽葉様がご存命の頃はまだ、支援がありましたから裕福な暮らしは出来なくても、生きるに困らない程度の食物は作れました。…何より、畑を耕し苗を育てる技術も労働力もありました」

 花緑青はそう説明しながら、動く様子のない子どもの脇に屈み、両手を合わせる。落ち窪んだ虚ろな眼球を薄い瞼がゆっくりと閉ざしていく。灰白は息を飲む。頬骨が浮き上がり陰を作る。虚ろな目は花緑青を捉えてはいなかったが、だが何かをしっかりと捉えているように見えた。もうすぐ短い命を終えるのだと嫌でも分かってしまう。

「多くの人にとって洗朱の人間は空気です。それならそれでいいんです。でも一部の人にとっては洗朱の人間は…害獣くらいに思えるのかも知れませね」

 花緑青は立ち上がった。灰白は目を開けない子どもの姿から目を離せなくなっていた。身体が重くなる。首が軋むようで動かず、両肩が張る。瞬きをするのも厄介だった。

「この子には、もう…」

 口だけが動く。花緑青が小さく、ごめんなさいと言って灰白の眉間を指で押す。首が反る。息をするようにふっ、と身体の怠さが消えた。

「ここまでになると、もう手の施しようが…」

 見慣れているようだった。道端で子どもが死んでいくことに。ひとつ気付けば、あちらこちらに粗末な布で巻かれたものや筵が被せられたものが転がっている。

「どうお思いになるか分かりませんが…わたくしは、無知な善意で人を死なせたことがございます」

 灰白は黙っていた。何も言葉が浮かばない。風月国は四季国よりも豊かに見えた。

「一度だけ、食べる物を与えました。餓死寸前の…子どもだったようにも思えます。育たなかった大人だったのかも分かりません。…飢えた身体にはむしろ毒でした。然るべき方法がありました」

 淡々と花緑青は話し続ける。立ち止まったままの灰白を振り返って、行きましょうか、と微笑む姿は城の中で見るものと変わりないように思えた。

「洗朱地区はそういうところです。外の者に手を出せば死罪ですが、何をせずとも待つのは餓死か病死です。それか理不尽過ぎるほどの暴力か。ですから、どうにもならなくなれば、何をするのか分かりません」 語調にわずかな険を帯びはじめる。

「縹様だって分かっていらっしゃるはずですわ。だのに極彩様にお遣いを頼まれるだなんて…」

 怒気を醸す花緑青は初めて見たが、それでも花緑青は城の中に居る時と変わっていない。花緑青の短く淡い夢を見ていた気分だ。

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