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第5話 静寂を泳ぐ

Side:蓮


 夜が来た。


 電気が通っていることが、夜ほどありがたく感じられる時間帯はなかった。蛍光灯の明かりは部屋の隅々まで届く。それでも、夜は夜だ。窓の外は、見たこともない暗さで黙っていた。


 時計の針の進みが遅い。秒針の音だけが、部屋にはっきりと響く。チッチッチ、と。それを意識すると、あらゆる物音が秒針の音に重なって聞こえてくる。冷蔵庫のうなり。蛍光灯のジィィという小さな音。自分の心臓の音。


「うるさい、というほどじゃないけど」


 声に出した声が、いつもより薄く、頼りなく響く。一人暮らしは慣れているのに、これほど自分の声を嫌だと思った夜はなかった。


 スマホを手に取った。SNSを開く。少し間を置いて「ネットワークに接続していません」と表示される。ニュースサイトも、会社のサイトも、開かない。タイムアウトしてしまう。


 ラジオもつけた。AMもFMも雑音。ホワイトノイズの濃淡だけがチャンネルごとに違って、それが地方ごとの個性みたいに聞こえなくもない。聞こえないか。聞こえないな。


 しばらく、ラジオの雑音が通奏低音のように流れる部屋で、俺は壁の一点を見ていた。


 誰の家だろう、と思った。


 壁の一点。よく見ると、ここに住み始めたときからある小さな打ち痕。引っ越し業者がぶつけたか、自分でぶつけたか、たぶん自分だ。家具の角度。本棚の並び。何もかも俺のものだ。なのに、外の景色がまったく違うせいで、自分の家にいる気がしない。


 これが、家、なのか。


 ──いや、家だ。間違いなく、家だ。


 そう確認したくて、本棚から適当な小説を抜いた。学生時代に読んだ、ちょっと長めの推理小説。頁をめくる。文字を追う。文字が、追えない。文字が並んでいるのはわかるけれど、何が書いてあるかが、すうっと頭を通り抜けていく。十頁ほど読んで、自分が一行も理解していないことに気がついた。


 本を閉じる。


「ダメだな、これは」


 呟く。


 俺は、本当に俺だろうか。


 唐突にそんなことを思って、すぐに、いや待て、と自分にツッコミを入れた。これはまずい考え方だ。SEとして仕事をしていると、こういう「無限ループに入りそうな思考」には、ストッパーをかける癖がついている。とりあえず、現実的な行動に切り替える。


 風呂を沸かすことにした。


 湯船にお湯を張る。普通に張れる。給湯器の表示も普通だ。湯気が立ち上る。風呂はぬるめの四十一度に設定する。お湯が満ちるあいだ、俺は洗面台で手を洗っていた。


 鏡を見た。


 鏡の中の俺は、俺だった。やや疲れた顔の、二十七歳のSE。髭はちょっと伸びている。剃るかどうか迷って、剃った。電動シェーバーは充電が残っていた。


 風呂に入る。


 肩まで浸かると、体の芯がふっと緩んだ。暖かさが、一日中こわばっていたところを、ゆっくりほどいていく。


「ああ……」


 声が漏れる。漏れた声に対して、俺は少し驚く。生きてる声だ、と思った。


 湯船の中で、自分の腕や脚を見る。傷もある。大学で転んだときの古い傷。水ぶくれが消えた跡。それは確かに俺の体で、俺の歴史を刻んだ体だった。


 頭まで沈んでみる。耳の中まで湯が満ちて、世界がぼうっとした音になる。血液の流れる音だけが体の内側から聞こえる。


 ──俺は俺だ。とりあえず、俺は俺だ。


 確認できた、気がした。


 風呂から上がって、体を拭いて、Tシャツとスウェットに着替えた。


 牛乳を一杯飲む。冷蔵庫の中の牛乳は、賞味期限はまだ大丈夫だ。なんならコンロでホットミルクにするくらいの余裕も出てきた。少しだけ、生きる勇気が出た。


 ベッドに横になる。


 天井を見る。天井のシミの位置までいつもどおりだ。


 寝る前、もう一度だけ、机の上の紙を見た。「俺は今、出口のない村にいる」と書いた、昨日の一行。


 その下に、ボールペンで一行、書き足した。


「でも、俺はちゃんと俺だ。」


 書いてから、書いた自分が、ちょっと恥ずかしくなった。誰に向けて書いてるんだ、これは。けれど、書いた紙はそのまま、机に残しておくことにした。


 ──おやすみ。


 誰に言うでもなく、口に出して、目を閉じた。


 朝、ちゃんと俺だったらいい。


 そう願いながら、眠りに落ちた。落ちた、というより、どこかに落ちることを許可した、という感じだった。


 夢の中で、俺は、誰かと話していた気がする。誰かはわからない。声も思い出せない。けれど、誰かが「だいじょうぶ?」と聞いてくれた気がして、それで、目が覚めた。


 朝だった。


 外で、知らない鳥が鳴いていた。


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