1-5 藍と紅
――私は〈みどりのゆび〉なんてインチキな能力、認めないんだから!
「藍」という名のボーイッシュな少女が、リュッカを睨んで言い放つ。
「紅」という名のそばかす顔の少女は、藍の後ろで小動物のように縮こまっている。それでも、目だけはしっかりとリュッカを向いていた。
唐突に向けられた敵意に、リュッカは戸惑った。年下の女の子とはいえ、仇を見るような視線が痛い。
それに――彼女たちは大きな勘違いをしている。
「なんとか言ったらどうなの、チト!」
「いや、違うんですけど……」
「あーあー、聞こえなーい!」
藍はリュッカが言い終わらないうちに言葉をかぶせ、舌打ちする。
まるで会話にならない気配。リュッカは溜め息をついて少女たちを見下ろした。
傲岸不遜な態度とは裏腹に、藍の着物は正夫のものと同じ上品なブルー。リュッカを指さした爪の先にも、よく見るとかすかに藍色が残っていた。
「ほ、ほら藍ちゃん、違うって言ってるしもうやめようよぉ」
一方、紅は涙目になっておどおどしている。声の震えや内股気味の立ち方から、怖がりな性格だと知れた。「紅」という名前なのに、着物は淡い黄色なんだな。リュッカは頭の片隅でそんなことを思った。
リュッカが黙っていると、藍の不機嫌の矛先は紅へと移り、
「ねえ、紅。あんたも見てきたでしょ? 先週はつぼみさえつけてなかった畑のキクが全部満開になってた。あんなのありえない。インチキよね!」
藍は地団駄を踏んで、
「私たち〈庭師〉は、時間をかけて植物に向き合って、手塩にかけて植物を育てる。一日やそこらで無理やり花を咲かせるなんて、間違ってるわ!」
藍の発言にふと現れた、馴染みのある単語。
リュッカは「〈庭師〉だって?」と反射的に尋ねた。
「ええ、そうよ。私は五級庭師の藍。染色草木の保護管理者にして、アサヒ村の藍染師見習いよ」
「わ、私は紅。藍ちゃんと同じ五級庭師で、専門はベニバナなのぉ」
藍と紅の自己紹介を受けて、リュッカはつい真顔になった。
思わぬ邂逅。こんなところで別の〈庭師〉に遭遇するなんて。しかも、アイやベニバナといった染料植物を専門にしているという。藍の着物の生地は、もしかすると藍染めによるものかもしれない。リュッカは二人に興味を抱いた。
しかし話をするにも、まずは誤解を解く必要があるわけで。
「悪いけど、俺はチトじゃない。チトは――」
リュッカが言い直したそのとき、
「なんだなんだ、随分と騒がしいな」
「どうしたリュッカ。そんなに大きな声を出して」
噂をすれば影。騒ぎを聞きつけた正夫が屋敷から顔を出した。
そして正夫の背後から、深紅の着物の少女が姿を現した。
流れるようなブロンド。蒼い瞳。彼女こそ幻の〈一級庭師〉にして、植物を操る〈みどりのゆび〉の保持者だ。チトが期せずしてリュッカの名前を呼んだため、ようやく人違いの誤解が解けるが――本物のチトを前に、藍がわなわなと驚愕する。
「ま、まさかこっちの子がチト? 嘘、いや、でも……」
まあ、やっぱり驚くよな。リュッカは藍の反応に既視感を覚えた。昨夜の奇跡を見るまでは、自分だって信じ切れなかったのだから。
驚いて固まる藍の背後から、やがて、紅がひょっこり顔を覗かせる。
「あっ、斉藤のおじさま。菊人形づくりのお手伝いに参りましたぁ」
「おお、藍、紅。忙しいのに呼び出してすまないな」
「いえいえ。師匠からも手伝ってこいって言われてますし……藍ちゃんなんか『チトを一目拝んでやる』って聞かなくってぇ」
「ちょっと紅……っ!」
知り合いに会えて安堵したのか、途端に饒舌になる紅。
話を聞くに、どうやら正夫が藍と紅を呼んだらしい。あの様子だと、藍と紅の師匠が正夫の旧知ってところか。
内輪の会話に入れないリュッカが所在ない気持ちでいると、不意に、チトと目が合った。経緯を問うような視線を送られて、はっとする。
……まずい。この状況はよくない。藍はどうしてか、チトに敵意を抱いているのだ。何を言ってくるかわからない藍と、チトを同じ場にいさせるべきじゃない。
しかしリュッカの懸念もあえなく、正夫は三人の少女を呼び集め、
「さて、そろそろ作業を始めるとするか。皆こっちへついてこい……おっと、坊主は来なくていいぞ。その義手でキクを粉々にされちゃ敵わんからな」
そう笑って、颯爽と去っていった。
婉曲的に「リュッカは来るな」と言われた手前、ついて行くわけにはいかない。上手い言い訳が思い浮かばず、リュッカはその場に立ち尽くした。
着物姿の四人を見送る。チトをひとりにして大丈夫だろうか――とやきもきしながら。
・・・
「こうやって同じ色のキクを束ねてぇ……根っこのところにミズゴケを入れてまとめてください。そうそう、お上手ですぅ」
摘まれたキクが山積みになっている斉藤家の広間で、紅がチトを指導する。
広間にはざっと二十人。
「ヨナギ村にこんなに人がいたのか」と驚くほど、多くの人が集まっていた。
部屋の隅に活けられたムラサキシキブの切り花が、賑やかな空間をそっと見守る大広間。正夫が一晩のうちに召集した助っ人たちは、雑談を交わしながら、菊人形の衣装づくりを進めていた。
雑談内容に耳を澄ますと、
「それにしても、無事にキクが咲いてよかったわね」
「どうして急に咲いたのかしら」
「こうして菊人形祭りができるんだ、理由はなんだっていいさ」
そんな嬉しそうな声が、あちこちから聞こえてきた。
チトは照れ臭そうに俯くと、親身になって作業を教えてくれる紅に、小声で話しかけた。
「このキク、茎がかなり柔軟だな」
「ええ。菊人形用に改良された品種ですから。この後、このキクの束をイグサで人形に結び付けていくんですよぉ」
紅は満面の笑みで答える。
紅は可愛いものに目がないのか、終始そばかすを朱に染めて、顔をほころばせていた。リュッカと対峙したときとはまるで別人のようだった。
「民子さんがいないのは残念だけど、こんなに素敵な女の子が来てるなんて知らなかったなぁ。まるで外国のお人形さんみたい。あっ、私と民子さんは昔からのお友達でね……」
口達者になった紅は、晴れ着姿のチトをうっとりと眺め、
「着物、民子さんが着付けてくれたんでしょう? とってもお似合いで見惚れちゃう。それに、着物と単衣が『莟菊の襲』なのも素敵だなぁ」
「襲?」
「この地方に伝わる色の組合せですよぉ。うんうん、やっぱり金髪には赤が一番! ね、藍ちゃんもそう思わない?」
隣で黙々と手を動かしていた藍に、藪から棒に同意を求める紅。
ところが藍は、束ねたキクを乱暴に突き刺し、
「……ばっかじゃないの。金が最も映えるのは青。補色も知らないの?」
返ってきたのは、売り言葉に買い言葉。
藍は眉をひそめた紅に目もくれず、
「赤と黄の組合せって、どちらも褪せやすい紅花染めじゃない。そんなの、今だけ楽しめればいい人の道楽よ。瞳の色に合わせるなら断然青、藍色。本当にセンスない」
藍は冷めた口調で、淡々と続ける。険悪なムードが増していく。
やがて、キクを持つ手を止めた紅に、藍は追い打ちをかけるようにこう言った。
「それより、その振袖。菊代さんの着物じゃなかったっけ?
……民子って、主人の遺品を、簡単に部外者に着せちゃうんだね。なんかちょっとがっかりだわ。『菊代様、菊代様』って慕ってたのに、所詮その程度だったんだって感じ」
一瞬の沈黙。チトが息をのみ、紅の手からキクがばらばらとこぼれ落ちる。
「藍ちゃん、民子さんを悪く言わないで! 民子さんは本当に菊代さんを尊敬してて、いつも私に菊代さんの自慢を……」
「じゃあその民子は、今どこにいるわけ? 猫の手も借りたいこの状況で姿を見せないなんて、恩知らずで恥知らずだわ」
誰かが束ねていたキクのゴムが、ばちん、と切れる。
「そ、そんな言い方しなくても……」
紅は下唇を噛んで震えていたが、やがて、目に涙を浮かべて広間を飛び出していった。
あっという間に、紅の足音が遠くなる。
取り残されたチトは、紅が走り去った方向を心配そうに見つめた。
藍と紅の口論の原因はおそらく自分にある。チトはそれを悟った。
それは単に、藍染め派か紅花染め派か、という問題ではない。今は亡き菊代の振袖を着たことを、咎められているのでもない。藍の八つ当たりの原因は、何かもっと、深い苛立ちによるものの気がした。
チトは紅が散らかしていったキクを拾い集めると、
「確か『藍』と言ったな。藍はどうして、」
「ねえ、あんたがチトなんでしょ」
藍はチトの問いかけを阻むように、鋭く言った。
藍の瞳は、なぜか涙で潤んでいた。チトは、それにわずかに怯んだが、問いに対して毅然と頷いてみせた。それを見た藍が、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
「あんたが昨晩、ヨナギ村のキクを咲かせたんだよね? その〈みどりのゆび〉っていう異能で、無理やりに。村の皆はあんたを賞賛するかもしれないけど……私は認めない。その異能、間違いだって思ってるから」
藍はチトから視線を逸らすと、
「これは師匠の受け売りだけど……命には道理があるわ。植物を強制的に成長させるなんて、アイから赤色を引き出そうとするようなもの。操作して支配下に置こうとするのは、傲慢で身勝手だわ。私は電照菊だってそんなに好きじゃない――それに」
ひと呼吸分の逡巡をおいて、藍が告げる。
「操られた植物はきっと苦しいよ」
藍はそれきり口を閉じ、作業の手を止めた。
チトは藍の言葉を静かに聞いていた。遮ることも、反論することもせずに。ただその間ずっと、革手袋の両手でこぶしをつくっていた。
ややあって、チトは本音を漏らすみたいにぽつりと、
「……ああ。わたしもそう思ってる」
そう呟いて、泣きたいのをこらえたような顔をした。
チトはそれから紅を追って、静かに広間を出ていった。
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:シソ科の落葉低木。秋に紫色の果実をつける。名前の由来は平安時代の女流作家。