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花緑青が出稽古の場としている建物がある区間で別れる。鴨跖草も近いらしく簡潔に行き方を教わる。「わたくしが申し上げるのも烏滸がましいかとは思いますが、くれぐれもお気を付けくださいませ。洗朱地区は危のうございますから」と別れ際に花緑青は灰白を気にした。
灰白は紙片を眺めながら鴨跖草を目指す。屋根を失った家屋や壁の壊れた店と思しき建物が並んでいる。壊れ、崩れた建物と建物の間からは、不安定な集合住宅が見えた。錆びて傾いた看板が鴨跖草を案内している。だがそこにあるのは空き地だ。乾いた地面に雑草が生い茂っているが一部毟られた跡がある。あの紙片は悪戯だったのか。危険な土地へ誘い、身包みを剥ぐ。無い話ではない。洗朱地区を指定された時点で疑うべきだったのかも知れないとは、花緑青の話を聞いてから分かることだ。そして社会的弱者だと思いながら同時に自身にとっての危険因子だと思ったことに灰白は呆然と視界に入ったものをそのまま見つめていた。縹の住所を訪ねた時は気味が悪い程度にしか思わなかった。
「ほんまさ、来だんだ」
後ろから声がする。振り向くと、白い髪をわしわしと掻き乱す男が立っていた。
「月白師匠」
右側だけに掛けられた円い眼鏡の奥の淡い瞳が細まる。
「月白師匠ですよね…?」
白髪の青年は首を捻る。
「俺っち、白磁いおるたい」
「…え…」
言葉が通じていないがある程度の意味は受け取れた。白磁と名乗る男は師とは違ったらしい。
「でも…月白師匠に似ています」
「そんなん知らん」
「でも…わたしにこれ、渡しましたよね」
灰白は紙片を見せる。白髪の男は唇を尖らせた。
「…どもなね」
困ったように首を傾げて白磁は灰白を見下ろす。師は表情豊かな人ではなかった。
「久し振りにだいのぉ」
師であることを肯定される。だが記憶の中の師とは姿形は同じであるが別人に思うてしまう。白髪の男からの肯定を欲していたつもりで実際に肯定されてみると違和感が後から後から湧き起こる。
「本当に月白師匠なんですよね?」
「そだがよ」
戸惑う。白い髪と淡い紫の瞳。顔立ちも師と同じだ。長い月日が経っているが多少髪型の変化はあれど外見は変わりがない。
「どうして風月国にいらっしゃるんですか」
「そが、風月国の王様に呼ばれたけん、行ぐしかねんべに」
「…そうでしたか」
まだこの師によく似た男を師だと、肯定された上でも確信出来ない。だが似過ぎている。顔立ちも、髪も、瞳も。
「四季国が…色々あったのはご存知ですか」
「ちっとんばいね」
これくらいと言わんばかりに親指と人差し指で程度を説明する。よく喋る口でも、どこのか分からない方言でもどれでもなく陽気な態度が、一番、師と遠ざけている。
「その流れでわたしも、風月国に身を寄せています。紅も…紅のことは覚えていますか」
「あん、いじけっ子だんべ」
覚えているようだった。だが師の思っている人物と合致しているのかは分からない。
「月白師…」
「そうじゃあんめぇ。白磁。誰かに聞かれたら大事たいね」
「…は、白磁…し、師匠…」
師は肩を竦める。灰白には師の姿を借りた別人としか思えなかった。
「元気げでまぁ、良がっだわ」
顔も見られたことで話は終わったとばかり師は一方的に話を終わらせ、帰ろうと背を向ける。
「げ、…白磁し、師匠…」
乾いた風が吹く。白い髪が靡いた。右耳が無かった。右側に掛けられた眼鏡の金具は後頭部へ伸び髪の中へ消える。師は髪を押さえた。見間違いかと思った。凝視してしまう。師は険しい表情を浮かべて振り向いた。見た?とでも問いそうな鋭い眼差し。目が合って、慌てて右耳から目を逸らす。
「きのう一緒にいたんべ、男」
「群青殿ですか」
「右耳ぶった斬られてん。右眼もそれでさね。げぇにぶっついたんさ。ぼてくりこかされたいうてもええくれに」
開き直ったのか師は右耳を隠していた髪を掻き上げる。やはり耳が無かった。
「朽葉いうんが止めたけ」
師は濃くなり夜になっていく空を見上げている。だか白い毛は明るい。光って見えた。
「刑罰いうか。まぁ醜いもんだったわ。まだガキやぞ。お偉方の家いうても、なんだかな」
「見たんですか」
師は灰白を一度見遣る。
「繭みてな籠入ってたわ。牛さん車に引かれて、運ばれてった」
その時の朽葉の様子まで語ろうとした師を止める。
「師匠は何故、その…右耳を…?」
「知らんわ。俺っちが訊きたい。多分やけど、ここンガキ匿ったけん、それと違うんかな」
他人事のようだった。片方だけの眼鏡を掛け直しながら、迎え来たで、と離れた位置を指す。灰白はその人物を探した。暗いが珊瑚の部屋よりは物の輪郭は分かる。
「まっさか無傷でここまで来るとは思わんかったわ。ま、なんかあったらそれまでの武芸だったゆうことやんな」
師はにやにやとしている。鴨跖草の看板の近くに、淡い髪色に白の衣服の見えた。派手なローブは背負っていない。
「試したんですか」
「わきゃなかったんべ」
迎えの人物には悪いと思ったが、帰ろうする師を引き留める。とっとと帰り。馬鹿にするでもない優しい声に聞こえた。久々に会った。だが軽く、帰りを促す。長い月日を経て再会した。だがあまりにもあっさりしている。
「また会ってくれますよね?」
「…四季国、ヤバいんと違うの?四季国出てきた俺っちと一緒にいるん見られたらマズくなかと」
「でも…」
「まんだ泣ぎみそ治らねん?」
ははは、と師は笑う。笑うなと思った。師は笑わなかった。笑い声を聞いたことなど一度も聞いたことがなかった。
「ほら、あんま待たすんじゃなかね」
師は迎えを見つめて、そしてまた灰白に笑いかける。
「まだ全部話せてません。色々あったんです、色々…」
師を巻き込むつもりはない。だがもう戻れない思い出を語り合うくらいは。だがそれをして、どうなるのか。考えたくはない。触れてはいけない。しがみつくのが怖い。
「…したら手紙でよこしぃ。気が向いたら返したる」
絶対返してくださいよ。灰白は呟いて迎えのもとに向かう。勝手な人だと思った。ああいった人ではなかった。




