1546年(天文15年)11月下旬、古渡城、歓迎の宴
織田信長の父、織田信秀は織田家の躍進は信長の祖父、織田信定の財力と軍事力を引き継いだ事が要因だと語ります。
織田信秀の主家は守護代織田大和守家、その上に織田大和守家が仕える尾張国、守護の斯波家がありました。
斯波家は室町幕府の足利将軍家に跡継ぎ無くば、世継ぎを出す家と定められた名家です。
室町幕府から尾張国、三河国、遠江国の三カ国を与えられた守護職の任務を果たせず破綻させています。
当時の斯波家は織田大和守家の保護下に僅かな領地を与えられ、実権の無い侘しい状況になっていました。
1546年(天文15年)11月下旬
古渡城にて立花家、同盟大名家の諸将50名程が招かれて歓迎の宴が始まりました。
伊勢湾で採れた海の幸が宴席を飾ります。
伊勢海老、真鯛にスズキ、黒鯛の刺身にヒラメの煮付け、サザエ、蛤、鰻の蒲焼き、地鶏のひきずり(地鶏のすき焼き)里芋の味噌煮等が出され、地酒が振る舞われました。
当時の織田家当主、織田信秀は津島湊、熱田湊を支配して河川と海を行き交う交易で財力を蓄えて、尾張守護、斯波家の家臣、守護代織田家の奉行の地位にありながら、尾張国の国内最大の兵力を持っています。
宴席には斯波家の重臣や主家の重臣を招き、総勢200名余りが集まり、権力を示す場になりました。
最近、織田信秀の支援により津島湊の酒蔵が清酒の生産に成功しています。宴席に出された清酒は上質で立花家や同盟大名家の諸将にも好評でした。
立花義秀は織田信秀と杯を交わして互いの躍進の秘訣を語り合いました。
織田信秀が語ったのは信秀の父、織田信定が尾張国最大の商業の中心、津島湊を領有していた事が最大の要因だった事があげられました。
尾張守護の斯波家の家臣、主家の織田大和守家の奉行の地位にありながら巨万の富を築く商才があり、家中最大の軍勢を持っていた事が、発展の元手になりました。さらには先祖代々の官職、弾正忠を世襲して守護や守護代の治世を監視する役目が与えられ、不正があるば取り締まる権限を毅然と行使した事により、尾張国内に不動の地位を築く事になりました。
織田信秀の家系が先祖代々幕府から正式に弾正忠の官位を与えたのか?自称していただけなのかは不明です。少なくとも尾張国内では弾正忠の官位と職務が認められていたのは事実だった様です。
そして8年前に今川家が所有していた那古屋城を自分の手勢だけで奇襲して奪い、付属する周辺の領地を占領した事で、熱田神宮周辺が織田信秀の領地になり、熱田湊を手に入れた事から大きな交易収入が入った事で主家と斯波家を圧倒する存在になった事が知らされました。
「立花殿、父、信定から聞かされた話しですが、尾張国、三河国、遠江国の三カ国の守護、斯波家の治世は乱れ、民を苦しめておりました。
斯波家はやがて統治能力を失い、尾張国内では守護代の織田家が実質的に統治を行いましたが、守護代織田家も勢力争いから分裂、尾張国内は混乱してしまいました。
その為に悪政に困った人々が今川家に救いを求めました。今川家は斯波家の失政を口実に遠江国、三河国を併合、さらに尾張国へ侵攻致しました。
今川軍に尾張国の半分が奪われ、父が苦労して少しずつ旧領回復を計り、我が身が後を引き継ぎました。
今川家に支配された地域は不正が蔓延しており、悪政に苦しむ民を救う必要があります!」
「織田殿、関東も乱れております。
室町幕府から関東の統治を委託された古河公方家と関東管領家が相続争いから戦乱を招き、権力争いに明け暮れました。
最近では武蔵国、上総国、下総国、安房国まで侵略して参りました。立花家は同盟大名家と協力して撃退しましたが、騒乱は長く続く様相にございます」
「そこで、立花殿は上洛なされて朝廷から叙任を受けて新しい将軍家を迎えた幕府と和解なされた。
朝廷と幕府が立花家と同盟大名家の後ろ盾になり、古河公方家と関東管領家の権威は失墜!
立花家は帝に拝謁なされ、新将軍家の就任式や宴席に招かれ、招かれていない古河公方家に関東管領家の面目を失わせた事になりましたな?」
織田信秀は己の見解を明かします。
「ぐははは!良くご存じですな?」
「伊勢神宮から参られた使者から聞き出したのでござる。立花家と伊勢神宮は400年近くも交流が有ると聞いております」
「そうでしたか、伊勢神宮の方々には長いお付き合いがあるので詳しい事も不思議ではありません。
上洛の帰りに伊勢神宮に参拝したのも熱田神宮に参拝した事も神様のお導き、織田信秀殿に出逢えた事も神様のお導きにございましょう。
互いに正義と信じる道に進みましょうぞ!」
立花義秀と織田信秀は酒を呑みながら互いの理解を深めます。織田信秀は年内に尾張国内から今川家の勢力を排除して来年は三河国へ侵攻する準備をしていると語り、その準備には多くの商人が関わる事前工作をしている事がわかりました。
そして織田信秀は自分の後継者に付いて語ります。
「立花殿、我が父、信定は商才が有り、材を成して交易や商売を通じて戦いに備えておりました。
我が身は父からの教えに助けられ、財力と軍事力を駆使して今川家から尾張国を守って参りました。
今の私は35歳、人間がまともに働けるのは50歳迄として残りは15年、この乱世を乗り切るには確かな後継者を育てねばなりません。
長男は庶子にて母方が敵対勢力になり、家臣からの支持を得られる見込みが無い故に後継者から外して津田信広と名乗らせました。次男の信時は父の兄弟の犬山織田家に養子に出しました。
見込みがあるのは嫡男とした三男、信長でございます」
「なるほど、信長殿は12歳の年齢にしては背も高く、眼光鋭く、利発で周囲を威圧する雰囲気を持つ不思議な若者に見えましたな!」
「立花殿、信長は無礼にも見えますが、肝が太く、大人にも萎縮せずに正義を貫く意志を持ち合わせております。
幼き頃より乱暴ですが、信長なら古き権威や、しがらみを破壊して前に進めると信じて後継者にすると決めております!」
織田信秀は早くから信長を後継者に決めていました。
史実で信秀は、6年後に急死します。
諸説ありますが、脳卒中の可能性が高く、遺書を残さずに他界した為に織田家は乱暴者の信長と品行方正な弟、信行が家督を争う事になります。
立花義秀はその事実を知っており、忠告したい気持ちを抑えました。
史実を変えてしまえば歴史の流れが変化して予想しない結果に繋がる可能性があります。
織田信長が弟、織田信行と後継者争いをせず、信行が生き延びた場合、本能寺の変が発生しない可能性がありました。
織田信秀が問いかけます。
「立花殿は後継者を決めておられますか?」
「決めております。長男の義國へ4年後に家督を譲ります。長男には4年後に家督を継ぐ覚悟を諭し、家中にも既に公表しております。
4年後に我が身は60歳、長男の義國は35歳になります。後継者ははっきり決めておらねば必ず争いの種になります!」
立花義秀はこれで織田信秀に助言してしまった事を覚悟しました。
「争いの種…ですな…私が35歳、信長は12歳、信長には常に言い聞かせておりましたが、元服する時には正式に嫡男として!家臣達に後継者として公表いたしましょう!」
織田信秀の家臣の中には粗暴な信長より2歳年下の弟、織田信行を後継者に据える動きがありました。
正室の土田御前が信長を嫌い、弟の信行を溺愛して信長を廃嫡する要求をするほどの事態になっていました。立花義秀の一言が織田信秀の背中を押す事になりました。
「決めました!来年、信長を元服させて嫡男、後継者として初陣を飾らせます!
立花殿の助言に感謝致します!」
しまった!と想いながらも立花義秀の心がスッキリする事になりました。
本能寺の変が有る無し関係無く立花家が強くなっていれば良いと腹を括った瞬間でした。
史実の本能寺の変はこの時から36年後に起こります。その時に立花義秀が生きていたら92歳、生きているか不明です。
しかし、僅かな影響を与えたに違いありません。
歓迎の宴は盛り上がり、織田家や立花家、同盟大名家の諸将は語り合い、深夜まで呑み続けました。
古渡城の宴席は友好を育む事になりました。
将来戦うかもしれない立花家と織田家…
相手を知る良い機会になりました。




