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彩の雫  作者: .六条河原おにびんびn


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 山吹の、珊瑚を助けてという懇願の意味を何となく形として見てしまったような気がして、灰白の反応が遅れた。腹を横から蹴り入れられ転倒する。即座に馬乗られ、片手で首を掴まれる。逆光する珊瑚の顔は紅潮しているように見えた。目が潤んでいる。

「あんたには、なんも分かんねーよ…」

 首を掴み手が、締めるように動く。もう片方の手が暴力の豪雨となって降り注ぐ。

「俺は!公子になんて生まれたくなかった!」

 震えた声が耳鳴りの奥で聞こえる。

「山吹の嫁になる女には分かんねーよ!」

 空しく灰白は天井を見上げる。鼻がぬめる。縹がしていた押印の作業みたいに顔中に血が塗りたくられる。

「大兄上だって!たった1枚の紙切れだったさ!俺はどうなる?ただのメモ書き1枚か!」

 ぼたりと水滴。珊瑚から降る。灰白は閉じかけていた目を開く。珊瑚が泣いている。山吹に頼まれていた、助けるどころか泣かせてしまった。

「珊瑚様…」

 ぼたり、ぼたり。鼻血が散らされた肌が洗われていく。

「抗うなよ…あんたも、処されんだ…」

 灰白を殴る拳が弱まる。いつからするのか扉を叩く音が耳鳴りの奥で煩い。胸倉を掴まれる。縋るような、逼迫した珊瑚の顔面と声音が近付く。だが頭の内側から連打される痛みに、衣服に身を委ねて喉が反る。

「人の、価値は紙1枚とか、そういうんじゃ、言い表せない…からさ…」

 朽葉の姿は忘れない。森の外へ歩く姿。丈の長い草を踏みしめながら歩いていた。あれは後に続く灰白や紅が歩きやすくなるためだったのだと、今ふと理解した。途中で枝を拾って木々を叩いていたことに意味があったのか否か分からないが、無邪気だった。風に靡く癖のある手が犬の尾のようだった。四季国の者たちの営みも紙1枚で纏められ、締められるようなものではなかった。

「朽葉様は、とても…」

 口の中が血の味で甘かった。珊瑚は灰白の血が付いたままの手で自身の目元を拭う。

 扉が叩かれている。その奥にいるのが誰なのかを考える余力はない。揺さぶられた頭。点滅する視界が思考を奪う。低音の歌を口遊(くちずさ)んだ時によく似た喉の重み。珊瑚の嗚咽が上で聞こえる。身体は相変わらず鈍痛に覆われていた。まだ成長の余地があるが、珊瑚の体重は男性にしては軽かった。

「泣かな、いで…」

 喋ると唇の傷が広がっているのではないかと疑う鋭い痛みが走り、血の味が増える。あまり言葉を掛けられず、まだ暗点のある視界のまま珊瑚を見つめる。扉が数回派手な音が頭に響く。

「何をしてるんだ」

 聞き慣れない縹の声色。誰かが駆け足で近寄った。視界に入ったのは縹ではなく花緑青だ。屈み、丈の長い裾から足首が見える。

「ずみ、ませ…。年甲斐もなく、ちょっと、取っ組み合いの、稽…」

 顔が痛い。熱を持って、引き攣った。腫れ上がっているだろうか。それとも痣だらけだろうか。武術の師が良い顔をしなかった理由をわずかに掴んだような気がした。

「三公子、失礼いたしました。大至急扉の修繕に取り掛かりますので」

 珊瑚に深々と頭を下げる。視界の外だったため灰白は痛む首に力を入れて頭をもたげた。珊瑚は無言のまま灰白の上から退いて、鳥籠を持つとどこかへ去った。灰白は花緑青の膝の上に頭を乗せられる。

「極彩様」

 花緑青の冷たい手がぺたぺたと灰白の頬に触れる。

緑青(ろくしょう)殿の手、気持ちいい」

 意識はある。だが起きるだけの気力は無かった。

「何人負傷者を出す気かな」

 縹が近付いてくる。不機嫌なのが目に見えて、苦笑いを浮かべると縹の端麗な顔に皺がより深く刻まれる。

「すみません」

 何より先に謝らなくてはと思った。すとんと身体から力が抜けて、目を閉じる。花緑青の手が心地良い。頭痛に影響しない程度の甘酸っぱい香りに落ち着いた。

「寝てるのかい」

「起きてます」

「立てる?」

 身体中が痛い。首を振るのも億劫だ。

「いいえ…」

 嘘でもはいとは言えなかった。縹の溜息が聞こえる。珊瑚の自室だが、もう少しここに居られないだろうかと怠慢な考えが浮かぶ。

「担架は必要そう?」

 ただでさえ人手不足で、そして今群青は療養中で、珊瑚の自室の修繕もある。だがやはり立てそうにない。

「…甘えてもいいですか」

 立てるかも知れない。だが離れ家まで歩けそうにない。縹がさらに灰白に接近し、脇に膝を着く。具合を診るのだろうか。灰白は身体を楽にする。

「縹様、」

 花緑青が驚きの声を上げる。身体が突然浮く。膝裏と背を支えられている。灰白は花緑青とは反対に声が出なかった。縹が歩き出す。灰白はびっくりして身動ぐ。

「暴れないでくれるかな。力仕事は専門外だからね。落としてしまうよ」

「ちょ、縹さ、叔父上…」

 上体を前にのめらせると縹の脇の花緑青と目が合ってしまい、気まずくなって目を逸らす。花緑青は縹を慕っているらしいのだ。

「何もこれは…」

「口喧しい子だね。ボクで事が足りるのだからいいだろう」

 叱るような縹の髪が灰白の額を叩く。すでに珊瑚の部屋の扉を修繕する者たちとすれ違う。

「あまりあの娘に心配かけるんじゃないよ」

 まるで縹の毛先に叱られているようだった。紫暗のことを出されると何も言えなかった。紫暗が地下牢を出たことを縹は知っているだろうか。知っているだろう。食事を届けに行くのは縹だった。

「ごめんなさい。紫暗は、どうしていますか」

「牢を出たのは知っているかな。一室与えて早く寝るようには言ってあるけれど、本当に寝たのかは分からないな」

「…そうですか」

 紫暗は怒るだろうか。それとも呆れるだろうか。嘆く姿も想像出来る。

「とりあえず医務室に行くよ。群青くんも上がっている頃だからね」

「仕事増やしちゃいましたもんね…すみません」

「…そういうことではなくて」

 群青はきちんと仕事を終えたと聞いて安心した。花緑青はくすくすと笑っている。

「どうして迎えに来てくれたんですか」

 紫暗が縹に何か言ったのだろうか。口を開いたのは花緑青だった。

「配線の遮断器を落としてしまったので、謝りに行こうと思って…縹様についてきていただいたんです」

「配線の…遮断器?」

 聞き慣れない単語に首を傾げる。

「ブレーカーが落ちたの、分からなかったかな。三公子の部屋に勝手に電気が点いてしまったわけだからね、何かしら揉めると面倒だろう…?」

 含みのある言い方に、嫌味なのかと勘繰ってしまい灰白は笑って誤魔化した。

「呑気なものだね」

 怒っているらしい。花緑青はまた、ふふ、と柔らかく笑って、「私、ここで失礼しますわ」と医務室に向かう途中で別れた。まだ縹が副業と言っていた花緑青の入浴時間の深夜には遠い。

 縹に抱えられたまま医務室に運ばれる。群青のいた寝台は脇に簡易的な作業台を残したままだ。診察台に下され縹があれこれと処置道具をいじる。

「医務係の人はどうしたんですか」

「言っただろう、群青くんがきちんと機能しない間は緩くやるって」

 二又になった薄い金属で摘まれた、濡れた綿が口角に当てられる。傷口に小さな痛みが走る。

「っい、」

「まったく。怪しまれたらどうするつもりだい。まさか見抜かれるなんてことはないだろうけど、警戒されてもつまらないだろう」

「…すみません」

 小言が始まる


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