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入浴から戻ってきた灰白の髪を紫暗が乾かす。強い熱風が吹く器具を使いながら紫暗は無言のまま髪を梳き、花の香りがする油を塗り込める。
「少し傷みましたね」
「うん…ごめん、いつものやつ塗らなかったから…」
「そうでしたか。いえ、謝らないでください。自分が好きでやってたことですから」
丁寧に一房一房油を塗っていく。
「もしかして髪結いになりたかったとか?」
「そんな大したものではないですよ。自分は絡繰士になりたかったですけど」
「絡繰士?」
「仕掛けで動く人形とか、回し方で鍵掛かる木箱とか。そういうの、昔家族で見に行ったことがあって。買ってもらったんですよ、失くしちゃったんですけど」
灰白も昔見たことがあった。複雑な形の木片で組まれた小物入れだった。決まった順番に仕掛けを解いていかなければ物を入れた部分が開かない仕組みになっていた。
「そうなんだ。じゃあ、職人さんだね」
「はい。幼い頃の憧れってやつです」
紫暗は灰白の行動を掘り返すこともなく上機嫌のように思えた。触れないようにしているのだろうか。傷の目立つ顔が綻んでいる。髪を乾かし終えると灰白は布団に促せられる。紫暗は布団の脇に座って、窓の外を見ていた。
「紫暗」
呼ぶと窓の奥を見ていた無表情が柔らかくなって灰白の顔を覗き込む。
「怒った?」
「…怒るわけないですよ。極彩様のすることは心配だし理解は難しいですけど…ただ、命があってよかったと思うだけです」
紫暗は呆れたような様子を見せたがふざけているだけのようだ。
「もうダメかと思った。でも、きっと孤独なんだと思うから、珊瑚様。振り上げちゃったままの拳を下ろせないんだと、思う」
灰白は布団に顔を埋める。
「公子は三公子も山吹様には特に目を掛けていらしたから、後ろ盾をなくして不安が増したのかとは思っているんです」
「不安が増す…?」
「気にしてるんですよ、公子や二公子、山吹様に似なかったこととか、元々少し不安定で。それで公子が亡くなった今…主公が帰還すれば、三公子と山吹様の処遇がどうなるのかは分かりません」
話している途中で紫暗は離れ家の玄関へ険しい目付きを向けた。誰か来たのだろうか。
「紫暗?」
どうかしたのかと、呼ぶ。だが何事もないといった様子で紫暗はまた穏やかな表情に戻った。
「すみません、ちょっと大きな虫がいたので。払っておきますね」
「うん…ありがとう」
「主公や二公子が帰還すれば三公子もおそらくは落ち着きますから、あまり心配なさらず。今はお休みください」
紫暗は立ち上がり照明を消す。
「紫暗も…ゆっくり休んで」
「はい。では下がらせていただきます」
外通路と玄関の小さな光で照らされた紫暗の影。片足を引き摺っている。身を起こすと紫暗が振り返った。
「1人で戻れる?一緒に行こうか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
傷だらけの顔同士が笑い合う。小さな身体が玄関扉の奥へ消え、磨りガラスに溶けていった。
「極彩様」
まだ淡い紫を残す早朝。外通路を抜けると群青に呼び止められた。群青は歩けるようになったらしく片腕を吊り上げてはいたが、出歩くまでにはなっていたらしい。
「群青殿、もう歩けるようになったんだ」
「はい。ご迷惑お掛けしました」
「ううん、そんな。快方に向かってるならよかった。でも無理したらダメだよ。身体、相当負担かかってるんだろうから」
群青は恥ずかしそうに視線を泳がせる。
「お心遣い、感謝いたします…ところでその、昨晩は…大丈夫でしたか…」
顔に残る痣や傷を見てそう言ったのだろう。だが灰白には自身が見えないため何の話だがすぐに思い浮かばなかった。
「え?」
「三公子と一悶着あったと報告が入っておりましたので…」
「あ、それか。てっきり明日の治療訓練のことかと思っちゃった」
今度は群青が、えっ、と小さく声を上げた。
「叔父上と緑青殿が来てくれたから。扉の修繕とか仕事増やしたよね、ごめんなさい」
「いいえ、その件につきましては縹殿が請け負ってくださったので。それであの、明日の治療訓練とは…?」
「叔父上から聞いたんだけど…まだ腕は動かないもんね?歩行訓練のことかな」
灰白は群青の足元を眺める。いつも見ているきっちりした格好だ。だがその下にはまだ湿布や包帯があるのだろう。右腕から漂う淡い薄荷の香りが鼻の奥をそよぐ。
「え…いや、あの…、休暇をいただきまして…」
「あれ?そうなの。じゃあわたしの聞き間違いかも」
縹は治療訓練だと言っていたが、群青の回復が思ったよりも早かったのかも知れない。
「あの、…花緑青様の手巾を汚してしまったので…買いに行きたいのですが、その…一緒に選んでくださいませんか…えっと…足首を慣らすのも兼ねて…」
淡々と事務をこなし、指示を飛ばすすがたとは違う、たじろぎ長い睫毛を伏せた姿。どこか調子が悪いのか。それとも朝は傷が痛むのかも知れない。灰白もそういうことがあった。気温や天候で治っているはずの傷や傷めた筋が疼くことがある。
「うん、いいよ!楽しみにしてる」
律儀だな。灰白は思った。頭部からの流血で繊細な刺繍が施された布は元には戻せないほど赤く染まっていた。
「は…い。その、それだけではなくて…お忙しいのは十分承知しているのです、でも…1日を、わたくしにくださいませんか…?」
「えっ、全然忙しくない!1日といわず、群青殿が言うならいつでも付き合うよ」
快く返事をしてから、情を捨てろ、と縹の言葉が頭の中に響いた。混乱に陥れることになる。この生真面目な男を巻き込むことになる。
「ありがとうございます」
時間と場所を話し合って、群青は控えめに微笑を浮かべて仕事へ戻る。胸に残る、粘りつくようなわずかな熱。脳裏に纏わりつく、知らない群青の表情。厄介なものだろう。きっと縹は邪魔だと言う。縹だけではない。何より灰白が自身でそう思った。忘れたわけではない。紅と約束したではないか。
「極彩様、おはようございます」
曲がり角で前を通りがかった花緑青が灰白に気付くと、上体をわずかに傾けにこりと笑う。いつものように顔面に紋様を入れている。まだ早朝だが身支度が整っており、どこかへ出掛ける予定らしい。
「緑青殿、おはよう。どこか行くの?」
「はい。新しい舞の稽古ですわ。ですから少し、山吹様との練習は遅れます。群青様や縹様にはすでに伝えてありますから」
「そうだったんだ。気を付けてね」
はい。鈴の鳴るような声で花緑青は甘酸っぱい香りを残して稽古へ向かっていった。その背を見つめる。どのような手巾がいいだろう。群青の隣で手巾を選ぶ空想の光景が浮かんで、灰白は頭を振った。




